生きることが下手くそなので

恥の多い生涯を送ってきました。

著名な文学者の著名な作品というのはそれなりに読み漁ってきたつもりですが、特に僕が好んだのは太宰治でした。

太宰の文章を初めて読んだのは高校受験の時だったように記憶しています。何かの問題集に『女生徒』が抜粋されていました。
当時から文章を書くはしくれとして一端に批判意識だけは大層で、小説に対する解釈が受験の得点に繋がることには不満がありました。選択肢の中に自分の思うものがなかったり、或いは選択肢のどちらでもあるように思われたり。兎に角自分の意見、考えこそが正義で、それにそぐわないものはみな等しく間違いである。そんな人間でした。
ただ、それは内面のうち攻撃的な一部であって、寧ろ僕の心の大半を占め続けたのは、自分はなんと生きるのが下手な人間であろうかという自己嫌悪でした。

『女生徒』は、そんな自分の臆病な内面を鋭く、でもどこか優しく抉りました。彼女の考えること、放つ言葉に酷く共感したのです。
人の内側をこれほど可憐に――写実的でなく――描けるものなのかと感動して、太宰の作品を漁りました。

学校での僕というのは、それはもう醜いものでした。今風に言えば陰キャで、太宰に言わせれば道化です。ただ、その生きるさまの何が醜いかといえば、その心のうちで誰もかれもを見下していたことに他なりません。
僕は表では平凡で魅力のない人間としてただ存在することに徹し、それと裏腹に心のうちで学校生活を楽しむ人々を軽蔑し、彼らは社会に飼われるつまらない存在であると考えていました。

むろん自分とは崇高で、特別で、多大なる才能をそのうちに秘めていると信じて疑いませんでした。少し大人になった今知ったのは、案外そこにいた誰もがこのような念を抱いていたということです。

恥はそんなものだけにとどまりません。掘り返せばいくらでも見つかる恥の埋蔵金が、このたった19年の間に随分埋められたものだと感じます。


驚いたことに、このnoteでの活動を始めてもう2年が経つようです。

今でも覚えています。高校2年生の2月、いつものように学校をサボって、手持ち無沙汰になって暇つぶしに文章を書き始めました。
学校をサボる日というのは十中八九ナーヴァスな気分の時で、そういう感情から自分語りに満ち満ちた文章、特筆して自己嫌悪に由来した文章を書き上げたのです。

それは、ただの暇つぶしでしかありませんでした。僕はeスポーツが好きで、その業界人として生きること、キラキラとした成功者として生きることへの憧れは当然ありましたが、自分には向いていないと自覚していました。

だからこそ、そんな自分の文章が評価されたことに対して言い知れぬ不安感を抱かずにはいられませんでした。もちろん、大方は、遂に己の才能が正当な評価を貰う日がきたかという高揚感だったのですが。

恐らくインターネットを介しての自分にそんな印象を抱く方はいないと思いますが、これでも色々と悩んでいました。あぁしてみれば、こうしてみれば。そんな風にない頭を捻っては自らの躁鬱に振り回されて全部おじゃんにしました。

僕は、行動力とかコミュニケーション能力とか、そういうものを馬鹿にする質にありました。それを優秀な人間の評価基準に置かれてしまうと、自分は比類なき無能となり下がってしまうからです。

それではいけないと思い続けました。でも、明日の自分に全部の責任を押し付けると眠れない夜をゲームによって凌ぎ、無為な時を貪り続けました。

その間に、いくつか文章を書いて公開してきました。思いがけず多くの人に見ていただいた文章もありました。

ただしその殆どは憂鬱を解消するためのゴミクソで、哀れかな、この文章もその一つであります。

なんせ、こういう文章は書いていてまことに心地がいい。自己を卑下することで自分という存在を他者化できて、その実目を背けているにも関わらず、あたかも己と向き合っているように感じられるのです。自分の考えていること、感じていること。そういうものを直接的に訴えられる。まるで、自分が小説の主人公になったような――それが他者化です――気分に浸ることができるのです。

しかし、こんな文章は本当の他者からすると実につまらない。或いは僕がもっと個性的で、おかしな奴で、類まれなる数奇な運命、波乱万丈な人生を歩んでいればいかにも価値はあるでしょうが、生憎平凡でありきたりな僕の人生はそうではない。そんな人生をまるで大仰なものであるかのように語ることができるのは、偏に積み上げてきた歪な努力によるものでしょう。

つまらないと自覚しながらこのように言葉を綴り続けるのは、どだい無理な話であるかもしれませんが、一度、今に区切りをつけようと思ったからです。

過ぎゆく日々の儚さはこれまで幾度となく謳われてきた事実であります。それはまるで時間というものが儚い存在であるように思われて、実のところ、人間が勝手にそう感じているだけであるとも、ことさらに僕が強調する必要などないことでしょう。

だからこそ、どこかで区切りをつけねばならない。僕を通り越していく風のようなこの時を捕まえて、自分を刻み込まねばならない。

ひとまずここに刻み込むのは、今後意識的にこのような文章を書くことをとりやめるということです。また区切りをつける日まで、鬱によって彩られたこの文章を、僕は書きません。
多分書きたくなる時が掃いて捨てるほどやってくるとは思いますが、それは掃かずに放置してしまいます。

代わりに、今度は己の躁に文章を委ねてしまおうと思うのです。

僕には嫌いなもの、気に入らないものもたくさんありますが、それ以上に好きなこと、やりたいことがぎょうさんあるのです。
それも他者からするとつまらないものかも知れないですが。そんなの今さらだな、と感じてしまいます。


区切りをつけるのは存外大変なことでした。僕は自分の苦しみを知っているので、どうも自身に同情してしまうところがあるのです。
あくまでも時を刻めるのは僕自身だけれど、そこに誰かが力を添えてくださったら。そんな藁にも縋る想いで、Bankomaさんという方にメッセージを送りました。

彼のこのようなツイートを拝見したからです。

なにかきっかけが欲しかったから、というとすごく失礼な物言いにはなってしまいますが、恐らく僕のそういう浅はかな打算も見透かされているような気がします。
ですので、そんな自分に時間を割いてわざわざきっかけを下さった彼に誠意で応えるつもりで、今からまた頑張ろうと思います。

具体的に何をしようかは一切考えていません。ただ、得意なこと、好きなことをやりたいという気持ちです。僕は面白いくらい不器用なので、苦手なことをしては人並みにも届きません。
でも、文章を書くのはたいへん上手です。或いはそうは思われないかもしれませんが、少なくともほかのことをやらせるくらいなら文章を書かせたほうがずっとマシです。

それから人付き合いも、これが一周回ってわらえるくらい下手くそなのです。相手からの厚意は凄く嬉しいものですが、それに己が見合う存在であると思えるような自己肯定感は残念ながら持ち合わせていません。

ですので、あくまで自分らしく、好きなように、楽しいように、苦しみもだえながら頑張っていきます。

今まで自分の文章を読んでくださっていた方々。ありがとうございます。
自意識過剰ですが、すごく重荷に感じる部分がありました。これからは背負えるよう努力します。

これから僕の文章を読んでくださる方々。ありがとうございます。
どんな感情を僕に抱いていただけるかはわかりませんが、できる限り背負えるよう努力します。

僕は文章を書くのがそれだけで好きですが、やっぱり人に読まれるのがもっと好きです。
また読みたくなるような文章を書いて、win-winの関係を築けるよう精進いたします。

僕の好きなことは、文章を書くことです。それを読んでもらうのが同じくらい好きです。そして反応としてスキとかフォローをしてもらうのは、もっと好きです。僕の文章を読んでくださって本当にありがとうございます。