生きる意味について

数少ない友人からふと問いを与えられた。僕の考えを聞いてみたいらしい。

僕も、いくらかこの問いに対する考えを持ちながら一つの文章としてまとめたことはあまりなかったので、良い機会だと、今、筆を執った。

なお、本稿の中であなたと指すのはこの文章を読むすべての人だが、途中でその友人に向けた言葉が出てくる可能性がある。その場合にも特に注釈はいれないと思うので、先にここで喚起しておく。


人の生きる意味とは何か。

これは人類史上未だ一意に答えの定まらない、非常に難解な問いだ。

――いや、果たしてそうだろうか?

我々はこれが難解な問いであるとただ蓋をして、都合の悪い何かから目を背けているのでは。
時に、そう思うことがある。

これは人間の癖であって、何もこの問いに限った行動ではない。
締め切りのギリギリまで課題に手を付けなかったり、動画を一つ見終わってからやらなくてはならないことをしようとしたり。
この社会に生きる多くの人が、およそそれと同じ感覚を以てこの問いに向き合うための機会を失っているとは考えられないだろうか?

そうして考えることなく、或いはひと時考えたのちに答えなど出ないとただ言い訳をして。

みんな、等しく死んでいく。


では、我々ができれば直視を避けたいような、都合の悪いこととは何か?

それは死ぬこと。

――否、明白な事実。

我々は自明な真理を心から受け入れることが得意ではないように思う。それはちょうど若者が働くことを拒むような、世界が自分を中心に回ってはいないことを知るような、そんな心持で、我々は死を捉える。

そして、いつかそれを受け入れる日が来る。それは故意であったり過失であったり様々ではあるけれど、必然的な結果として死は存在する。

死は、生の延長線上に仁王立ちをしていて、我々の訪れる日を今か今かと待ち焦がれている。の、かもしれない。


僕の友人がこの問いを僕にかざした理由はわからない。

もしかしたら、生きることにせいせいしている?もう、死んでしまいたいと思う夜がある?死んでしまえたら、この世界からいなくなってしまえたら、誰も自分のことなんて知らないどこか別の世界へ行けたら――

そんな、悲観的な想いに駆られたのかもしれない。

逆に、ただ純粋なる好奇心のままに考えているのだろうか?

生きるとは何だろう。そこに意味はあるのだろうか、僕たちは何か使命を背負いこの世界に生まれてきたのだろうか。

そんな神秘の世界を覗いて、僕の見る神秘と自分の神秘を見比べたくなったのかもしれない。

まぁべつに、どちらだっていい。

ただ一つだけ。僕にも答えは分からない。それが何より簡潔な僕の答えであると、先に断っておく。

もう一つ断っておくのなら、すごく当たり前のことだけど、意外と忘れがちなことを。

答えがなくても、そこには意味があるのだ。


生物としての人間


生きることを考えたときに、究極的にはあらゆる生が死に結びつくことは誰もが考えることだろう。

人間は死ぬ生き物だ。この事実から、死ぬから人は生き物だ、という極端な主張を導くことは不可能ではない。

生物の定義は、確か高校の授業で習ったはずだ。自己の複製を作り増殖ができる、外界と膜によって区切られている、代謝を行う。

重要なのは、この定義が必ずしも唯物的な真理ではないということだ。これは後述するだろうから、今は詳しく触れない。

僕がここに生物の定義を追加しろといわれたら、それは死ぬことであると言うだろう。科学的には稚拙な考えだろうか?

まぁ、そうかもしれない。

でも、僕らが生きるという概念を創造できたのは、人が死ぬことを知ったからだと考えはできないだろうか?もし、人間が死ぬことがなければ、生きるという概念は生まれなかったに違いない。というか、生まれようがないのだ。

何故人が生きるのかという問いに対して、生物学の導いた一つの仮定が、利己的遺伝子論というものだ。


※本稿の随所で、明らかに特定の本に影響された考えが出てくる。最後に読書案内という形式をとって紹介するので本文中では触れない


僕はこの論を考えるとき、つい目を背けたくなる。あまりにクリティカルな考えで、受け入れがたいのだ。

すごく簡潔に言えば、(そのために少し誤解を招きやすいが)ヒトは遺伝子に操られているというのがこの論の特徴である。

進化論は、生物がある環境に適応するため世代を追うごとに優れた能力を獲得してきたように捉えられがちだ。しかし、それは結果論でしかない。

元々は、遺伝子の突然変異こそが進化の髄である。突然変異した種がしなかった種よりもその環境に適応しており、そのために長生きをして繁殖した。これが結果的に進化と見做されるわけだ。

これをもっともっと、遡って、考えてみる。環境に適応できるように変異した遺伝子は、そうならなかった遺伝子に対し競争優位性を持つ。人間の元とは、そこである。

だから、この論では我々が想像するような人間の生きる意味を考える必要はない。

競争優位性を持った遺伝子が生き残った産物が今の我々であり、我々もまたその偉大なる旅路の一瞬でしかないのだから。



僕は、青が嫌いだ。

夢見がちな若者は青く、隣の芝生も青く、実に地球の7割を覆いつくす海洋さえ、ひどく青い。
青とは若さの現れで、繁栄の象徴で、生命の源泉なのだ。

若さも、繁栄も、生命も、あぁ、なんて退屈で、冗長で、つまらないのだろう。そう思うのだ。

人の生きる意味とは何か?今一度、この問いに立ち返ろう。

この項では、生物学の一つの理論を引用してきて、人とは何かを問い、生きるとは何かを考えた。

もちろん人というのが生物学的仮定に依存する存在ではないにせよ、生物学的見解が広く一般論と考えられていることは誤りではない。

僕が青を嫌うのは、自己嫌悪である。反対に僕は、赤と黒が好きだ。どちらも心をドキドキさせる色だと思うからだ。

さて、こんな個人の趣向にさえ競争優位性など存在するのか?僕たちの好む好まざるは、人の生きる意味に直結するのか?

あまり、そうは思えない。野菜嫌いだって普通に生活しているし、異性が好きな積極的な人の人生は、充実しているように見えなくもない。

だから、もっと違う視点でも生きる意味を考えてみよう。


社会的動物としての人間


そもそも、意味とは何だろうか?

人の生きる意味を考えるのなら、こういった価値論的な視点に立つこともあるだろう。

一つ、わかりやすい例を挙げてみよう。

近年、学歴社会という単語を耳にする機会は増えただろう。或いはこれまで僕がそういうことに一切の関心がなかったゆえに最近知っただけなのかもしれないが、日本の人々が(表面上は)豊かになり、(表面上は)平等な競争の場に立って社会を生きるようになるにつれ、キャリアや生涯年収への関心も高まっていく傾向にある。これはその他の要因の関与も勿論あるが。

そういった一つの価値あるもの、学歴が形成されると、これに対しての様々な論点もまた表にその姿を現し始める。


さて、あなたは学歴が必要だと思うだろうか?


必要だとするのは、それが努力の賜物で実力の証明になるから、純粋に頭が良いから、など。
不要だとするのは、教育の格差の問題であったり勉強という行為に対する得手不得手、勉強することで習得できる能力がビジネスの場で必ずしも重要でないから、など。

敢えて僕の考えを書きはしないが、僕がここで言いたいのは、これらが明らかな答えを持った問いではないということだ。

学歴は確かにその人の能力や努力を示す。そういう過去を評価するのは大事だし、そういった勉強に限った能力以外の面でも努力をしている人はたくさんいて、それらの能力も評価されてしかるべきである。

どちらも、正しいのだ。

これが価値論の髄であると言っても過言ではない。

意味とは何か?

それは、価値を持った「何か」で、価値とは、その人の経験や思考によって生み出された「何か」を判断する基準である。

人間の生きる意味とは何か?

それは、その人が何を目的として、何を成そうとしているかの価値観に依存する。

少し皮肉めいた言葉にはなってしまうが、評価される人というのは、その成したいものが他者にとって広義において都合のいいものである場合が多い。

まぁ、それが悪いわけじゃないけど、評価されないから価値がないわけではないということは、忘れずにいてほしい。



あなたは、結構自分とは何かという問いについて考える機会が多いだろう。

勝手な憶測だが、一応根拠はある。

社会というものが複雑に分離していき制度が高次なものとなっていく過程においては仕方のないことだが、人は、己が己であることを演じなければならない宿命に縛られている。

家庭の中での自分、学校での自分、後輩の前での自分、先輩の前での自分、親の前での自分、友達の前での自分。

こんなことを言うと少し辛辣かもしれないが、あなたは大衆の平均と比べて、自分を大きく見せようとしやすい傾向にある。

それは、自分に自信がないから。自分の弱さを、愚かさを、馬鹿さを、誰より知っていて、ただそれが知られたくなくて、少しでも悟られたくなくて。

そうやって嘘を吐いてしまう自分が、時々、いやになるのだ。

どの自分が本当の自分なのか?自分の意思とは何なのか?俺は、世界でたった一人で、永遠にこの孤独に、満たされない感情に、苦しまされなければならないのか?

まぁこれは、僕のことなのだけど。僕にわざわざ優しくして、お前にはそういう才能があるなんて真っ当に認めてくれるモノ好きはだいたい、こういう感情を抱きやすい。多分、似てるところをお互い感じるんだ。

どっちにだって上と下がないって、すごく素敵だと僕は思っている。


人の生きる意味とは何か?それは、社会的に成功して大衆に認められることではないのか、価値のある人間になって人の役に立つことではないのか?

そういう、社会的価値の観点から人の生きる意味を導き出すこともできる。

ヒトは社会的動物であるとアリストテレスは語った。結局僕らは自分たちの作った掌の上で踊り明け暮れる有象無象なのだろうか。

稀に、社会に支配されたくない、社会から抜け出したい、と逃避して、一人農耕生活や或いはもっと違う突飛な生活を送る人を、メディアで見かけはしないだろうか?

社会に支配されない人生、社会的な価値に依存しない人生。それを目の当たりにして、あなたはどう感じるだろう。

そうありたい?それとも、全く別世界の風景のように見える?

前項の進化論的に考えるなら、こういった人々はますます異端になっていくだろう。我々がこれまで生き延びてきたのは、社会という仕組みを自分たちで作り上げてきたからで、我々の中には社会的動物としての遺伝子が宿っているのだから。


さて、わざわざそういった人々の話題を出したのは、社会から逃れることの是非や妥当性に言及するためではない。その実、メディアで、というのがツボである。

社会とは、あらゆる情報で支配されている。世界には自分以外にも何十億という人が生きていて、そのそれぞれに、文化や環境に基づいた社会がある。

僕たちが宇宙人から見た宇宙人であるように、この広い世界の中で自分の常識なんて、これっぽちも通用しない。僕たちはこの広い世界のすべてを知ることが、自分ひとりではできない。

だから、メディアがある。情報を他者に伝えるための方法がある。

でも、これも忘れないでいてほしい。

そうして得られる情報が、何かを経由した情報だということを。

どれほど解像度の高い映像も、音質の良い音声も、あくまで映像で、音声だということを。

まぁ、すべてを否定するつもりはないのだけれど。


解釈としての人間


さて、ここまでに二つ、生物学的な生きる意味と価値論的な生きる意味を考えてみた。

どちらの学問についても僕は詳しいわけではないから、間違っているところやあいまいなところが、とても多いことだろう。

この問いに答えるに際して、何度か書き直しをした。あるものは僕の考えだけを先行させた為にボツになり、またあるものはまとまりもなく幾つもの論を並行させて収拾がつかなくなり、ボツとなった。

だから、分かり易い論を二つだけ述べてみて、最後に僕の主張を書こうと思って、この文章ができた。今のところ本稿は採用される見込みが高いので、ようやくこの作業に終わりが見えたと安堵している。

では、最終項へ移ろう。


僕は前々から、人の器官の中で一番大事なのは心だと信じている。

果たして心を器官と呼んでいいのかはわからないが、少なくとも心は人の中に確かにあって、それが非常に重要な役割を果たしていると僕は思う。

それから、僕は世の中のすべてが合理的なものだと思う。行動心理学は人の行動は時に合理的でないと示すが、僕は合理的なもの、というのが誤認されているように感じる。

僕たちはしばしば、この世界には確かな真実があって、その真理によって人は生きていると考える。

生物学的には人が生きるのは繁殖のため、価値論的には他者や自分の評価のため。

人間という生物は元々は前者のために生きていて、社会ができて、その社会の中で生きるうちに、後者のような生きる意味が生み出されてきた。

ここまでを総論すると、合理的にはこういった主張が僕の考えのように思えるかもしれない。


でも、違う。

僕は、この世界が唯一の真理によって支配されているとは考えない。この世界は無数の理論と方法に彩られて存在していて、今ここにいる自分が確かな、唯一無二の自分などではないと思う。

昨日まで考えていたことと今日の考えが一致しない。ついさっきまでやりたかったことが、今はすっかり退屈なことのように思える。10歳の僕と、20歳の僕は、全然違う。

僕たちは、それでも生きなければならない。時に何もかもが嫌になったり、もう死んでしまいたくなったり。或いはそうして失われた命だって、この世界にはあるかもしれない。

どうして僕は生きているんだろう?

僕たちは、その答えを求める。でも、実際この世界にその答えなんてものはないのだ。それでも僕たちは、答えを求めることが無駄だとは、きっと思わない。

ある答えが見つかって、これが自分の生きる意味だと思ったとき。どうせ答えなんて見つからないって思ったとき。

僕たちは、答えを探していた自分とは違う自分になる。

課題をやらなければならないと焦っていた僕と、課題が終わってゲームをする僕がまるで別の人間であるように。


要するに僕は、生きる意味とは解釈の問題だと思っているわけだ。

メディアの話で触れたように、僕たちの得る情報というのは絶えず解釈され続ける。メディアを通して得る情報は、誰かが解釈した情報である。

そしてそれは、自分の目で見た情報、耳で聞いた情報についてもまったく同様なのである。

同じ景色を見た時でも、ある人はその美しさを全身で感じることに集中し、またある人は歴史的・地理的な背景に想いを馳せるかもしれない。同じ現象を体験した時でも、ある人はそれが今この場で起こった過程について考えるかもしれないし、またある人は同じ条件がそろえば普遍的に同じことが起こるのかを考えるかもしれない。

そうやって、解釈され続ける世界を僕たちは生きる。

自分が自分であると、ただ解釈し続けながら。

生きる意味とは、自分の考え方次第だ。自分の信じられるものを信じればいいし、信じたいものを信じればいい。それを他者に説明して納得させてもいいし、他者のことなんて気にせずこれは自分の信念だと割り切って信じ続けてもいい。

僕はそれこそが何より合理的な世界の在り方だと思っている。


ただ、これだとあまりに抽象的すぎる回答になってしまうので、最後にそれなりにタメになる(かもしれない)ことを書いておこう。

前項で、学歴の例を挙げた。この社会で生きる人々にとって、この学歴がただの過程である、というのは分かりきったことのハズだ。

良い中学校に入っても、良い高校に入っても、最後は良い大学に行かなければ。いやしかし、よい大学に入っても、よい就職先に就かなければ意味がない。だがしかし、よい仕事に就けたとしてもよいキャリアを、よい成績を、よい家を、よい家族を。定年退職した後も、よい老後を、よいものを、よいものを、よいものを。

僕たちは自らが「よいもの」と解釈する何かを、絶えず追い続ける。

そういった人生があまりにも滑稽で、みすぼらしいものだと思うだろうか?

人生の価値は、生きている間には解釈できないものだ。何故なら、人が死ぬその時まで僕たちは永遠に過程の中にあるのだから。

そういった一生がひどく儚く、しょうもないものだと思うだろうか?


たった二つ、僕が信じてもいいと思うこの世界の真理とは、僕が今生きていること、そしていつか死ぬことだけだ。

いつか死ぬその日まで、これが過程であると甘んじて生を享受すればいい。

その中で自分が何を信じ、どう解釈するのか。

人の生きる意味とは、そういうことだと僕は思う。


読書案内


恐らくこの文章は大した参考にはならないことだろう。実際僕はほとんど無知で、無知なりに、人の生きる意味について考えただけなのだ。

時々、なぜそんなに本を読むのか聞かれることがある。実際、自分でもあんまりわからない。

でも、本を読むことで僕は自分の世界が広がる気がする。
大概の理論というのは、説明されれば意味がわかるものだ。僕が本を読んで筆者の考えを理解するときには、二つのうちどちらかの想いを抱く。

一つは、自分と同じことを考えていた人が先にいたのか、というものだ。これは少しの安堵と、少しの悔しさを包含した複雑な感情である。

もう一つは、そんな考えがあったのか、というものだ。これは大きな衝撃と、大きな好奇心を包含した神秘なる感情である。

ここに読書案内として紹介する本を選んだ基準は、本文中の考えを分かりやすくしたもの、詳しくしたものであるかだ。

しかし、それだけでもない。

あくまで解釈することを大切にしたい僕は、その本の中立性とか社会からの評価を気にしながら選んだ。

高く評価される本が良い本であると断言はできないが、多くの読み手に読まれる本というのは、それに対する絶対的な信服を防ぐという点で、優れていると考えている。

そのため、あなたはここで紹介する本をすでに全部知っているかもしれないが、まぁそれは許してほしい。


福岡伸一 『生物と無生物の間』

これは生物の定義云々のところで話した内容を補足できるのではないかな、と。本自体が非常に読みやすいし、生物学は生きる意味を考える上で切っても切れない存在なので、一度読んでみてもいいと思う。

リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』

こちらは非常に有名な本である。これはまぁ、本文でも利己的遺伝子論について述べたので、当然この本の影響を受けたのだということは容易に想像できるだろう。
難解であって僕も真に読破したとは胸を張って言えないが、読んだことがなければ一度読んでみることをオススメする。

ユヴァル・ノア・ハラリ 『ホモサピエンス』

こちらは、利己的な遺伝子よりもさらに有名な一冊ではなかろうか。時々、学ぶことは世界の解像度を上げることだという主張を耳にするが、この本を読んだときに抱く感想はまさしくそのような想いなのではないか、と考えている。読んでいてワクワクする本というのは、それだけで優れている本であると僕は思う。その点でもこの本はオススメである。

エーリッヒ・フロム 『生きるということ』

こちらは本稿の中でも特にタイトルが気になった人には絶対読んでみてほしい一冊である。フロムの作品はどれも素晴らしいが、その素晴らしさは彼の洞察の鋭さにあるのではなかろうか(むろん優れた作品とはみなそうであるが)。この本については、読んでみてほしい、という願望も含まれている。

スティーブン・ホーキング 『ビッグクエスチョン』

僕はあまり人のことを尊敬しない質なのだが、尊敬する人物は?と聞かれたとき、間違いなく彼の名前を挙げるだろう。ホーキングの著作はどれも素晴らしい。それは理論の秀逸さや彼の頭脳の明晰さではない。彼が誰よりも誠意をもって世界と相対し、また、僕たちに対してだれより誠実に向き合っていると思えるからだ。そんなホーキングの文章を読んでみたいと思ってくれたなら、彼の遺作となってしまったこの本を最初に読んでほしい。きっと僕の言いたいことが分かるはずだ。

中島義道 『生きるのも死ぬのもイヤなきみへ』

この一冊を推薦するのは、思い出補正によるところも大きい。僕が小説家を志し始めた中学の頃、何度も思い悩むことがあった。この本のタイトルは非常に心に響き、即決で買ったものだ。そうして、哲学という学問がいかに難解で興味深いのかを、馬鹿なりに感慨深く思った。本自体はとっても薄いので、簡単に読める。ぜひ読んでみてほしい。

鷲田清一 『自分・この不思議な存在』

こちらも思い出補正がかかっている本かもしれない。高校の頃、自暴自棄に陥って図書室の哲学コーナーの本を読み漁った時期があるが、その時最初に読んだのがこの本だ。先ほど出た中島義道と鷲田清一の両名は、この読書案内の冒頭で述べた理由に基づいても、読み漁ってみるにはちょうどいいかもしれない。

伊藤計劃 『ハーモニー』

現代において哲学的なものの見方をかじると、必然的に科学とは何か、と考えだしてしまうだろう。そうなった際に、僕はSFを読むのがすごく楽しくなるんじゃないかと思う。SFはもちろんその設定や主張を純粋に楽しむのも粋だが、すべてをフィクションで終わらせられない部分がワクワクするんじゃないだろうか。本書はSFのくせにとても読みやすいし、内容も本稿の問いに関係するので、SFになんとなくとっつきにくさを感じているならこの本から読んでみるといいかもしれない。

太宰治 『女生徒』

これは完全に僕の趣味であるが、SFを推薦してしまったのでもういいか、と思い最後にこの作品を書いた。僕が読んできた中でも特に気に入った作品の一つなので、単純なオススメとして書き記す。


以上で、本稿は終わりである。

ほんの少しでも面白いと感じて貰えたら書いた甲斐があったというものだ。

逆に僕にオススメの本とか、反抗的な異議申し立てとか、単純な疑問とか、なんでもいいから言ってくれると、凄く嬉しい。

僕の好きなことは、文章を書くことです。それを読んでもらうのが同じくらい好きです。そして反応としてスキとかフォローをしてもらうのは、もっと好きです。僕の文章を読んでくださって本当にありがとうございます。