読蜥蜴の毒読日記 24/3/22 ①

小説番外地 #1

ウィリアム・ゴイエン 『息づく家』(1949)
“The House of Breath” by William Goyen(Dzanc Books 2014 電書版)


“The House of Breath”  by William Goyen (Dzanc Books 2014 電書版)

 私の2024年初読書はこの作品でした。
 1月に読了したのですが、余りも驚愕したため、長いことレビューを書けずにいました。 なにしろ今までにお目にかかったことがないほど、異様な表現方法をとり、そこに妥協がない小説だったので。
 
 そんな奇妙な小説 『息づく家』はこう始まります

『……そして私は雨の中を歩きに歩いたが雨はいつしか霙になり、私は濡れそぼち凍えた。公園にさしかかるとそこはまさに地獄の牧場の様で、暗がりでカップルたちが囁き合い、皆でその夜の世界を暖かくしようと企んでいた。パブリック・スペースにはいるとどの壁にも預言が描かれたり書かれたりしていた。そこを出ると独りきりで、私は行く当てもないと感じた。帰るべき家もなく、何もかも奪われてしまったのだ、持ったことはなくても手に入れようと夢見ていた物を。真夜中に勝ち誇る他の連中と永遠にしくじり続ける私自身にさえ嘲られている。名前のない苦悶で名前を奪われ、自分の過去も剥ぎ取られてしまった。また裏切られたのだ。
 それでも私の脳には幾つもの壁があり、フレスコ画が描かれてる。天使がバレリーナの様に跪き、葡萄の蔓のワンドを手に受胎告知をしている画。庭園における苦悶の画。追放される二人の恋人の画。そして私の脳の天蓋の上には、創造と呪詛が、審判が、天国と地獄があるのだ。(私たちは人生と伝説を運んでいるのだ。人の頭蓋の壁に描かれた見られることのないフレスコ画を、誰が知るというのか?)
 そして私は公園のビルの冷たく湿った壁を背に立ちすくみ、濡れた壁に凭れて滑り落ちた、死を願い、闇の中蹲った。顔また顔が私を通り過ぎる、私の頭上を、雨で滲んだ街灯の月の下を、何処かに向かう船の舳先の様に――その顔を濡らす雨の美しさよ――そして私以外の皆は公園で誰かに会い、雨の滴る木々の下から去っていく、人々は塗れた落ち葉の上を歩き回っている。そして私は呪詛の中で思う 皆が通り過ぎるなか、私は沈んでいく、顔たちの下に、船の舳先の下に 
 するとまた声が聞こえてくる(家にお帰り、灯りは点いているよ、家にお帰り、ベン・ベリマン。私は嬉しいよ、お前がたっぷりひどい目にあって、また家に戻ってくるのが、私は憂鬱で不安なんだ、水も呑み込めないほどさ)(スウィマ、あああ! スウィマ あああ! 帰っておいで 日の暮れる前に……)(沈みゆく人々に 助け船を漕ぎだせよ)』

 ここで読者は考えます。この「私」とは誰なのか? ベン・べリマンと「声」に呼ばれているが、そういう名前の語り手なのか?
 恐ろしいことに、そこは判然としません。
 なぜならこの小説を満たすのは、語り手の視点ではなく、その記憶に流れ込み、そこを満たし溢れ出る誰かの「声」だからです。

 その「声」が語るのは、アメリカ南部のチャリティという田舎町に住む、ありふれた家族たちの物語です。ある者は田舎町に埋もれ、ある者は町を離れ都会に出ていく。ここで語られる事柄自体は、世にありふれたものにすぎません。
 だが、それを誰かの「声」が語る時、それは今までに読んだことのないようなインパクトを孕んで読者を圧倒します。なぜなら、その「声」が、通常の小説の規範を遥かに外れたものだからです。

 先の引用で分かる通り、この小説は冒頭で「私」の頭の中に「声」が鳴り響くところから始まります。
 その「声」は、その声で語るある語り手を召喚し、そしてその語り手はある物語を語りかけます。ですがそこでその語り手に誰かの「声」が聞こえ始めるのです。誰かが聴いている「声」を発する語り手の記憶の中に聴こえ始める誰かの「声」を発する誰かに聴こえてくる「声」。そしてその誰かの記憶の中にまた誰かの「声」響き、また別の人生を語り始める。始まりも終わりもなく溶けてゆく「声」。
 そう、この小説はその無数の語り手による声の連なりとして書かれているのです。
 しかしその「声」とは何なのか?
 それは「息」だ、とある「声」は語ります。
「……私は何か話すことはなかった、ただ待っているだけだった、何かが話すのを、この家の呼吸が私に吹き込む話を」

 この主人公のいない小説の中心に据えられているのは、ある家です。そこはもはや廃墟であり、誰も住んではいないようなのですが、しかしそこには無数の記憶が蓄えられ、その家が息をするとき、そこで「声」が発せられるのです。誰が語っているのか、誰が聴いているのかも判然としない声。そしてこの小説はその『息づく家』が発する声だけで創り上げられているようなのです。
 そしてさらに怖ろしいことに、その「家」自体が誰かの「声」が語る記憶の中にしか存在しないようなのです。思い出を語る「声」の起源自体が「声」の記憶の内にしか存在しない「小説」。

 勿論、語り手の語りだけで、つまり「声」だけで書かれた小説なら枚挙にいとまがありません。ただこの『息づく家』が突出しているのは、小説の「語り手」や「視点」を小説表現の下位におき、全てを「声」が司っている点です。その時、その「声」が何を語り何を描写しているかだけが全てであり、誰が話し、誰が聴いているのかは主たる問題にならなくなります。それで小説が書けるのか、と思われるでしょうが、この作品でゴイエンはそれをやってのけたわけです。小説表現を臨界点にまで高めた作品だと思います。

 20世紀小説の批評タームの一つに「信頼できない語り手」というのがあります。メインストリームの文芸作からミステリやファンタジーといったジャンル小説まで、便利に使えるタームです。しかしどこか胡散臭い表現だな、と個人的に感じてきました。
 何故そう感じてきたのか、ゴイエンを読んで分かりました。この作品で、ゴイエンという鬼才は「語り手」なる者を小説内で意図的に無効化し、それでも小説が成立することを示してみせたのですから。
 もちろん「信頼できない語り手」という批評タームが無効になることはないでしょう。
 ですが、そこで「信頼できない」のは「語り手」なる小説システム自体なのだ、ということがこの作品いよって理解できるのです。私の違和感の原因は小説の表現システム自体にあったわけです。

 かくして、ゴイエンの『息づく家』という作品を読むことで、私の小説観は衝撃を受け、少なからず変容しました。それは本作が小説表現の根幹とその限界に挑んだ作品だからだ、と私は考えます。私も人が読まないような小説をけっこう読んでいますが、なかなかこんな読書体験はしないものです。

 そんな物言いは大げさだろう、と言う方にはぜひこの『息づく家』をご一読願いたいものです。少なくともこれが群を抜いて異様な小説であることは分かっていただけると思います。

ゴイエンは、本国アメリカでも一部から高く評価されてはいますが、決してポピュラーな作家ではありません。しかしこの『息づく家』という一作だけとってみても、ゴイエンが戦後アメリカ小説の最前線を切り開いた作家であることは明白であると思います。
 この作品と作家はいずれ戦後日本小説史における『死霊』のような地位と人気をアメリカ文学史に占めるはずです。

 そしていつの日か、この美しい小説がしかるべき訳者によるしかるべき翻訳で本邦に紹介され、ゴイエンがの本でもしかるべき評価を得られるといい。心の底からそう思います。

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