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「迷惑」ということ

いっとき日本のネットで、こんな話題がバズったことがある。

日本では子供の頃から人に迷惑をかけないようにと言われて育つ。
 一方、インドでは〝お前は人に迷惑をかけて生きてるのだから、人の迷惑も許してあげなさい〟と言われて育つ。

あまりによくできた話なので都市伝説かと思った人もいるだろうけど、事実みたいです。
ただ、少しニュアンスが違うみたいですが。

ずっと以前、ある日本人のエッセイに、「親から『せいぜい迷惑をかけてこい』と言われて育った」と書いてあるのを読んで、拙者は大いに受けたw
いや〜、こっちの方がずっといいね、教訓としてもクールだしw
子供だった筆者も、「どうやったら人に迷惑かけられるだろ?」と考える人間になったのではあるまいか。知らんけど。

ただ、迷惑ってのは、意外と相対的かつ流動的なもので、そもそも何が迷惑かなんて固定された定義があるわけじゃない。
だのに、道徳律なるものは、それをガッチリ単純に固定してるんだよね。

かく云う身共自身も20代の頃はまだそこのところがよくわかってなくて、貧乏徒歩旅の途上とかで過分の親切を受けたりすると、いつも「迷惑かけちゃったなぁ」と内心深く恐縮していた。

特に恐縮したのが、南のとある島で、あるお宅に一月近くもお世話になったことがあってさ、あの時のことは今でもありありと覚えている。
何処の馬の骨ともわからない風来坊なのに、なんとなく半分家族みたいな感じで居候させてくれて、地元のいろんな人に紹介して話を聞く機会を作ってくれたりしてるうちに、一月が経ってしまった。

だけど、流石の拙者も、もういい加減で出ていかなきゃなぁと思って、ある日、そこの奥さんに「本当に長い間ご迷惑かけて何もお礼もできなくて申し訳ないです」っていう風なことを言ったら、「なぁに、誰もなんも迷惑とは思ちょらんとよ。一緒にいてくれてほんに楽しかったとな。お礼なんか心配いらんけん、また気が向いたら誰かに親切にしてあげてくれたらよかとよ」と言われてハッとして胸が熱くなった。

いやぁ、ええ話ですなぁ。。。しみじみ

しかし、これにはちょっとした後日談があって、その後また別の今度は小さな離れ小島で、またしばらく滞在してた時のこと。
久しぶりに今話したお宅に近況をお知らせしようとか思って電話(家電)してみると、奥さんじゃなくてお嬢さんが出て、いきなり「どこで何してんのよ?!」と言うんで、現状をお話しすると、「その島はね、ここと違って物資も乏しいところなのよ。あんた、すっごい迷惑かけてんのよ、そこにいるだけで!」と叱られてしまった。

だな。
迷惑って、難しいよな。。。

そう、迷惑も親切も思いやりも愛も恋も、何もかも一筋縄でいくものではないのだ。
でも、そうやっていろんな思いや感情や思惑なんかを介して関わり合いを持っていくにつれ、自己と他者とのエゴ同士が接したり触れ合ったり融合したり離反したりしていき、自己というものが広がりを持っていくんだと思う。

そしてそれぞれの自己の基本のところには、人それぞれの「人間スケール」みたいなものがあるんじゃないかな。
だから、魂だとか、死後の生命だとか、いろんなことを言ってるけれども、みんなそれぞれ一体どの範囲の自己ことを想定してるんだろうか?とよく思う。

例えばあなたならあなたの「自己」だけが浦島太郎みたいに超長生きして生き残れればOKなのだろうか。
ね?
それじゃつまんないよね。
虚しいというか。。。

これまで親切にされたり、迷惑をかけたり、親切にしたり、迷惑をかけられたり、いろんな形で関わってきた人たちとその関係性をも含めたものが「自己」なんじゃないかな?と拙者は思うが、あなたはどう思います?

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