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「匂いたつ」

 「花仙人」松岡享子・福音館書店

  昔、中国の長楽村という小さな村に、秋先と言う名の老人が住んでいた。「花きちがい」と呼ばれるほどの花好きで、珍しい花があれば、金があろうとなかろうと花を買い、いつしか秋先の庭は見事な花園になった。
 秋先の一日は花と共にあった。花の一本一本に丁寧に水をやり、蕾が開きかけている花があれば酒や茶をお供えした。「花万歳」と三声繰り返し、花が咲くのを静かに待った。花がしぼむ時は涙を流し、散った花びらを集めて瓶に入れ、お酒を供えて「花のお弔い」をした。何よりも花が大事だったので、花が折られるのを怖れるあまり、決して人を招かなかった。
 ある日、張委というならず者が、手下を引き連れて庭に押し入り、秋先が丹精こめた花をめちゃめちゃにしてしまう。へし折られ、花びらをむしりとられた花の前で、嘆き悲しむ秋先。そこに美しい娘が現われて、「落下返枝の術」を施す。花々は見事に生き返り、秋先は今までの自分の心の狭さを恥じて、庭を村人たちに開放する。ところが張委の策略で、秋先は妖術使いの咎で牢に入れられてしまう。最後は、美しい花の精によってならず者たちには天罰が下り、秋先は、花仙人になって天に昇る。
 初めから終いまで、美しい牡丹の花のイメージとかぐわしい香りが立ち込める。勧善懲悪のあらすじに、ほっと安堵のため息が漏れる。中国の画家、蔡皋(さいこう)さんが美しい絵を描いたこの絵本では、花の精も牡丹の花も、柔らかくあでやか。桃源郷を思わせる中国の山村の風景が、夢のように再現されている。
 昔、松岡享子さんの「花仙人」の語りを聞いた。東京子ども図書館のお話会だったかどこかの講習会だったか。その時は牡丹の花よりなぜか菊が思い浮かんだ。菊の香りの中にいた記憶が強いので、季節は晩秋だったのだろう。
松岡さんの語りを聞きながら、私は子供の頃に読んだ「中国昔話」の中の菊の精の物語を同時に思い出していた。それで、菊の花の記憶が重なってしまったのかもしれない。
牡丹にしろ菊にしろ、子どもの頃は、その匂いも佇まいも好きではなかった。どちらも花というよりは、人くささが感じられ、見ていて居心地悪かった。花を見るより、花に見られているような。
菊も牡丹も丹精こめて育てられ愛でられる花だ。花に人の思いが乗り移ってしまうのだろうか。花が人の姿になって現れる情の濃い昔話は、牡丹や菊にこそ似合う。他の花では弱すぎたり恐すぎたりで、さまにならない気がする。
隣家の年配の御主人が、秋になると見事な菊を育てていらした。菊の手入れをする丁寧な仕草と幸せそうな姿を、秋になると思い出す。今はその方も亡くなってしまい、軒下に空の鉢だけが伏せてある。
松岡さんは、子どもの頃読んだ『花仙人』の情景を、その空気や色まで大人になっても心に持ち続けていらした。初めて中国を訪れた時、懐かしさを覚え、思わず「この空気知ってる」とつぶやいたのは、幼い日に本を通して中国を知って親しみを覚えていたからだとおっしゃっている。愛の種を蒔くのは、早ければ早いほどいい。幼い心に宿った親しみのイメージは、大人になっても枯れる事はないだろう。「花を愛する人には不思議なことが起こるものだ」とも言われる。人間世界を超えた場所への扉が開くからだろう。花鳥風月を愛でる。自然、宇宙へと愛が拡がる。ならば、いくつもの扉が開き、不思議な事は次々と起きるだろう。

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