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自分のために、親の断捨離を手伝う①

こんにちは、
差し迫る生徒さんの資格試験にてんやわんやな在宅ワーク先生です。

今日は、高齢の家族の終活や断捨離についての着物編です。

刺さる方には刺さるお話。
どうぞご参考までにご一読ください。


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70歳オーバーの我が母が、彼女の実家の遺産を家ごと相続して3年が経過した。

当初この家には、曽祖父の読めもしない日記から、祖父母の衣類やアルバム、生活用品、訳の分からない数のクローン生産の皿や壺まで、何でも丸投げされて残されていていた。

家だけは引っ越すと決めた段階で、ほぼ大型家具は全捨て。
そうしてやっと居住スペースのリフォームが出来た。
そんな家に家族3人で本格的に越すため、お金も時間も精神力も、どれも並大抵ではないほど使った。
この時点でお金の力でかなりの処分を行った。

そして、住み始めてまる2年。
そろそろ、やっかいな思い入れ系遺品を処理をする時がやってきた。

この家の前の家主は伯母。
彼女は長女で、独身を通し亡くなった。

経済状態は恵まれていた伯母だったので、好きな着物や服、カバンなどを生前購入し、すごい量が残されていた。

その中でも特筆すべきは、着物。

一口に着物と言っても、一枚では済まないのが着物なのだ。
着物とは、着るために数多くの細分化された小物類を必要とする民族衣装であり、着付ける際には


長襦袢、
帯、帯板
コーリンベルト、
帯締め、
伊達締め、
専用下着、
補正下着、
帯揚げ、
帯紐、
ショール、
雨コート、
下駄、草履、
仮紐、半衿
羽織
などなどほんの一部。


私も一時期着物にハマっていたのでよくわかる。
多い。
たくさんの小物類の力を借りて、やっと一枚着れるシロモノだ。
とにかく、これら含め何でもかさばって収納に悩む。
そして、ほとんどが絹製品なため、着物本体と同様、防虫剤を湯水の如く使う金食い虫。
それが着物という趣味なのだ。

伯母は汗かきで、冠婚葬祭以外は着もしないのに、好きという理由だけで、しつけ糸のついたままのものを数百枚も所持していた。

数を一応見ておくかと、唯一残した和ダンスを開けてしまった私は、その量と封印されたような雰囲気に心がやられた。

母はもちろん、大好きだった姉の着物や服を、なかなか手放したがらない。
しかし、
伯母の死から5年、
引っ越しから既に2年もたっている。
そろそろ、決断してもらわないとまずい。


手放せない気持ちはわかる。

私も鬼ではないし、
数枚厳選して取っておけばいいのだと、なんとか説得して尻を叩き、作業を始めた。

が、その数枚という約束は、いとも簡単に眼の前ですぐに数十枚に膨れていく。

ここで二度目の心の骨折と、ちょっともう言ってしまうと怒りが来た。

何十年も忘れられ、潔く処分してスペースに風を通したほうが、家や家族のためと、母には理解して欲しかった。
心を切り替え、頑張ってほしかった。
こらからの母自身のためにも。

それを、分かって欲しかった。

私だって、本当はつらい。
人の残したホコリの被った着物類を、自分がホコリまみれになりながら処分しても、だれも褒めてくれない。
それなのに、母にとって私が悪者になっている感覚が悲しかった。

やはり70歳を超えると、亡くなった身内の品という愛着に縛られすぎている。
思い出すべてをとっておきたい考え。
それを変える柔軟性がない。

親が一日でも若いうちに、終活、断捨離すべきだと思った。

それに強迫性障害で潔癖の私が、このカビ臭い着物部屋にいられるのは時間に限りがある。

こうなったら、見本を見せるしかないと思った。

まずは一階にある、自分の着物や小物を、少し残して全捨てすることに決めた。

作家ものや正絹のもの、刺繍のもの、とにかく容赦なく捨てた。
処分して、場所を開ける事に徹した。
どこかに売却という手は時間も手間もかかるため、この場合論外だ。

とにかく潔く、早く手から放す。
自分は着物の趣味をやめると決めている。
こうして私のタンスは10分で終わった。

私が残したのは、
成人式の本振袖。長襦袢。
立涌文様の桃色の鳳凰柄の本振袖。
流水紋の訪問着。長襦袢。
佐賀錦の帯、2本。
流水紋の名古屋帯一本。
夏の紗の着物一枚。
夏の帯一本。
着付け小物1種ずつ。

まあ、書いてしまうとかなり残してあるように見える。
でも処分した着物や帯の量は、
フィッツケース(大)が6つ空いたほどだ。
かなり持っていた。
認める。

結論、私も人のことを言えたものではなかった。

まだ結婚への希望を一応捨ててないので、本振袖と佐賀錦の帯は、諸々の行事のために一応残した。

さて、それを見た母は、がぜんやる気を出してくれ、まずタンスから出て山積みされている(この時点で、頭が痛い)たとう紙にくるまれた着物の山から手を付けた。

これだけで、百枚近くあったか。

たとう紙を開けてみると、伯母と祖母の着物が半々。

母には気の毒だった。
親と親代わりの姉の遺品に、まとめて立ち向うことになった。

伯母の手編みのショールなど、母がどうしても手放せないものはあった。
しかしそばで見ていると、明らかに要不要の決心が最初より早くなっている。

頭ごなしに母に言っても、絶対にうまく行かないのだ。
私は少し、賢くなった気がした。

そして、山積み品もだいたい9割がゴミ判定された頃に、一番下のケースが顔を出した。
開けるのも気が引ける、最下層の眠れるケース。

軽くホラーである。
が、開けてみるしかない。

パカリと蓋をはずすと、そこには男物の羽織袴のセットが、春夏用10人分以上出てきた。

うちは貧乏だったはずだけど???

それが、開口一番の感想だった。

大正生まれの祖父はしがない役場務め。
当時は公務員も薄給で、7つあった畑土地は今は一つしか残されていない。

だから、貧乏をしたと聞いてきた。が。

この着物とか売れば良かったんじゃないか?????

そう思わずにはいられないほどの、羽織袴が出る出る出る出る。

なんでこんなに、あるの????


混乱する頭を抱えつつ、黙々とそれらを紐で絡む。

伯母の和ダンスがラスボス城なのに、この日はたどり着けなかった。


その日のうちに、ゴミ収集場に持っていき、なんとかサヨナラしてもらった。

まだ、最終目的が超然と残ってはいる。
あの大きな和ダンスだ。

私は、去年見たので知っている。

あの和ダンスには、着物の他に西陣や紬の反物もあると。

勘弁してほしい。

元は安いものではないはずだ。
高かったんだろう織元のナンバー付きの反物が何十とあった。
値札もついており、総額で軽く車が買える額だった。

それを今、我らはゴミとして捨てねばならない。
使わない、仕立てない、着ないからだ。

全てをこうして丸投げされている私達の心を、先祖は知っているのかと悪態をつきたくなった。

身軽に生きること。
物欲に負けないで、慎ましく生きること。

それは究極の子孫への遺産だと、心の底から叫びたい。


〜〜〜〜〜書けたら②に続きます〜〜〜〜〜〜

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