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一生懸命の落とし穴。「自己中」と言われないための教え「絶四」―『論語』

「自分ファースト」にならないために

「自分らしく生きたい」。
 それがともすれば、「自分ファースト」に置き換わっていることがありませんか。
 自分の思うように物事が運んでほしい、という気持ちが膨らんできて、我を張った生き方をしていることがありませんか。

たとえば、次の4つのことはどうでしょう?

「主観(思惑)で憶測する」 
「道理を無視して押し通す」
「一つの考えに固執する」
「自分の都合を最優先する」
 

 私はどれにも当てはまらない。
 自己中心的な人間じゃない、と思いたい。
 平常でいるときには、そうかもしれません。

 ところが、いざモノゴトを進めていってうまくいかないときや、プロジェクトの重責を担っているときや、絶対に失敗できないと強烈なプレッシャーがかかっているとき……など。
 あるいは、やり遂げたい夢や目標が大きいとき……など。

 まわりの人の目に映る言動は、ここに挙げた4つのいずれかの状態になっていないでしょうか? 下手をするとそれが複雑に絡み合った状態になっている。
 人の姿はそんなふうに見えるように、自分もそうなのです。ことによると、もっと惨状を呈しているかもしれない。

絶四。母意、母必、母固、母我。

さて。
孔子は、ここに挙げた4つのことに陥らないように、心がけていたというのです。『論語』子罕篇に次のよう出てきます。

子、四を絶つ。
意(い)なく、必(ひつ)なく、固(こ)なく、我(が)なし。

『論語』子罕篇

「絶四」として知られる有名な言葉です。

意=主観(思惑)で憶測する 
必=道理を無視して押し通す
固=一つの考えに固執する
我=自分の都合を最優先する
 

 孔子はこの4つに陥らないように心がけていた。
 つねに理想を高く掲げながらも、対人関係や生き方は、柔軟であった。ゴリゴリの原理主義者ではなく、人間味に溢れたところがあって、理不尽なことは受け入れなかった。
 孔子のそんな生き方が思い浮かんできます。

 わが身を振り返ってみると、どうすれば、そんな立派な生き方ができるのか、と自問自答してしまいます。

 たとえば、目的を達成しようとするときに、まわりと上手に折り合いながら、前に進んでいく。ということでしょうか。
 まずいのは、妥協すること、折り合うことが、道を外れることだと勘違いし、自分の考えに固執してしまうこと。自分はぶれていない、と思い込むっこと。
 そうして「自分ファースト」の負のスパイラルに陥ってしまうのです。気をつけたい。

「固―かたくな」が人としての成長を止めてしまう

 ところで、ここに挙げてある4つのことは、裏返せば、モチベーションやブレイクスルーの原動力にもなります。それを、強制的に抑制してしまうと、自分らしさや独創力を失いかねません。

 4つ全部を心がけるのは、ハードルが高いので、気をつけるべきことを、決めておきたい。
 ということで、漢文学者の安岡正篤さんの解釈を引用して、締めくくりとします。

 論語を読むほどの人で知らぬ者のない有名な言葉でありますが、ことに「固――かたくな」ということは一番いけない。
 よく世間には、大変いい人なんだけれども、どうもかたくなでいけない、というような人がありますが、こういう人はともすれば、世の中を白眼視したり、他人のすること為(な)すことに文句を言ったりするものであります。だから進歩がない。
 孔子もこの固ということを一番嫌ったようであります。

安岡正篤著『論語の活学』



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