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人はなぜ不正をするのか。止めることはできないのか。その5―有効なのは「徳」か「法」か

古代中国の主な思想家の人間観 まとめ

なぜ人は不正をしてしまうのか。
それは、もって生まれた性質と、どう関係しているのか。

企業において、弱い立場にある社員が、組織的な圧力に屈して、自らの良心に反して、不正に加担してしまう。それを防ぐには、どうすればいいのか。

古代中国の人間観、思想をおさらいすることで、組織において立場の弱い人が不正に加担してしまう理由を探るシリーズ。最終回。

孔子の「仁(徳)」。
孟子の「性善説」。
荀子の「性悪説」。
韓非子の「人間不信」。
4回にわたって、古代中国の主な思想家たちの人間観についてみてきました。

 まとめの回にあたり、孟子、荀子、韓非子、彼らの思想の違いを、湯浅邦弘大阪大学大学院名誉教授がく説明しているので、それをみていきましょう。

孟子はすべての人が天から善なる性をもらってこの世に生まれている以上、人はおのずから善人になれると主張しました。
しかし、荀子はその天と人との関係をいったん切り離して性悪説を説きました。韓非子も、人が天から善性を付与されているなどとは考えませんでした。
(略)

荀子は人の成長の可能性に期待し、礼や学問によって人を善なる存在に導こうとしました。
 これに対して韓非子は、そもそも善や悪といった価値観の問題には触れず、ともかく人は利益に誘導されるものだと考えたのです。

            『ビギナーズクラシックス中国古典 荀子』より

人の不正を防ぐのに有効な思想はどれか

 では、結局のところ、人が不正をしないようにするには、どの思想、考え方に拠るのがいいのでしょうか。

 孔子は『論語』で、「法治」つまり法律・刑罰によって統治することの効用と弊害について、こう述べています。

為政者が法律をふりかざし、刑罰をもって押さえ込もうとすれば、国民の方も法律の抜け穴ばかり探し、恥を恥とも思わなくなる。
                     『論語』為政篇

 それに対して、徳によるマネジメントのほうが、社会や組織がうまく治まると、孔子は持論を展開します。

下々(しもじも)の者を徳によって感化し、礼によって規範を確立しようとすれば、国民の方もおのずから恥を知るようになり、不正を働く者がいなくなる。
                          『論語』為政篇

『論語』の講義を聞いているときには、孔子が理想とする社会やマネジメントが実現してほしい、という思いに駆られます。
 現代においても、孔子の説く徳によるマネジメントは、小さな共同体や大家族主義の組織などでは、成立するかもしれません。

 しかし、国家や人種の違いなども含めて、利害が複雑に絡むいまの社会において、人の良心に負うところが大きい、徳によるマネジントは、不正を防ぐブレーキ役として、どこまで機能するのでしょうか。

孔子の「徳治」×韓非子の「法治」

 こうしてみてくると、次のやり方に集約されるように思います。

「法治」によるマネジメントをベースにし、そこに「徳治」のマネジメントを組み込んで、統制がとれた組織運営する。

 その逆の組み合わせで、「徳治」をベースにしながら、適宜「法治」によるマネジントを実践する。

 組織において人のマネジメントをどうするか。
 人の不正を防ぐにはどうするのか。

 状況にあわせて、「性善説」「性悪説」も含めた4者の人間観を取り入れてみる。選択したやり方、組み合わせでうまく機能しない場合には、適宜見直しをする。
 たとえば、法律や規範による拘束が行き過ぎて、組織が活力を失ってしまったら、自主性を重んじる組織風土へと変えていく、というように。

 古代中国の思想家たちが提示した人間観をもとに、古来、政治・行政において、その実践が試みられてきました。
 試行錯誤は、いまも続いています。


「性善説」「性悪説」以前の考え方―孔子は理想の徳として「仁」を掲げた

孔子の教えと孟子の「性善説」との関係について

『荀子』の「性悪説」について

「性悪説」を発展させた『韓非子』「法家」の思想


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