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noteにおいての人選び②

わたしは、以前の自分と同じような生きづらさを抱えている人の記事も多く読んでます。
今後の様子を見てみたいとか、同じような状況でも自分とは違う世界を見てみたいという理由から、複数フォローしました。

しばらくして、同じような状況でもそれを糧に前へ進んでる(進もうとしている)人と、現状に依存してるなという人の見分けがある程度つくようになりました。

例えば?
前進している人は、行動を起こした事実を伝えた上で、(良くも悪くも)湧いた感情や思考を整理した上で素直に伝えていること。
加えて、今後の目標も公言していること。

これは、複雑なものに巻かれながらも、自力でコントロールしようと努力している証拠。
このような人には(心の中で)応援したくなります。

じゃあ依存する人は?
辛さや苦しみを訴えるときは具体的に書けるのに、自ら行動を起こした実例がほぼ見当たらない。
あと結構見かけるのが、悪い結果を自分以外のせいにしていること。

個人的に思うのは、向こうの責任には違いないけど、半分は自己責任でもあるよなと。
なぜなら、大人は選択の自由という権利を持つから。

他責は以前の自分です。
この当時は、自分の人生の主導権は自分にあるという意識が希薄でした。
実際は自分で選んでいるのに、選ばされているという被害者意識で満ちていました。
(○○だからそうするしかない)

そんな可哀想な自分のお世話をしてほしい。優しい誰かの愛がないと生きていけない。
その愛に対して、自分も同じ量の愛でお返しする気がないのにしてほしいと。
いま思うと、恥ずかしい生き方でした。

お別れしたフォロワーさんの記事はもう読んでませんが、振り返ると、そのような記事から他人軸というものが色濃く出ているなと感じます。

何というか、その人のなんだけど、その人の体を借りた別の誰かと関わってるような感覚がした。

わたしが関わりたいのはあくまでその人。
自分の人生という壮大なストーリーの主役を自分に設定している人。
個人的にフォローしたくなる人の基準はそこなんです。

言い換えれば、これはわがままでしょう。
しかし、一度きりの人生を豊かに生き切るにはここにこだわる必要があるのです。

わたしにとってnoteは、自分も関わる相手も揃って楽しめる場所。
学び・癒やしといった感動を分け合う場所。

この場所と、滞在時間を価値あるものにしたいから、付き合う人を選ぶ。
その方々から様々なことを知り、日々のインプットとアウトプットの両立に生かす。
わたしにとっては既に生活の一部です。

やはりnoteは自己成長に相応しい場所です。
この場所を大切に、自分流のやり方で盛り上げたいです。

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