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第89話 藤かんな東京日記⑪〜タクシーを降りる時、なんと言いますか〜


タクシー運転手が言われて嬉しい言葉

 2024年3月26日、20時。私はタクシーに乗っていた。今日は濃くて長い1日だったな、と、心地よい疲労感にぼんやりしながら、窓を見ていた。外はパラパラと雨が降っている。まだ20時だが、体感時間はもう真夜中だ。この日は朝4時に起きて、グラビア撮影をしてきた日だった。
「到着しました」
 運転手の声が聞こえた。タクシーのドアが開く。ぶわっと湿気の帯びた外気が流れ込んできた。どうやら外は風が強いようだ。タクシーを降りようとした時、車が軽く横揺れした。
「お忘れ物のないよう、お気をつけください」
 運転手が機械のような言葉をかける。
 そういえば、タクシーを降りる時なんて言うんだったかな。ある人の話を思い出していた。

「タクシー降りる時、なんと言いますか?」
 エイトマン社長の尊敬する、某企業の社長、太田さん(仮名)の話だった。
「僕は、挨拶フェチなんですよ。挨拶って気持ちいいじゃないですか。される方も気持ちいいし、する方も気持ちいい。でも、される方はする方よりも、数倍嬉しいと思うんです」
 そう思う太田さんは、ある日タクシーに乗っていた時、こう考えたそうだ。
 タクシーの運転手は客をおろす時、客からなんと言われるのが嬉しいのだろう。
 そしてタクシー運転手に「なんと言われるのが一番嬉しいんですか」と聞いたらしい。するとこう返事がきた。
「『気をつけて』が、一番嬉しいですね」
 太田さんはそれから、タクシーを降りる時、「お気をつけて」と一声かけるようになったそうだ。すると運転手からは、少し温度の高い「ご利用ありがとうございました」が返ってくるのだと。
「一般的には、タクシー降りる時、『ありがとうございました』って言うと思うんです。それは、ここまで連れて来てくれて、ありがとうございました、という過去の話ですよね。でも『お気をつけて』ってのは、未来の話をすることになる。それってなんか良いなと思ったんですよ」
 太田さんは言っていた。その話を私は思い出していた。

「ありがとうございました。お気をつけて」
 タクシーを降りながら、そう言ってみた。少し照れ臭かった。運転手がハッとしたのを感じた。ちょっと気取ってしまったかな。
「ご利用ありがとうございます。お疲れ様でした」
 少し温度の高い、感情のある言葉が返ってきた。東京に来て初めて、タクシー運転手の感情を感じた気がした。

大阪の早朝、タクシー運転手はよく喋る

 大阪と東京の人間が大きく違うとは思いたくないが、大阪のタクシー運転手は、東京よりも比較的おしゃべりな人が多いと思う。
 私がまだAV女優になる前、一般企業の会社員3年目だった頃。当時私は大阪に住んでいた。
 3月のある日、会社の飲み会が3次会まで続き、朝の4時にお開きとなった。始発電車はまだ動いていない。家が遠い社員たちは「始発までカラオケ行こか」と、店先でダラダラしている。
 空はまだ暗く、大阪梅田東通りの繁華街は、くたびれた空気が漂っていた。コンタクトをつけたままの目は痛いし、飲み会中、ずっとウーロン茶を飲み続けた胃は、ムカムカしている。私たちはこの数時間、何の話をしてたんだっけ。シラフなのに何も思い出せなかった。頭は回らないのに、目は冴えてしまっていた。
 なんか、疲れたな・・・・・・。
 私は「お疲れさまでした!」と、上司や同僚に声をかけ、ひとりでタクシーに乗った。

「お嬢さん、お疲れやな。飲み会やったんか」
 50代後半くらいの男性運転手は、早速話しかけてきた。運転手が話しかけてくるのは頻繁にあることだが、もう誰かと話す気力は残っていなかった。
「歓送迎会の時期やもんなあ。わっかい女の子がこんな夜中まで、いやもう朝か。飲み会に付き合わされたと思うと、なんや、かわいそうでなあ」
 幸いにも彼は、勝手に喋ってくれるタイプの人だった。私はシートに体を沈めながら、曖昧に相槌を打っていた。
「そういやな、ついこないだ、鶴瓶がこのタクシー乗ったんやで」
「へええ、鶴瓶ですか」
「そうなんや。テレビのまんまの人やったわ。気さくで明るくてな。僕、嬉しくて『またこのタクシー呼んでください』って、電話番号、渡してもうたわ」
 えらい積極的やな、と思いながら「それで鶴瓶から、電話はきたんですか?」と聞いた。運転手のおっちゃんは「かれこれ半年待ってるけど、全然けえへんわ」と、ガハガハ笑っていた。半年待ってるって「ついこないだ」ちゃうやん。右斜め前で楽しそうに笑っているおっちゃんにつられ、少し笑ってしまった。

私が運転手に言われて嬉しかった言葉

 しばらくおっちゃんは喋り続けた。まるで流れ続けるラジオのように、ただ聞き流していた。そろそろ家が近づいてきた時、彼は言った。
「僕な、お嬢さんくらいの娘がおるんや。今、東京で働いてるねん。きっと娘も飲み会とかに付き合わされて、しんどい時もあるやろなあって思うと、お嬢さんに色々話しかけてしもたわ。ごめんな」
 おっちゃんはさっきまでの陽気な声色と違う、落ち着いたトーンで話した。それを聞いて少し、父を思い出した。父は先週末「次、いつ実家返ってくるの?」とラインを送ってきていた。そのラインが鬱陶しくて、「分からんわ」とそっけない返事をしてしまった。そろそろ一度、顔見せに実家に帰ろうかな。
「はい、着きましたで。お疲れさん。ワンメーター分、まけといたるわな」
 タクシーが家の前に到着した。おっちゃんは領収書を渡してきた。「ワンメーター分、まけといたる」なんて、ほんまかいな。領収書を見ても、安いのかどうかは分からなかった。確かに少し安い、ような、気もしなくもない。ただおっちゃんには、少なからずエネルギーをもらった。「ありがとう!」と少し声を張って、お礼を言った。タクシーから降りると、胃のムカムカは治っていた。
「無理しなや」
 おっちゃんは最後に、そう声をかけてくれた。
 飲み会帰りの早朝にしては、距離の近すぎるタクシー運転手だったが、あの言葉は、あの時の私が一番言われて嬉しい言葉だったと思う。彼は私の未来を想ってくれた。

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