【エッセイ】845年目のイニエスタ
地下鉄和田岬駅の二番出口から地上へ出ていくと、JRの線路の車止めが目の前にあった。
「これはここで終点なんだよ」
と、ポワールが指さした。
「へえ」
と私はうなずく。
「和田岬線は、兵庫と和田岬の二駅しかないんだよ。ずっと昔は、鐘紡前駅とかあったみたいやけどな」
「ふうん」
「鐘紡って、あの化粧品のカネボウ。今のクラシエ」
「はあー」
「神戸大空襲で壊滅的な被害を受けてから、再建されなかったらしい」
「それは、ほんとに昔やね」
ポワールは、別に鉄ちゃんではない。兵庫県民ですらない。福岡県で生まれ育ち、大学進学でこちらへ出てきた。一回生の時に友達になり、大学のすぐそばの下宿へ入り浸ったりしていた。
一番の思い出は、……みんなで中等部のグラウンドに金網の破れ目から入り込み、夜中にバスケをしたことかな。
二回生からは違うゼミになったが、それからもぼちぼち交友があった。卒業してから年一回の小さな同窓会にも、たまに顔を出してくる。
「なんでそんなこと知ってるの」
「昨日、ウィキペディアで見てきた」
やけに誇らしく胸を張った。
ポワールは、別にフランス人ではない。ただ顔の彫りが深いので、そんな風に呼ばれ始めただけだ。しかもよく見たら、やっぱり「ソース顔の日本人」なだけで、外国人みたいでもない。まあ大学というのは、往々にしてそういうところだ。
真夏の空気は煮えるように暑い。
駅前のコンビニでポカリを買い、ぐいぐい飲んでから、ゆったり湾曲していく片側二車線の道路沿いを歩いていった。
ビルの間の真っ青な空に、すぐにスタジアムが見えてきた。
白い流線型が美しい。凶悪なまでの日差しを受けて、輝いている、と言ってもいいくらいだった。
ここも昔はウィングスタジアム、と呼ばれていたが、今ではノエビアスタジアム、略してノエスタという。
いわゆるネーミングライツ、というやつだ。
同じように、須磨区のグリーンスタジアムはほっともっとフィールドになったし、大正の大阪ドームは京セラドームになった。
ただ無造作に、ウィングとかグリーンとか名づけているよりは、そっちの方がいいような気もする。
地元の企業だったら、なおさら文句は出ない。楽天、もまあいい。例え本社は東京でも、心から「神戸讃歌」を歌ってくれ、大金をはたいて世界的なスターを連れてきてくれるなら。
そちらへ近づいてゆくにつれ、クリムゾンレッドのグッズを身に着けた人たちが、ぽつぽつと目立ってくる。
次第にみんなで列を作り、ただ一つの目的地へ向かっていく。
御崎公園の広場へ足を踏み入れると、既にスタジアムの外はサポーターでいっぱいで、対戦相手の横浜Fマリノスの、紺色っぽいユニフォーム姿もそれなりに見受けられた。
白い仮設テントが張られ、そこが特設のグッズショップになっていた。
「ユニあるかな」
「さっきはなかったけどな」
私たちは事前に、ハーバーランドのカルメニのアンテナショップまで足を運んでいたが、そこにはお目当ての品物は全くなかったのだ。
「ちょっと並んでみるか」
「まだまだ時間はあるしな」
結局三十分弱も行列に並ぶことになったが、さすがにスタジアムのお膝元らしく、欲しかったものが山積みになって売り出されていた。
「Mサイズ、ある?」
「これ二万五千円もするで」
「まあ、せっかくの機会やし」
こうして私は、ヴィッセル神戸の背番号8、アンドレス・イニエスタのユニフォームを入手することができたのだ。
公園の広場にはキッチンカーが並び、フライドチキンやらケバブやらクラフトビールやらを売っていた。
ポワールはそれらを回って一しきり注文すると、テーブルつきのベンチにどっかりと腰を下ろし、ホワイトビールをがんがん飲み始めた。
格安のタオマフだけを購入し、まるでこの場にいる言い訳みたいに、早速首へ巻きつけている。
身長百八十センチもあり、黒い長髪にサングラスをかけていると、ちょっとキアヌ・リーヴスみたいに見えなくもない。
「張り切って、ちょっと早く着き過ぎたかもな」
吹き出す汗をタオマフで拭き拭き、前歯を剥き出しながら肉へかじりついている。
「試合が始まる前まで、ちょっとそのへん散歩してくるわ」
「散歩? どこへ?」
「うーん、お寺とか」
「お寺? サッカー見に来て寺? 少林サッカーなの? また大純の変なクセか。ああもう行ってこい、好きに行ってこい」
ひらひらと手を振るポワールをその場に残し、私はさっき歩いてきた道路を、ちょうど反対側にたどり直していった。
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