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六丁の娘 第一章【総集版】

 すすむが郷里の渡辺津わたなべのつを叩き出されたのは、父の後妻に手を出したからだ。それは間違いない。
「だけど、お兄ばっかりが悪いわけじゃないよ」
 妹のしほが、小さな唇をすぼめながら言い募ってくれた。
「あたし、ずっと見てたもん。あのメスギツネ、ずうっといやらしい目でお兄を見てたもん。後ろ肩とか、太腿とかさ。仕方ないよ、あんなでっかい乳袋押しつけて言い寄られたら。あたしなんか、まだぺったんこなのに」
「ありがとよ」
 進は鼻の穴からため息をついた。
 淀川の流れを左手に見つつ、一刻ばかり歩いてきた。夏の日差しは薄曇りにゆるめられ、風のにおいも甘い。旅立ちの日和としては悪くなかろう。 
「ていうか」
 進は振り返り、妹の方へ尖った目尻を投げた。浅葡萄えび色の丸い船底袖を、気ままに広げている。
「お前はいつまでついてくる気だ。ぼちぼち江口に差しかかるぞ。早く帰らないと、親父がまたブチ切れて、したたか殴られちまうぞ」
「もう帰らない」
 ぷい、と顔を背けて言い放つ。頭のてっぺんで束ねた二つ輪のもとどりが、鈴を振るように揺れた。
「帰らないって、お前」
「お兄こそ、どっか行くあてでもあるの。なんか自信たっぷりで、ずんずん歩いていくけどさあ」
「まあな」
「なんのアテよ。たいして津の外にも出たことないくせにさ」
 生意気に口を尖らせ、足を速めて肩口にまとわりついてくる。
「聞かせなさいよ。教えないと、このままどんどんついていっちゃうよ」
「それは困る」
「教えてくれたら、内容によっちゃ、さっさと帰る気になるかもね」
 進はちょっと首をかしげて考えた。それももっともかもしれない。いわば現実の重みでもって、すっかり脅しつけてやればいいのだ。
「遠藤の、為次郎ためじろうだよ」
「為次郎? あのアブレ者の?」
 遠藤は渡辺の家にとって、隣同士の遠い親戚みたいなものだ。船乗り稼業を始めたころには、ずいぶん手を取り合ったものだというが、それから何十代も経て、今やすっかりいがみ合っている。「渡辺惣官」とか「四天王寺執行しぎょう」とか「坐摩佑いかすりのすけ」とか、得分のつく名前を血眼で争っているのだ。
「その為次郎が、お兄のなんのアテなのよ」
「あいつは今、鳥羽で馬借の一味に加わってるらしいんだ」
「馬借? 確か、先祖代々の滝口たきぐちの武者を継ぐ、とか言って飛び出していったんじゃないの」
「まあな。しかし今どき、滝口もないだろうよ」
 摂津の渡辺党は、確かに代々滝口の武者を輩出してきた。だが承久、正中という二度のご謀叛において、まめまめしく敗北した帝の側へ従ってきたのだから、そんな姿はもうどこにもない。てっきり軍記の中のお伽話と化している。
「馬借の生き様はな、普段ははした金の駄賃で口をしのいでいても、一朝変事があれば、こぞって洛中へなだれ込む。獲物と見定めたら、公家も武家も商家も関係ない。ただ力づくで奪い取る。そんな暮らしさ」
 ちら、と横目で窺い見た。ここまで言えば、まだ年端もいかない小娘のこと、ぶるぶる震え上がって、さっさと実家へ戻る気になっただろう。
 ところが案に相違して、妹は足取りも軽やかに歩き続けている。頭の後ろで両手さえ組み、てんでのんきな有様だ。
「なんだお前、まだついてくるのか」
「ふん」
「さっさと帰れや、親父とあのメスギツネのところに」
「帰らない」
「話を聞くだけ聞いといて、結局言う通りにしないんじゃないか」
「例え土一揆の一味になったって、あんな家にいるよりはずっとましだ。お兄のいるところが、あたしの家なんだ」

「おう、よう来たの、渡辺の」
 土埃にまみれたざんばら髪で、笑うとニュッと黄色い歯茎が飛び出す。久しぶりに会った遠藤為次郎は、背中を丸めた狒々ひひのような姿をしていた。
「ずいぶん懐かしいもんだ。世話になる、為次郎」
「いやいや、困った時はお互い様よ。お前もやはり、あの潮臭い津の風が合わんかったんじゃろ」
「まあな」
 相手は、垢染みた麻の葉柄の小袖を懐手ふところでしながら、まばらな顎髭を撫で回している。
 巨椋池おぐらいけのほとり、杉木立の奥に隠れているような廃寺だった。広さばかりはあるが、あちこち土壁は崩れ、柱は傾き、剥がれかけた屋根は草がぼうぼうと生え放題だ。
「全く、しょうもないのう。海がどこまでも広がる明るい世界だなんちうのは嘘ッぱちじゃ。本当のところは、血と臓物の臭いが漂う暗い一本道よ。そうは思わんかい、ええ?」
「違いない」
「うむ。で、そっちのガキは」
 為次郎はあごをしゃくり、こちらの背中越しを指してきた。
「妹のしほだ。忘れたのか」
「おおっ女、いや、あのしほか」
 とたんに小さな目を見開き、歯茎を剥き出して、つばきの泡をぴんぴんと飛ばしてきた。
「言われてみりゃ、なるほど、確かに女童めのわらわじゃの。ほうほう。わしが津にいたころにゃ、まだこおんなに小さかったはずじゃが、ずいぶん手足もすらっとして、あと数年もすりゃ、すっかりええ女になりそうじゃの」
「おい、妙な気を起こすんじゃねえぞ」
 進は目元にぐっと力を込め、帯に差した打刀うちがたなの柄へ手を伸ばしかけた。
「あらおっかねえ。わかっとる、わかっとる。そうカッカしなさんなよ。お前らも、ずっと一日歩き詰めで疲れたじゃろ。今宵はささやかじゃが、歓迎の宴を支度しとるぞ」
 穴だらけの襖障子が、がばりと開け放たれた。二十人ばかりの者どもが、互いの肩の上にあごを載せながら耳をそばだてていた。荒くれ男ばかりでもない。桂巻きにした女の姿もちらほらある。誰かの腕の中に抱かれた赤ん坊が、はかったように甲高く泣き始めた。
 そのど真ん中に、ご本尊のような樽がデンと鎮座していた。
「洛中の蔵からかっぱらってきた酒じゃ。上等の諸白もろはくじゃぞ。お前らのために、こいつをすっかり空けてやろうちゅうわけよ。さあさあ、飲めや騒げ。歌えや踊れっ」
 一同は、何事かわめきながら部屋の中へ雪崩込み、進としほの二人を抱え上げるようにして廊下へ運び出した。そのまま奥の広間までたどり着くと、あちこち剥がれかけた板敷きにばらばらと車座を作って座り込んだ。
「全く、ただこのために生き長らえとるようなもんよのう」
「おいおい、待ちきれんぞ。とっとと盃を持ってこいや」
 木槌で鏡板が割られ、瓶子へいじに分けられた酒を土器へ注いでいく。うずらの串焼きや薄い芋粥、大根の粕漬けなども目の下に並べられていた。
 兄妹はちょこなんと上座に据えられたが、誰一人こちらを構いつけるでもない。ここぞとばかり酒をかっ食らうのは迎える側の者ばかりで、いちいち話しかけに来もしなかった。
 中身のわからない大声と笑いが飛び交い、卑猥な歌と踊りが繰り出された。男と女が立ち上がり、裾をからげながら腰をぶつけ合っている。
「ガハハ」
「おほほ」
 とっぷりと夜が更けていくまでの間、兄妹は時々顔を見合わせるばかりで、言葉一つも交わさなかった。
 乱痴気騒ぎもやがて、しぼむように静まり返っていった。一人、また一人と床へ突っ伏し、あるいは仰向けに寝入ってしまい、正体なくいびきをかき始めている。新入りの二人だけが、まるで最初と変わらない姿で壁を背に座り込んでいた。
「お兄」
 しほが足を崩し、自分のふくらはぎを揉みながら首をかしげた。
「馬借のはずなのに、ずっといななきの一つも聞こえない。馬の姿が一匹も見えないね」
「ああ。少なくとも、表の稼業に勤しんでる様子はないな」
 二人は心得顔でうなずき合った。
「盗賊、だな」
「ほんとに大丈夫なの、あんな為次郎なんかに命を預けてさ」
 見ると同郷の悪友は、濡縁の敷居に大股開きでひっくり返り、毛だらけの萎びたふぐりを晒している。心ゆくまで酒を浴びたものか、白目を剥きながらよだれを垂らしていた。
「昔、津から追い出されたのも、手癖が悪かったからなんでしょ」
「うん」
 家の銭をちょろまかしては、酒や女を買う癖が治らず、ついには惣領の兄から勘当された。遠藤一家の恥として、今ではその名を口に出す者もいない。
 だがもはや、そんな為次郎を笑って見下せる自分ではないとも、進はひしひしと感じている。
「まあ、とりあえずやるしかないさ。俺は自分の心で決めて、ここまで来ちまったんだ。だけどお前は」
 伏し目を送ると、妹はまっすぐにこちらを見つめ返していた。水に浮かんだような黒い瞳を震わせ、ぎゅっと下唇を噛みしめている。
「もう帰れ、とは言わねえよ」
「あたし、きっとお兄の足手まといになっちゃうんだね」
「そんなことはない。あの津で、お前が親父に殴られてるのを、ただずっと見てるだけよりはましさ」

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