北風の賦 第ニ章【総集版】
未の三つ時(午後二時過ぎ)に家へ帰ってくると、於福は桶と柄杓を手に、門前の白洲へ水を撒いていた。
「今帰ったで」
ご挨拶なことに、ブスッとむくれ返って、亭主の方を見やりもしない。背後の雑木林で、黃鶲がのんきに啼いている。
「帰ったで、ちゅうとんのや」
近寄りざま、むんずと豊かな臀を掴み上げてやると、キャッ、と娘っ子のような声を出した。
「何をしとうんじゃ」
「何も糞も、夫婦の挨拶やんか」
「先だってから、六右衛門さんがいらッしとうよ」
目尻を怒らせ、やや受け口の唇をとんがらせてみせた。
「おれのおらんうちに、他の男を家へ上げたんか」
「他の男いうたかて、六右衛門さんやんか」
「ロクやろうがナナやろうが、おれでない者は他の男に違わん」
「何を言っとうんや、おんなし名字のクセして。名字は同じでも、身代は大違いや。むしろ、こんなボウオクにさんざお待たせして、申し訳ないの一言もあらへんのかい」
一丁前に漢語なんぞ使いおって、と憎さげに思いながら、じろじろと女房の姿を眺め渡した。
女房は今や、女ざかりのムチムチした体である。相手はその眼差しのタチに気づいて、居心地悪そうにちょっと身をよじった。
「あいつ、お前のことを触らんかったやろうな」
「本気で心配しとうなら、一晩中家を空けとうんと違うで、このヒョーロク玉」
柄杓を振り上げて打ちかかろうとする。荘左衛門はヒャッと身をよじってやり過ごしておいてから、開け放しの板戸を屈んでくぐった。
薄暗い土間の向こうの板張りに、小袖の膝を崩して一人の男が座っていた。撫でつけた総髪に、風車紋を染め抜いた十徳を打ち掛けている。年のころは五十ばかり、まずもって立派な身なりの兵庫商人である。
「帰ったか、資村」
男は涼やかな目を上げ、年相応に落ち着いた声音を発した。
「いちいち訊かんでもわかるやろ。それとも何や、お前が今目にしとうんは、おれの死に損ねた生き霊やっちゅうんかい」
「口の減らんやつや。まあ座れ。堺渡りの金柑の飴煮を持ってきた」
「ここはおれん家や。お前に指図されんでも、どこにだって座ったるわい」
荘左衛門はドッカリと上がり框に腰を下ろした。
毛むくじゃらの腕を伸ばすと、白木の盆に盛られた小ぶりな菓子を鷲掴みにし、口いっぱいに放り込んでむしゃむしゃとやった。汁が溢れ出して唇の端を伝い、垢染みた筒袖の前合わせにポタポタと滴った。
「資村、お前」
依怙地になって咀嚼し続ける横顔に、男は憐れむような眼差しを投げてきた。
「湊の水手衆から聞いたが、近ごろ妙に金回りが良いらしいな」
ブッ、と噴き出すと、どろどろの果皮の欠片が、土間の柱や壁まで飛び散って張りついた。
「吝嗇漢で知られたお前が、気前よくぽんぽんと銭をばらまいとうんじゃ、残暑に霙が降ると噂になっとうぞ」
「なあに、最近ちょっとばかし割のいい仕事にありついてや」
「割のいい仕事か」
六右衛門は薄目でひび割れた梁を仰ぎ、両の袂を胸の前で搔き合わせた。
「どこから持ち込まれた話かは知らんが、ならず者どもを焚きつけて、津の南北関を攻め落とし、町場を占領しようなんちゅう悪巧みは、そんなに割がいいか」
ぺえッ、と歯にまとわりつく水飴を吐き捨てると、荘左衛門は据わった目つきで、相対する親戚を睨みつけた。
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