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北風の賦 第五章【総集版】

「中川瀬兵衛せひょうえまで、寝返ったと言うのか」
 甲山かぶとやまの谷間に、瓦林加介の叫びが響き渡った。
 早瀬に浸かった草鞋の足指が、凍るように冷たい。息は吐いたそばから白く膨らんでいく。
「おい、チイとは声を潜めろや。郷民どもが聞きつけたら、うろたえてまうやろうが」
「ああ、左様であるな」
 北風荘左衛門の方からたしなめるなど、長いつきあいの中でもほとんどなかった。加介が無頼から足を洗い、武家の末裔ぶった生き方を始めてからは、なおさらのことだ。
「確かな話やろうな。出任せやったら、その素ッ首叩き落とすぞ」
 まだ到底信じがたいらしく、かまり・・・の者へ尖った声を投げつけている。
 中川瀬兵衛清秀きよひでは、元々摂津の地ざむらいで、荒木村重とはともに池田へ仕えていたころからの知己である。
 肩組み合って下剋上のきざはしを駆け上がり、その右腕として北摂の要、茨木城いばらきじょうの守りを任されていた。
 にもかかわらず、織田方の説得に応じ、あっさりと荒木を見捨ててしまったという。
 そればかりではない。
 中川とともに、摂津の両翼と呼ぶべき高槻たかつき城主の高山右近うこんも、やはり信長に降伏し、すぐさま攻め手の一部へ組み込まれていた。
「茨木と高槻がもろともに降ってもうたんじゃ、有岡は丸裸やな。毛利の後詰めが来るまでもつんか」
「きっともつ、あの城ならば」
 加介はすがるような目を上げ、西の空を虚ろに眺めた。
 しかし去る十一月には、大坂御坊へ兵糧を入れようとした毛利の警固衆も、織田方の九鬼がこしらえた巨大な安宅船あたけぶねによって、一隻残らず沈められてしまっていた。
「摂津守様は、古今無双の築城名人。その方が丹精した惣構そうがまえやぞ。越後の上杉、甲斐の武田にも、公方からの御教書みぎょうしょが矢のように飛んどるはず。間に合う、きっと間に合う」
 加介は、口の中で念仏のようにただ繰り返していた。
 だが上杉は、神がかった大将の謙信が先年没したばかりで、跡目を巡って内紛の真っ只中にある。
 武田にしても、信玄の没後、設楽ヶ原したらがはらの合戦で譜代の軍団をほぼ失っており、なおも西へ攻め上る余力があるのか怪しかった。
 ましてや両雄の在世中は、不倶戴天の敵同士だった間柄である。遠く摂津国を救うためだけに、手に手を携えて大軍を繰り出してくるなど、果たしてあり得る話だろうか。
 つまり、それは幻なのだ。加介はもはや、幻に頼り始めている。
「信長の野郎は、やっぱし空恐ろしい大将やな。荒木の方からケンカをふっかけたわけでもないのに、ただ噂を聞きつけたっちうだけで、すぐさま子分を送って締め上げる。スワ謀反むほんやと言質げんちが取れたら、さっさと自分で腰上げて、ものの何日も経たんうちに摂津まで乗り込んでくる。城下に鬼の主人が現れて一喝されたら、高山も中川もすくみ上がって、ヘエコラ土下座の一手よ」
 荘左衛門は薄笑いを浮かべ、ふらふらとかぶりを振ってみせた。
「とんでもない悪玉の親分やんけ、ありゃあ」
「他人事のようにノタマッてる場合か」
 加介は、鋭く角張った目尻を投げつけてきた。
「他人事やと、とんでもないわ。ただなあ、偉ッそうにゴタクを並べとったお前の当てがスッカリ外れて、こっちはひたすらあきれ返ッとうのよ」
「貴様ア」
 加介は、ムンズと筒袖の胸倉をつかみ上げてきた。小具足と打刀の柄がぶつかり、カチカチと音を立てる。
「おれとて、本願寺へ娘を人質に差し出しとるんじゃ。だから今必死こいて、知恵を絞ろうとしとるんやろうが」
「オイッ、あれよ」
 荘左衛門は、相手の怒り肩越しに背後を指差してみせた。
「なんじゃあ、そらお前が昔、ケンカん時によう使い腐っとった手えやろうがい」
「そうやない。だがまあ、そうやって見たくないもんは見いへんで、ズウッと押し通しとったらええわい」
 鈍色にびいろの曇り空の下である。
 昆陽野こやのに広がる織田方の本陣から、千人ばかりの軍勢が打って出、武庫川の浅瀬を押し渡ってくる様子が、ありありと眺められた。

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