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終末論的堕落ドロップス、おちり、樹、人は年を取れば取るほどダメになる、例外なくダメになる、文学的ゾンビ、

三月二日

黒柳徹子は愚鈍だ。いや『世界・ふしぎ発見!』では正解係だから、『徹子の部屋』における黒柳徹子は、と限定しなければならないかもしれない。『徹子の部屋』の黒柳は愚鈍だ。それも自信満々に愚鈍なのだ。
一番その「自信満々な愚鈍」がよく表れているのが、野球に対する姿勢だろう。黒柳は野球を全く知らない。数多くのトンチンカン発言を残している。野球のことを知らないというのは別にいいのであるが、すでにトンチンカンをおもしろがる時期はとうにすぎているのに、いまだに「野球に関してはトンチンカンで通せる」ともくろんでいる。その自己認識のズレが愚鈍である。

ナンシー関『何が何だか』「第1章:テレビはなやしき」(角川書店)

午前十一時五九分。紅茶、賞味期限切れの芋チップス。松山千春がさだまさしの「風に立つライオン」を絶唱している夢を見る。土曜日だから図書館は行っても行かなくてもいい。だから寝間着のまま日記書きをしている。たぶん行くとは思う。ベーシックインカム論を書く準備もしているから。
きのうはコハ氏と午後二時から二時間半ほど閑談。デスクトップ画面にアイコンがごちゃごちゃしているのに我慢できないとかいった「潔癖性ミニマリスト」らしい悩みを聞く。パソコンもごちゃごちゃで自室も本でごちゃごちゃになっているオイラにはなかなか理解しがたい悩み。私は絶えざる実存不安を「モノ」で埋めていることにかなり自覚的な人間だ。むしろ何でもごちゃごちゃしているほうが落ち着く。ごちゃごちゃに親しむいっぽうで「宇宙の完全消滅」をいつも夢想している。
別れた後は閉館までシオラン『カイエ』(金井裕・訳 法政大学出版局)を読む。もう何度手にしたことか。もう俺にくれよ。やはり俺はシオランが好き過ぎる。日本でいちばんシオランを愛読しているのはたぶん俺だろう。彼は私の鏡だ。私はシオランを読むたび自分の分身をそこに見るような気がする。

人間の数を減らす措置はどんなものでも、聖なるものと宣言すべきだろう。
人類の消滅、私はこの問題に依然としてうつつを抜かしている。この光景を想像し、大地が人間から解放されて、わずかに虫と生き残った動物だけが住んでいるのを見る、これほどにも私を興奮させるものはない。

[原文傍点→太字]

こんなこじらせた文系大学生みたいなことをいい年して書き殴っているシオランを見ると気が安らぐ。彼は鋭敏な「モラリスト」でもある。苦しまない人間は下等な人間だ、と彼は信じていただろう。「苦悩する自分」に酔っていることにもそうとう自覚的だっただろう。「苦悩教」とか「憂鬱教」と聞くと私は高橋和巳よりもまず先にシオランを連想する。
以下、百均ノートに書き抜いたもの。

みごとな文章を書くのはペシミストではない。失望した者だ。

[原文傍点→太字]

私の疲労の利用度にはわれながらぞっとする。一種の才能のような、生まれついての疲労。

私は放棄を生きているのではなく、放棄の思想を生きている。エセ賢者のごたぶんにもれず。

ほんとうの地獄? それは、何ひとつ忘却できないということだろう。

[原文傍点→太字]

不安はそれ自体、<狂気>の兆候であり、と同時に存在の存在としてのうさんくさい性質からして、もっともノーマルな反応でもある。

[原文傍点→太字]

こんな地球上で、ある役割を果たそうと思うのはバカげたことだし、滑稽でさえある。

ついいましがた、市へ行く途中、若い妊婦とすれちがう(様子からして臨月だ!)。嫌悪、吐き気。咄嗟に、私を身籠っていたときの母親も、さぞやこんな嫌らしいなりをしていたに違いないと思った。

生きつづける理由を洗いざらい検討し、翌日などというものは不可能であるのみならず、ありえないと思われる、そういう夜をどれだけ経験したことか。

いつか自分より孤独な人間に逢えるかもしれないと思わなければ、人間になどこうも関心はもちはしない。

島田雅彦『彼岸先生』(新潮社)を読む。
二流作家にしてタレント政治家だった石原慎太郎は島田雅彦のことをずいぶん嫌っていたそうだ。「石原慎太郎に好かれる作家などにろくなやつはいない」という誰もが抱きがちの偏見は俺にもある。島田が彼と対立していたことは、島田にとっては間違いなく「名誉なこと」だろう。私は島田の小説をぜんぶ読んだわけではないし、読むつもりもぜんぜん無いのだけど、おそらく初期の「青二才」全開の作品のほうが「文学的」には上等だと思う。最初に読んだ『アルマジロ王』はあまりよく覚えていない。島田の「すごさ」を知ったのは『天国が降ってくる』を読んだときだ。(文庫なのに高価なことで不評な)講談社文芸文庫から出ていたのが印象的だった。島田はゴンブローヴィッチの『フェルディドゥルケ』をこよなく愛している。あの究極の「ダメ人間小説」だ。小説から何か教訓めいたものをひき出そうとする糞真面目で愚鈍な読者に遺憾なく唾を吐きかけるあの「アンチ教養小説」だ。要約するのはバカバカしいし不可能。
『彼岸先生』は夏目漱石『こころ』のパロディ小説。ポルノ要素過剰。文庫本の解説は蓮實重彦が書いている。そういえばこの人もポルノ小説っぽいものを書いてたね。島田はとにかくふざけることに全力を傾けている。小説家が「非真面目」であり続けることは実に大変なことなんだ。どいつもこいつも隙さえあれば「人生」を説きたがるからね。それもごく巧妙なかたちで。「お前が説くなよ」と思わせる人物までそれをやりたがる。どうもさいきんの島田にはその傾向が強いようだ。劣化・堕落というべきだろう。まあ年を取って劣化・堕落しない人間なんかいないんだけど。すべての人間は青年時代に自死すべきだ。小説から何かを学ぼうとする人間は小説を読む資格がない、と十年前の俺は書いた。いまはもうそんな骨ばったことは言えない。もう私は子供でも大人でもない。

このあと飯食ってどうしようか。部屋で別役実でも読むか。どうせ図書館はうるさいガキや自習するバカ学生や薄汚い老人どもで溢れかえっているに相違ないから。でも部屋にはあまり長くいたくない。やっぱ行こう。マントヒヒの睾丸をニンニクと一緒に炒めたい日だな今日は。スピッツの「うめぼし」聴きたいわ。

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