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さんざめくテニスボール、逆襲的反理性、星一徹構文、夫婦の教養格差、ケッタイで孤独な仲間たち、

八月七日

一九八〇年代の初めに、日本人は既に「他人となにかを共有する」という習慣を失いかけていた。後は「個々人バラバラの時代」で、「同じようなものを求める人間達がマスで存在する」という、新しい段階がやって来る。「自分がこう思ってるんだから、これでいいじゃない」という断定が初めにある。たとえその断定が「なんとなく」であったとしても、「断定」は断定であるがゆえに強い。その強さが、「他に対する説明の必要」を排除してしまう。「断定」で、行けるところまで行って、それが適用しなくなると、「自分のこと」であるにもかかわらず、「分からない」の思考停止に陥ってしまう。それは、「どう説明したらいいか分からない」ではなくて、自分の確信――あるいは根拠なき断定が初めにあって、「説明する」をなおざりにしていた結果だろうと思う。安倍晋三首相の「初めに断定ありき、説明なし」は、実は日本人一般の風潮にもなりかかっていて、そうであるからこそ当の「辞めない総理大臣」は、「自分のどこがいけないんだ?」と思っているのだろう。

橋本治『最後の「ああでもなくこうでもなく」そして時代は続いていく――』(マドラ出版)

十一時半起床。紅茶、キャラメルクッキー。全共闘運動のさなか、学生に御菓子を配っていたことから、キャラメルママと通称される「お母さんたち」がいたそうな。これはよほど当時の人々をおもしろがらせたらしく、バンド名にもなっている。転生したらスライムじゃなくてキャラメルママになりたいですわ。ところでこのごろ「思考の言葉」を文字化するのにしばしば苦痛を覚えます。学生時代、レポートを書きながら、「むしろ」とか「順繰り」なんていう<分かりきった日本語>をいちいち電子辞書で調べている友人をみて、「文才のある私」はそんな彼をずいぶん小馬鹿にしていたものだけど、いまになってみるとそうしたくなる気持ちもよく分かる。長く書いていて脳が疲れてくると眼前のやや込み入った文字列がゲシュタルト崩壊を起こし、「てにをは」の機能区分さえひどく曖昧になってしまう。私はさしあたりこれを「突発性失文症」と呼んでいるのだけれど、具体的にこの状態について研究している人がどこかにいるのかな。これは「書きものあるある」なんだろうか。

日本ペンクラブ・編/眉村卓・選『幻覚のメロディ』(集英社)を読む。
「日本の名作シリーズ」(全三二冊)はあなどれない。アンソロジーだけあって箸にも棒にも掛からぬ凡作が少ない。つまらぬものを読むことに人一倍苦痛を感じやすい僕にとってこれはありがたいこと。まだぜんぶ読んでいない。のちの楽しみのために取っておく。過去読んだものとしては、大岡信の選による『ことばよ花咲け』、椎名誠の選による『素敵な活字中毒者』、大江健三郎の選による『何とも知れない未来に』があって、なかでもとくに、近代名詩選である『ことばよ花咲け』は、私が「ダダ詩人」高橋新吉を知るきっかけにもなった忘れがたい一冊。皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿。横書きで書いてもしようがない。彼の「るす」という詩をA4の紙に書き写し、トイレに貼っていたことをいま思い出した。二十歳ごろだった。

留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年経つたら帰つて来る

こんな文章を残して首吊りたいと今もときどき考える。そういえば当時ぼくは鴨居玲の首吊り男の絵も好きで、印刷したものを部屋に貼っていた。高橋新吉という人は精神を病んで座敷牢に入れられたり、なにかと多難な人だったらしい(頭が鋭すぎると気が狂いやすいのか)。このダダ詩人は中原中也に甚大な影響を与えたことでも知られている。中原は「高橋新吉論」において、

この人は細心だが、然し意識的な人ではない。意識的な人はかうも論理を愛する傾向を持つてゐるものではない。高橋新吉は私によれば良心による形而上学者だ。彼の意識は常に前方をみてゐるを本然とする。普通の人の意識は、何時も近い過去をみてゐるものなのだ

と評している。新吉は「禅」にも傾倒していたらしく、『禅の伝燈』という本もあるけれど、人々によって論じられている禅はたいてい私の理解する禅とはぜんぜん違うものなので、そこに関心はもてない。いずれ『無門関』を通してその点を詳述してみたい。
先々月、辻潤著作集を入手したのでけっこう長く付き合っていたが、そのなかでこんなファンキーな文を見つけた。

ダダが娼婦の股の中に深く首を突ッこんで合掌した――その時娼婦の五体から燦然と金光が迸ばしって彼女がマリアに早変りをした――ハッハッハッ

『癡人の独語』「サンふらぐめんた――ダダは深く沈む――」

ダダはつまり首を突ッ込みながら拝む。「現象」のなかに全裸でダイブする。「歴史の拒絶」に繋がりやすいのはそのため。

ベッドか大地に身を横たえれば、とたんに時間はもう流れず、どうでもいいものになる。歴史とは直立した人類の所産だ。

シオラン『カイエ』(金井裕・訳 法政大学出版局)

詩人はいつも「語り得ぬもの」をどう語ろうかと臨戦体勢でいる。とはいえ、詩人の眼を通せばどんな「語り得るもの」も「語り得ぬもの」へと俄かに変質してしまうのだ。「霊感」などを待ち構えているのは凡庸な詩人だけである。詩人は「言葉」などこれっぽちも信じていない。だからしばしば言葉への苛烈な拷問者となる。そして「そのようにしかありえないように装い続ける既存宇宙」に退場を迫るのである。だから、「反言語的」「反宇宙的」ではない詩人など児戯に類する。

だしぬけに自分が「伝達不可能なもの」のなかにいることに気づき、言表不可能な曖昧なものの重みを自分の上に感じる。

同上

世界を拒絶すること。時間を堰き止めること。肉体を蔑すること。人称的被膜が溶解してようやく生ずる<私>。活潑潑地(『臨済録』)。レレレのおじさんの眼は穿たれた虚空であり、その虚空の眼を通してしか「そこにはない宇宙」は見えない。レレレ的な神出鬼没性は、ムーミン・シリーズにおけるニョロニョロとは比較にならない。まずは自分の「眼差し」のなかに<ゲリラ的なもの>を匿うことだ。「見る」とは溶かすことである。ミミズとミミズクの本質的差異は「ク」の文字にあるのでない。「存在者」の波間を漂う流木の<悲哀>はごく理知的な態度によるものなのであって、主情的な態度によるものなのではない。「午前九時の青い太陽」(蔵原伸二郎『岩魚』「鮭」)のなかに私が透き通った悲哀を見るとき、永遠からさえ疎外されているおのれの孤絶を知る。絶対的な個我。比較を絶した虚無点。

「生」は私を置きざりにする。そうしなければ「生」は先へはすすめない。自分を事態の進行の障害物と思う私は、「生成」の邪魔者だ。

同上

<詩人>は何事ともついに一体化できない。

私は何ものにも同調できないが、そのため現実と私との溝は、日ごとに深まるばかりだ。実をいえば、この同調不能は、私の内部で溝の生成、溝の発生が絶えず行われる原因である。

同上

『幻覚のメロディ』に収められた作品で気に入ったのは、眉村卓『乾いた旅』、夏樹静子『陰膳』、かんべむさし『斬る』、横田順彌『真夜中の訪問者』、野坂昭如『子供は神の子』。なかでもイチ押しは『真夜中の訪問者』。横断歩道がとつぜん「俺」を訪ねてくるというドタバタSFコメディ。ここまで振り切れていると細部などもはやどうでもよくなる。『陰膳』は夫婦の「教養格差」が殺人動機になりうることをあからさまに描いている。夏樹は「いっけんどこにでもいる夫婦の闇」を描くのが上手い。同じ屋根の下に暮らす他人が「知的ではない」ということは、「知的な人間」にとって、たしかに不満の種だろう。なにをいまさらと言われそうだけど、「話をしていて面白い」というのは、人間同士の交流において最も大事なことなのだ。私は好きなジョークを笑いによって共有できないような他者とは、旅をしたいとは思わない。同じような哲学的問いに躓いたことのある他者とでなければ、一晩酒を酌み交わしたいとは思わない。

休館日のきょうは文圃閣へ行くつもりだったけど曇天なんでやめた。倦怠。沈鬱。


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