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ラカンとも付き合ってみるか

三月三十日

二十四時間の出来事を洩れなく書いて、洩れなく読むには少なくとも二十四時間かかるだろう、いくら写生を鼓吹する吾輩でもこれは到底猫の企てに及ぶべからざる芸当と自白せざるを得ない。

夏目漱石『吾輩は猫である』

一時起床。起きたてほやほやのなか温度設定のせいで冷蔵庫のなかにたまった水の処理。くしゃみがとまらず、鼻水も昨日より多めに出る。花粉症はもういいだろう。だいいち飽きた小町だ。

スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶・訳 河出書房新社)を読む。リュブリャナ出身の鬼才哲学者ジジェクの実質的なデビュー作。どうもジジェクは癖になる。なにが物凄いかを知りたければ読んでくれたまえりまきとかげんごろう。
しかしジジェクのラカン推しはすさまじい。かつてトマス・ヘンリー・ハクスリーが「ダーウィンの番犬」の異名で呼ばれたのに倣って、ジジェクを「ラカンの番犬」とでも呼びたくなる。
しばしば「ポスト構造主義(ポス構)」に分類されがちなジャック・ラカンだが、本書のジジェクによると、それは違うという。なんとなく分かる。
ごくがっつりいって(「誤解」も含めて)、「ポス構」には、西洋的思考の核にある人間中心性、主観性をどこまでも執拗に解体しようとする傾向が強い。ものを考える際に気が付けばさりげなく密輸入されている「形而上学」の批判に余念がない。「音声中心主義」「ロゴス中心主義」を批判し続けたジャック・デリダなどは「ポス構」筋の代表選手。
対してラカンは、「象徴界」「現実界」「想像界」「対象a」だとかけっこうシステマティックな理論を有している。ポス構的な「主体排除」「実体嫌い」「とことん相対化」とは縁が薄い。ジジェクの「通訳」を介したラカンもいいけど、そろそろラカンそのものにアタックしたい。『エクリ』『精神分析の四基本概念』あたりが無難なところか。「ソーカル事件」があったにもかかわらず、ラカンにはつねに一定の根強い支持がある。その謎を解明したい。そういえば僕の尊敬する斎藤環も「ラカン思想」の強い影響下にある。
「異性愛規範」がいかにして形成されたかという問題と取り組むうえでも、ラカンは重要な参照先だ。

夜八時ごろ、砺波の温泉。二時間ほど駄弁りながら湯に浸かる。来月から値上げらしい。原油価格高騰の影響を受けてか。ホームページによる泉質は「アルカリ性単純温泉」。温泉利用事業者は温泉についてのさまざまな情報を掲示するよう定められている。詳しいことはまた別の日に。

隣の無神経爺さんの電子レンジバタンバタンハラスメントが始まった。なんでそう勢いよく閉めるんだ。「音が響いている可能性」を考えないのかよ。お前の部屋は防音室じゃねえぞ、クソヤニが。なんで俺の隣にはいつもこんながさつな動物しかいないんだ。人間たちの「下品さ」「粗暴さ」を思うと泣きたくなってくる。いかん、もう目が潤んでいる。ハンカチをおくれ。ティシュでもいい。金頼むのひとことでもいい。

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