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「積読の効用」、鼻白む東大一直線、ハメ鳥作戦K、ララバイ鯖煮相談、新宿の母失踪事件、

五月十三日

死ぬほど退屈な連中。そこらじゅうにいる。そいつらがまた、死ぬほど退屈な連中を繁殖させる。なんたるホラーショー。世界じゅうそういう奴らがウジャウジャしてる。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(柴田元幸・訳 筑摩書房)

午前十一時四八分。山崎のメロンパン、玄米緑茶。休館日。天気はあまりよくない。俺の言う「よくない」というのはお日様が隠されているということ。天気予報によると午後四時あたりからは晴れるらしい。書店に行こうか行くまいか。この「~まいか」という否定助動詞を使うたび、「これ文法的に正しいのかな」と不安になる。文を書くというのはこういうことの連続だ。こういうことの連続に快楽を覚えられるくらいでなければだめだ。俺は細かいことがどうしても気になる。細かいことが気にならないと哲学はできない。目下の悩みは部屋の本がどんどん増えていくことだ。賃貸暮らしという自覚が持てない。買うばかりで売らないのでここままだと俺の寝る場所が無くなる。少なくとも理論上は必ずそうなる。そのときはバルコニーで寝るか。寝袋買わないと。ジモティで安く入手できるかな。できればロハがいい。ロハより安いものはない。しかし阪神にとってロハスは高い買い物だったね。思うに「積読」は多ければ多いほどいい。「まだほとんど読んでない本」に囲まれていると身が引き締まる。懈怠の心が生じる余地がなくなる。「積読」のなかには「これからもほとんど読まないだろう本」も相当数含まれているだろう。出来ればすべての本を熟読玩味したいけれども「残された時間」がそれを許さないだろう。でもそれでいいんだ。大事なのは「これからもほとんど読まないだろう本」の送る秋波を不断に意識し続けることだ。「いつかはちゃんと読まねば」という緊張感は「退屈」に対する最良の抗体になる。暇を感じる暇などあってはならない。暇を持て余すことは「現代人」にとっては毒にしかならない。「小人閑居して不善を為す」。まえに読んだ阿刀田高のエッセイに面白いことが書いてあった。ちょっと引いてみる。

読書は食物のように人生不可欠のものではないから、自動的に〝毎日ある〟とは言えないが、そこは心掛けひとつ、習慣さえ身につけば〝毎日ある〟ことも可能だし、〝ほかの快楽がなくなっても、最後まで残って慰めてくれる〟ということなら、むしろ食卓の快楽より読書の快楽のほうが長生きする場合もある。たとえば食事がサッパリ楽しくない人だって世間に結構たくさんいるのだから。
しかも〝食う〟ことに比べれば、なんと〝読む〟ことは安くすむか。読書によって〝人生いかに生くべきか〟などなど、りっぱな思想や判断力が身につくかどうか、過度の期待はさて置くとしても、わずかな投資と努力で人生の楽しみが増加することだけは確かである。とくに病気の時や老後にこれが役に立つ。言うなれば読書には傷害・養老保険のような価値もあるのであって、病中・老後のレジャーを確保するためにも若いうちに読書習慣を身につけておいたほうが便利のようだ。

『まじめ半分』「読書保険」(角川書店)

「言いたいこと」が分かり過ぎるのでこれいじょう何も付け加えることはない。よく「読書はコスパが悪い」なんてことを言いたがる人がいるが、こういう人を見るたび、「ああ、本を愛する人はこういうバカなことは言わないだろうな」と思う。こういうバカなことを言わないためにも人は読書の快楽を覚えておいたほうがいいのだ。トラスト・ミー! 
さあ麻婆豆腐作って食うかね。豆板醤革命。備忘33000円

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