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やっちゃば一代記 実録(31)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 マッシュルーム その1
 ピーマンの生産販売に傾注する一方、大木はマッシュルームの扱いにも手を染めた。この茸は戦後になっても一部のホテルとレストランでしか使われていなかった。スエヒロのビフテキブームで洋食用食材が伸びると見越した大木は、神奈川県でマッシュルームが大量栽培されるとの話を聞きつけるや早速、開通したばかりの小田急電車に飛び乗った。
 日本で菌を用いたマッシュルームの人工栽培に成功したのは大正十一年。
森本彦三郎という生産者によって栽培が確立されてはいたが、収穫量は高が知れていた。大量栽培の話は大木にとってはいかにも耳寄りだった。
小松某という生産者もちょうど出荷を考えていたところで、大木の到来は渡りに船。収穫時になると、大木は二キロ入りの木箱に茸を詰め、いくつか梱包したのを縄で括って両肩に振り分けた。異様な風体に電車の乗客は好奇の目を向けていたが、大木は気にも止めず、せっせと築地市場に運び込んだ。
おかげで築地に集まるマッシュルームの八割方は大木が手掛けるところとなり、それだけ懐も暖かくなっていった。しかし、お客が増えるにつれ不満の声も出てきた。「大木さん、ちょっと量が多すぎるんだよね。使いきれなくて、結局割高についてしまうんだ!。」
販売単位を改善しようと考えていた矢先のことだった。生産者が突然、廃業すると言い出した。困った大木は土浦の海軍基地にあった防空壕を借り、自
分でマッシュルームの栽培に手を付けることになったが、これが失敗の連続で、今までの貯金を食い潰していくような具合になった。基地の周りには厩舎がたくさんあり、茸菌の床にする藁が豊富に手に入った。生産条件はそろっていた。が、なにせ栽培技術ときたら片手間に覚えた見様見真似、ほとんど勘が頼りである。
 あるとき大木は敷き藁の醗酵熱でムンムンし、白煙が立ち込める菌舎の中に普段着で入った。「馬鹿野郎!、茸を殺す気か!。」
消毒済みのピンセットで種菌を丹念に植え付けていた作業員が血相を変えて怒鳴った。大木はこの失態で半分のマッシュルームをダメにしたのだった。

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