カウンセリング記録してみよう🐻‍❄️𓈒 𓂂𓏸【1回目】


Noteはすごい人しか書いちゃいけないんだと思っていて、中々手が出ずにいましたが、カウンセリングをきっかけに書いてみようと思いました。

私は自称『家庭環境、特に親子関係に問題のある大学生』です。
幼い頃からいろいろあったものの、何とか人生を前に進めようと頑張っていました。

けれど、高校進学、大学進学、就職活動と、人生の乗り越えなければいけない課題が目の前に現れる度に、乗り越えられないかもしれないという感覚が強くなっていきました。
実際に、乗り越えられないものが多くなりました。

このままでは人生が進まない。
そう思った私は自分に対するハードルを極限まで上げ、さらに自分を追い詰めました。

追い詰めまくって崩壊した後に、やっと、これ以上は自分ではどうにもならないと気づきました。

ここまで約7年です。
たくさんの人を傷つけて傷つけられて、今の場所にいます。

どうにもならないと気づいた私が取ったのは『専門家に相談』という行動です。
これは素人が対処できる範疇を超えていると、確信できたのが今年の1月のことでした。

そこから色々あり(笑)、今日やっとカウンセリングを受けることが出来ました。
乗り越えられるか分からないけれど、この過程を忘れたくないので記録しようと思いました。

同じ境遇の方を助けたい、この家庭環境の問題に関して啓発活動をしたいなどの、崇高な精神の元には書いていません。

ただただ、わたしの記録。それだけです。


さて、本題です。
そもそもカウンセリングって本当に意味があるのか?私を救うものになるのか?という若干の猜疑心を抱えながらカウンセリングルームに向かいました。

病的な可哀想な人として迎え入れられ、腫れ物扱いされるのではないか。見え透いた共感と傾聴に終始するのではないか。今思えばそんな警戒心もありました。

予想に反して、ただただ普通の会話のようなカウンセリングでした。

しかし、私が求めていた専門的な知見も短い時間の中で提供してくださり、率直に信頼できそうだなと思いました。

カウンセリングの中で1番驚いたのは「虐待だ」と断言されたことです。人生で初めての経験でした。

「親が酷い」と他人に主張することはありましたが、第三者に「それは虐待だ」と認めてもらったことはありませんでした。

人生観が変わるような驚きという訳ではありませんが、言われて嬉しかった?安心した?名前の付かない感情が生まれました。

カウンセラーの方は「虐待だ」と断言する根拠として、「人間は暴力的なかかわり合い、表現方法以外にも選択肢を持っているから」というものを挙げました。

私は両親から怒鳴られる、手を出される形での『教育』を沢山受けてきました。

歪な状況を自覚しており、虐待行為だと認識していたにも拘わらず、上記に言及された際に新しい価値観に触れたような驚きがありました。

『親が子どもを虐待』と聞くと、どう感じますか?
「ありえない、どんな理由があっても許されない」?
それとも、
「仕方の無いこと、色々な原因がある、一人(親)だけの責任ではない」?

私は後者の意見です。
とりわけ、自分の両親に対して強く思います。
私の友人が同じ状況にあれば、強い前者の意見に変わりますが、自分に対しては前者の意見になりきれません。

私は「母も父もきっと家庭環境が悪く、彼らもまた虐待を受けていた。同じく可哀想な人だから仕方がないかもしれない」と思っていました。

しかし、この考えは少しずれていたようです。
カウンセラーの方に「母も確かにケアが必要な状況にありそうだが、それは母の問題であり、私の問題ではない。仕方ないことではない」と言われました。

正直、これを書いている今も、この意見を噛み砕ききれていません。
「健全な人はそう考えるのだな」くらいの、「第二次世界大戦があったんだよ」と言われたくらいの、自分事だけど他人事のような、ふわふわした解釈です。
 
また、私は今日暫定ですが「複雑性PTSD」という称号も授かりました。
ラベリングの負の効果が問われる時代ではありますが、私はこの称号を授かることができて安心しました。分からないって1番こわいなぁと実感した瞬間でもありました。


私には小学生、中学生の頃の記憶が全くなく、高校生の記憶は断片的です。これも症状の一種だそうですね。(皆の記憶が鮮明すぎて怖い時期もありましたが「私記憶力ないな」くらいに思っていました。)

今からは自分の状況を安定させること、忘れている記憶を思い出していくことをして行くようです。
数十年付き合ってきた問題と向き合えることが、ひたすらに嬉しいです。

最後に、いつかの将来の自分が健やかに生きれるように祈っています。




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