見出し画像

「聲の形」は障害を克服する物語ではなく、欠陥を受け入れる物語である。

2016年と2023年のアニメーション


『聲の形』は2016年に公開された、京都アニメーション制作の劇場作品だ。
また、2016年のほぼ同時期に新海誠監督の『君の名は。』が公開され、大ヒットを記録したことにより、残念ながら興行的に影を潜める結果となった作品でもある。

それについては、「見る目のない奴が多いな」等、言いたいことが多々あるが、そんなことよりもここで言いたいのは、2016年に起きた『君の名は。』の記録的な大ヒットと『聲の形』の小規模なヒットの差は何だったのか?が、2023年に話題となった『葬送のフリーレン』のヒットと岡田磨里監督の『アリスとテレスのまぼろし工場』の興行的不発をもって、府に落ちたことだ。

要するに、人間の醜い部分を露悪的に描く、『聲の形』や『アリスとテレスのまぼろし工場』のような人を傷つける作品よりも人間の素晴らしさを謳う『君の名は。』や『葬送のフリーレン』のような人を癒す作品の方が興行的にも話題性でも優位に立つことが、2016年の2作と2023年の2作の結果をもって証明され、「誰も虚構の中に現実を求めていない」それが、この国の2016年から2023年まで7年間のアニメーションなんだと認めざるを得ない状況が今だということだ。

それに私は激しく憤りを感じる。なぜなら、この国のアニメーションは、
7年間一歩も前に進んでいなかったからだ。まさしく日本経済のように。

「それでいいのか!」と思った。

だから、私は8年前に放映された『聲の形』の価値を2024年の今、もう一度訴えかけようと思う。それがこの記事を書くに至った動機である。

動機を語り終わったので、ここからは、本作の話へ移ることにする。


音への意識


冒頭から、音への意識が非常に強い印象を受けた。主人公が川に身を投げ出そうとした時にはっと我に返るシーンを強調する河川敷の花火の音。幼少期の回想シーンに入った時の軽快なBGMはあの頃は楽しかった主人公のノスタルジックな気持ちを想起させ、硝子が転校生としてやってきた時にはそれまでのBGMとは打って変わって、ピアノの重く低い音でそれまでの状況が一変するような何かが起きる不穏な空気を演出する。ここで注目すべきなのが、本作は言わずもがな聴覚障害の女の子をヒロインにしている。そして、障がい者を題材にする作品は数多存在するが、そのほとんどが障がい者に対して同情的で障害のせいで問題は起きるが、障がい者自身には何も問題がないように描かれることが多い。しかし、本作はヒロインが初登場したシーンにあえて重苦しい音を選ぶことで、所謂感動ポルノのような同情的な作品ではなく、障害をもった子が転校してくる状況を綺麗ごとを抜きにして描くという野心が冒頭から徹底されている音への意識から伝わってくる。



聞こえないから、伝わらない?


硝子へのいじめが始まるきっかけとして、音楽の授業で合唱をするシーン。
耳が聞こえない硝子はどのタイミングで歌い出していいか分からず、先走って声を出してしまう。また、自分の声が聞こえないため活舌のはっきりしないぼやけた声で歌ってしまう。そのことに校内の合唱祭を控えるクラスに不満が募り始める。また、それを強調するように音読のシーンでも、少しけだるそうに読んだ植野が先生から「なんだその読み方は?」と言われ、硝子が読んでも何も言われない。そんな不憫な植野の顔を見かねた将也は、硝子を茶化すように真似をしてクラスの笑いを取る。それに反応して、クラスの皆は笑い声を挙げ、先生はきつく将也を叱らない。耳の聞こえない硝子には悪意が伝わらないと思っているからだ。だが、そんないじめ以下のからかいが少しづつヒートアップしていく様を本作は足のアップを使って表現している。

初めは、クラスの悪意に気付いていない硝子が”足並み”を合わせようとクラスの女子集団の中心にいる植野と接触するシーンから足のアップが始まる。
次にどこかへ移動する集団を追いかける遅れた硝子の足。次にジャングルジムで一人ピントの合った硝子の足とその奥のぼやけた女子集団の足を同一画面に映すことで硝子は”歩み寄りたい”が、集団から距離を離されていることを仄めかし、続いて一人で歩く硝子の足を映して完全に孤立した様子を演出。最後に足を止め、ジャングルジムに上り画面から足が消えることで、
硝子が集団に入れてもらう可能性が完全になくなったことまで表現する。

足を使って、硝子にまつわる状況と心情を表現するだけでなく、耳が聞こえないからといって悪意が伝わらないわけではなく、硝子は己に向けられる悪意が皮肉にも集団に”歩み寄ろう”とした結果、増幅されてしまうというすれ違いを硝子の”歩み”と足のアップをダブらせるような演出になっていて非常に巧みである。

また、そのシーンのすぐ後に、馴染めない硝子に石を投げて振り向かせる将也。それに手話で返事をする硝子。最終的に砂を掴んで投げることで将也が拒絶する。というシーンを続けることで、次は足から手に意識が変わることを示唆し、後の手話についてのシーンへスムーズへ移行するとともに、怒りしか表現できない将也の手と手話で会話をする硝子の手に対する意識の違いを表現するシーンにもなっている。

足や手のシーンを細かく見ると、音同様、意識が徹底されており、京都アニメーションの表現力の粋を集めた作品であることが伺える。


誰が悪いのかではなく、何が悪いのか?


お話は、おそらく冒頭の将也が自殺をしようとした原因となったシーンへ移る。

将也が後ろから大きな声で叫んだり、補聴器を無理やり外したことで硝子の耳から血が出たりといじめがヒートアップすることで次はやり過ぎた将也に矛先が向き、いじめが始まる。

ここで注目すべきなのが、タイトルに書いた各キャラクターの”欠陥”が露呈し始める部分だ。

いじめられたにも関わらず、「ごめんなさい」と言う硝子。

いじめたにも関わらず、「ごめんなさい」と言えず、他の人間もやっていたと非を認めない将也。

将也と同じくいじめに加担していたはずなのに、将也一人に罪を被せ、罪から逃がれようとする植野たちクラスメイト。

これらの”欠陥”が衝突することで起きたすれ違いが原因で起きたいじめであったことを証明するように将也と硝子がもみくちゃになった喧嘩をするシーンを描き、その後、硝子が転校することで騒動が治まる。否、なかったことにされる。

そう、誰が悪かったのかがはっきり示されてないのだ。

このシーンは本作の肝だと私は考える。

白でも黒でもなく、あくまでもグレーなのだ。

障害を持つ硝子にもいじめられる原因があったようにも見えるし、硝子からやりすぎた将也にすぐ矛先が向かったことから、クラスのいじめる対象は、耳の聞こえない硝子でなくてもよかったようにも見える。いや、そう見てもらうためにわざわざ各キャラクター”欠陥”を描いたのだと思う。

観客に考えてもらうために。

「誰が原因ではなく、何が原因なのか?」と。

その問題提起をすることで、序盤の回想シーンは終わり、高校生となった将也に視点が移る。


死ぬことは贖罪にならない


話は変わり高校生の将也。硝子の補聴器を壊したことで、母に支払わせた170万をアルバイトで稼ぎ終わり、硝子へノートを返却し、贖罪を果たすと自殺を決意する。しかし、それは未遂に終わる。

翌朝、目覚めると、母から弁償されたお金を受けとることの喜びを伝えるとすぐに焼いたベーコンをひっくり返して、なぜ死のうとしたかの理由を問われる。無論、このベーコンをひっくり返す行為は、話が変わることへの合図だが、それよりもこのシーンの演出として印象的なのは、母の耳たぶの傷跡を何度も意図的に見せているところだ。

この傷跡はおそらく硝子の母親にぶたれた際にできたものだが、母親の横顔がアップされた時も、正面の顔がアップされた際も、一瞬フラッシュバックしたぶたれた後の母の顔のアップにもきっちり描かれている。

これは、お金を返そうが、時間が経とうが、自分が死のうが、いじめた罪は消えないことの示唆であると同時に贖罪は、一度開いたら綺麗に塞がらない傷跡の如く永遠に続くものであるということだろう。

また、将也には母親の傷だけでなく、違う罰が用意されている。

それは、他人の顔が全てバツ印で見えなくなっていることだ。

これはいじめた過去を友人だった知人に吹聴され孤立した故人間不信になった結果の産物のように描かれるが、そうではなかったことに新たな友人と出会い、旧友と再び向き合うことで将也は徐々に気づいていくことになる。

硝子の欠陥


不良に自転車を奪われそうになっていた長束を助けたことがをきっかけに
将也は再び友人を得ることで活気を取り戻し、贖罪を果たすため硝子の願いを叶えることに奔走する。

その過程で硝子の妹である結絃との出会いや疎遠になった硝子の友人佐原、クラスメイトだった植野、川井らと将也は再び向き合うことになる。

また硝子は将也と植野が楽しそうに会話をする場を目撃することで将也への気持ちに気が付き、意を決して将也へ告白するのだが、結果は失敗。

この告白シーンも一見、耳が聞こえないせいで硝子の告白が正しく伝わらなかったように思えるが、そうではない。

告白の失敗には硝子の人としての”欠陥”に理由がある。

それは、硝子の聴覚障害を絶対理由にした自責思考だ。

序盤の回想シーンでも、いじめられているはずの硝子がいじめている将也に「ごめんなさい」とノートを使って謝っていたが、硝子は自分の耳が聞こえないせいで周りに迷惑が掛かっていると思い込んでいる。つまり、自分の耳が聞こえないから悪い。だから自分がひどい思いをしてもしょうがないと思っている。しかし、それこそが硝子の聴覚障害者ではなく、人間としての”欠陥”なのだ。

それがこの告白シーンにも顕著に表れてしまっている。

正しく気持ちが伝わらないなら、筆談するなり、伝わるまで何度告白したり選択肢はいくらでもあるはずなのに硝子は耳が聞こえないことを言い訳にしてその場から逃げてしまう。

確かに、「恥ずかしい気持ちに耐えられなかった」という言い訳もこのシーンには含まれているだろうが、それだけが理由なら後のショッキングなあのシーンを描く必要がなくなってしまう。

硝子の”欠陥”が露呈し始めるのが、告白シーンの意図だと私は考える。


みんなの欠陥


告白シーンのあと、仲良くなったメンバーで遊園地へ遊びに行く将也。

その際中で起こった出来事が後日、結絃のカメラに写っていたことが分かり、将也は植野と硝子、二人だけの会話を盗み見ることになる。

観覧車に乗った植野と硝子。

開口一番。「あんたのことが嫌い」と硝子に告げる植野。
ここでさっき語った硝子の”欠陥”を指摘する植野。

それでも尚、「ごめんなさい」と言うだけで自分の”欠陥”に気が付かない硝子。

カメラに移された会話を一緒に見ていた結絃から「どう思う?」と聞かれた将也は「西宮には西宮のことを好きになってもらいたいよ」と言う。

この台詞も一見、将也が硝子を慮ったもののように思えるが、将也も硝子の”欠陥”に気付いているはずなのに、自分の犯した罪が邪魔をして硝子をかばってしまう。

そのすぐ後のシーン。将也は本音に嘘をついた罰を受けるように、自身の過去を知らないクラスメイトの真柴から「いじめは許せない」と告げられる。

真柴の言葉に不安が募った将也は、かつてのクラスメイトの川井に「自分の罪を言いふらしているのでは?」と問う。

無理もない。この川井というキャラクターは非常に保守的で利己的な性格。回想シーンでは硝子へのいじめに加わっていたはずなのに、先生からいじめについて追及された際、真っ先に自分の身の潔白を涙を流しながら訴え、
将也に自身の罪を全て被せることで罪から逃れていた。

そして、彼女の暴露によって自身の罪が公になり、窮地に立った将也はその場から逃げ出して、硝子のいる橋へ向かう。

そこへ、川井が植野達を連れて謝りに来る。

一応の謝罪する一方で、「元はといえば石田くんが悪い」とこの期に及んで言いだす川井。それに、「あんたもいじめてたんだから、石田を責める資格はない」と反論する植野。

本音を何でも誰にでもストレートに言ってしまう自分勝手な植野の”欠陥”自分の事しか考えていない川井の”欠陥”。それぞれの”欠陥”が衝突することで、将也の罪の暴露が端を発した言い争いの火は大きく燃え上がり、硝子と仲良くしていたことがきっかけで硝子同様いじめを苦に不登校になった佐原にまで飛び火する。

「俺が全部悪いから。」とやけになった将也は、とうとう抑えが利かなくなって各々の”欠陥”をぶちまけてしまう。

「植野 自分勝手に何でもかんでも決めつけんなよ」

「佐原 どうせまた逃げて後悔すんだろ 弱虫だって」

「川井 しゃべるな 昔からお前は自分が可愛いだけなんだよ」

長束には、「俺のことよく知りもしないくせに味方とかいってんじゃねぇ」

真柴には、「部外者のくせに口挟むんじゃねぇ」

ここでも自殺を決意したシーンと同じく将也の”欠陥”が露呈している。

自分がひどい状況に陥るのは、過去の罪のせいだと思い込んで全てを過去の罪の責任にして自身の発言の酷さや友人の気持ちを傷つけたことから目を背けたまま事態を強引に解決しようとする。

将也の”欠陥”は、自身にとってネガティブなことを全て過去の罪のせいにすることだろう。

自分で孤立する状況を作っておきながら、「これで西宮への贖罪に集中できる」と言わんばかりに、硝子と共に過ごす日々を続ける。

その将也の悲しそうな様を見た硝子は、花火大会の日。

自身の”欠陥”である自責思考の元、祖母の逝去も重なり、 「私が近くに居るから 将也がひどい思いをする 私がいなくなれば」と。自宅のベランダから身を投げてしまう。

嫌な予感を感じ、現場に駆け付けた将也は硝子を庇い、川に身を投げ、昏睡状態に陥ってしまう。

それぞれの”欠陥”が衝突することで起きる一連の出来事がこの映画のメッセージを強調する。



この映画のメッセージ


少し、話が逸れるが、大事なことなので伝えておく。

この作品への感想の中に、「コミュニケーションの難しさを描いた作品」というものがあった。

果たしてそうだろうか?

コミュニケーションの不通で起きたいじめであり、人間同士の衝突であるとは私は思わない。なぜなら、将也や植野は本音を言っているからだ。

本音を語ることは、コミュニケーションの基本だと考えられている節がある。

「言いたいことを素直に伝えれば相手に伝わるはずだ」

果たしてそうだろうか?

私はきれいごとだと思う。

人間同士のコミュニケーションがそんな簡単だったら、本作で描かれているような諍いは起きない。

なら、何がいじめの原因なのか。衝突の原因なのか。

それは、自身の”欠陥”を認められないという人間の業ではないだろうか。

「誰しも自分が大好きで だから傷つきたくなくて 欠陥を人に悟られないように弱みを見せないように認めないように」と思って生きている。

それが健常者であっても、聴覚障害を持った人であっても。

誰しもに”欠陥”がある。

「過度に障がい者を同情的に描くことこそ 人間 誰しもに欠陥があることから目を逸らしていて それに向き合えていないのではないか その結果 健常者と障がい者を真に平等に扱えていないのがこの世界ではないか」という現代社会への強烈な批判がこの映画の本質なんだと私は思う。

そして、その答え合わせがラストシーンの意味だと考える。


ラストシーン


自殺しようとした硝子を庇い、昏睡状態になった将也。

将也の母に懺悔する硝子。自分を想い涙する母の姿を見て、自分の起こした事の重大さを受け止め、目を背けていた”欠陥”に向き合うことを決意する。


長い昏睡から目を覚ました将也。硝子と会うためいつもの橋へ向かう。

二人は、橋で再会し、自身の”欠陥”を打ち明け合う。

「あのさ 俺 君に生きるのを手伝ってほしい」

”欠陥”を認めることができたからこそ、自分以外の誰かに穴を埋めてもらう。他者の存在が必要だと再認識する。

硝子との会話を機に決意を持って文化祭を訪れたはずだったのにいまだに人と顔を合わせられず、まだバツ印が見えてしまう将也。

このシーンで勘違いしてはいけないのが、将也も文化祭に来た友人たちも”欠陥”を直そうとしていない所だ。

そう”欠陥”は治らない。”克服”できない。

それを証拠に植野はまだ嫌味な言い方を続けているし、川井は自分を良く見せようと振舞う。佐原もうじうじしているし、硝子も何かとすぐ「ごめんなさい」と言う。

でもそれでいいのではないか。

自身の”欠陥”を認め、受け入れる。また他者の”欠陥”も認め、受け入れる。

”欠陥”と向き合いながら、付き合いながら、生きていくしかない。

誰しもに”欠陥”があるのだから。

両手で塞いだ耳から手を離し、周りを見渡す将也。

罪を犯した事への罰で、バツ印が見えていたのではない。

自分が他人の顔にバツ印を付けていたことにようやく気付く。

「原因は自分の中にあったんだ。」

真に自分の”欠陥”を認められたことを意味するシーンでこの作品は締められる。

バツ印は自分へのバツ(罰)ではなく、”欠陥”を意味するだった。

将也が自身の”欠陥”に気付くためのバツ印。

私はそんな風に見えた。


最後に


障がい者を扱った作品は24時間テレビ的な、感動ポルノになったり、純粋で穢れ亡き存在であるかのように描かれることが多いが、本作はそのようなきれいごと一切許していないし、むしろ障がい者をテーマに据えることで、
人間の欠陥を浮き彫りにするような作りになっている。

またこの作品をセカイ系の祖であるような『涼宮ハルヒの憂鬱』を作った
京都アニメーションで日常系の祖である『けいおん!』の監督であった
山田尚子が作っていることの意味は相当に深い。

本作で京都アニメーションは自身の”欠陥”を認め、受け入れることで自己批評的な作品を制作した。それが本作の主題と共有しているところにこの作品の価値があるのではないだろうか。

本作は、間違いなく10年残る傑作である。

それでは。



追記 希死念慮への回答


希死念慮 ・・・生きたくないと考えたり、死ぬことを想像したりすることである。

本作も希死念慮に苛まれたであろう主人公将也とヒロイン硝子の自殺を仄めかすシーンがあるが、結果、将也は自殺をするのをやめ、硝子はマンションから飛び降りるが、将也に助けられる形で生き延びた。

2時間ほどの映画に2回の自殺(仄めかす)シーンを入れることに私は作為的な意図を感じた。

お話的には将也と硝子は自分の”欠陥”から目を背けたいから、現実逃避したいから、自殺を試みるわけだが結果、失敗に終わる。

この失敗に終わるという結果こそ、この映画のメッセージの一つだと私は思う。

「死んでも自分の”欠陥”から逃げることはできない」

だからこその、あのラストシーンが活きてくるのだ。

希死念慮に苛まれる若者が多いと聞く。

ストレスフルな現代社会では思い通りにいかない自分に自己嫌悪することもあるだろうし、生きることから逃げたくなることもあるだろう。

しかし、死んでも、自分の嫌な所が治るわけでもなければ、相殺されるわけでもない。

人間は自らの汚点、醜い部分を受け入れて生きていくしかないのだ。

そして、人間は須らく”欠陥”を持って生まれてくる生き物である。

自己嫌悪に陥ることは誰だってあるし、今の生活から逃げ出したくなることもある。

希死念慮を持つことを異常なことだと捉える必要はないし、それを隠して生きることもない。

”欠陥”を一人で抱えることが苦しいなら、本作のラストシーンのように、
自分の”欠陥”を受け入れ、他人の”欠陥”も受け入れて打ち明け合うことで
希死念慮は解消されるのではないか。

そんなことも本作から読み解くことができるのかもしれない。
























































































この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?