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学会3世の僕の目から見た「宗教2世」問題について。


安倍さんが凶弾に撃たれて亡くなった。あまりに悲しく痛ましいテロ事件が起きてしまった。
事件の衝撃とともに、その犯行動機もまた大きな衝撃を与えた。

旧・統一教会の母親を持つ犯人は、家族を崩壊させた教団への恨みを募らせていた。
どんな理由であれ暴力は全く正当化されないし、どのような境遇であれ犯人に対してなんの同情もしない。選び得るなかで最低な、あまりに自己中心的な報復行為だ。

ただし今、この問題に関連して、宗教2世、3世についての議論をメディアやSNS上などで、よく見かける。
「親の信仰」と「子の信仰」との関係、そして子供の独立性や人権、信仰の選択権に関するものだ。

Twitter上や個人が運営するブログにも、統一教会に限らず「宗教2世」としての苦悩は多く散見される。

もちろん僕の所属する「創価学会」も例外ではない。

ここぞとばかりにアンチが、統一教会と創価学会を同列に並べて論じてみたり、適当な理屈をこじつけて両者を比較対象として取り上げたりと忙しい。

でも、ここで一つお願いしたい。

どの宗教も抱えるこの問題を、どの宗教も同じだと決めつけて勝手な評価を下さないでほしい。
他人事だと思って、検証もせずに全ての宗教を社会悪だと断じるのはやめてほしい。

このnoteは、宗教に対する無理解が原因で、漠然とした危機感や嫌悪感を覚えている方々にこそ読んでほしい。そう切に願いながら書いています。

「宗教2世」の問題点と、僕の生い立ち

子は親を選べない。

少し前に「親ガチャ」という言葉が流行ったが、僕も問答無用で、創価学会の家に生まれた。

多分うちの親はそこまで深く考えることもなく、生まれて数ヶ月の僕を喜んで創価学会に入会させた。

僕はそのことを恨んでもいないし、後悔もしていない。ただ、正確に言えば「後悔する権利」を与えられていない笑。

今の時代はもう少し柔軟だ。
子供が大きくなってから入会させる家庭もあるし、そもそも入会させない家もある。でもやっぱ、子供のうちに入会させる家の方が多いかな、という印象。

「判断力の未熟な子供」に、親と同じ思想を初期設定として与えるべきか。
それとも、自由意志を尊重し大きくなってから自ら信仰を選ばせるべきか。ただしその場合は、幼少期の「道徳教育」としての役割を宗教から奪うことになる。
どちらが正しいか、僕はその答えを持ち合わせていない。

たとえばキリスト教では小さな頃に洗礼を受けるし、伝統仏教の一族における信仰心は、家族というコミュニティの成立要素として定着している。
でも伝統宗教だから正しいというのは、理由にならないかもしれない。


ここで、僕の家の話をしたい。

わが家は祖母の代に創価学会に入会した。
経済苦もあったし、死別もあったし、不和もあったけれど、なんだかんだ世間の家族並みに「それなりに幸せ」な家庭だと思う。

学会の信仰をしているからといって、クラスの友達より特別優れているとか、隣の家より幸福だとか、信心してない親戚より立派だ、とかは微塵も思わない。
ごく普通の家だ、みんなそうだろう。

そんなところでマウント取っても仕方ない笑。

僕はと言えば、別に熱心でもなんでもなかった。
進路に創価大学を勧められた時も「行きたい学科がない」と秒で断ってしまったし、今ではそれも少し後悔している笑。
でも、朝晩の勤行(創価学会の祈り)は一生懸命やっていた。
母ちゃんがやっていたからだ。

僕は母ちゃんが好きだった。
母ちゃんは一度も「題目をあげなさい」と強制しなかったし、部活で未来部(学会の高校生までのグループ)の会合に出られないことも「あんたは部活に真面目に行っていて偉い」と褒めてくれた。
日頃の行いが悪くて学校の先生から嫌われていると言っても、「元気でよろしい」となぜか笑って喜んでいた。

大学に入ってから、学会の学生部の先輩に出会った。苦手な人もいたけど、尊敬できる人もいた。
こんな人になりたいと初めて思える存在で、それがきっかけで信心にも真剣に向き合うようになった。

そして今でも僕は、一生懸命に学会活動をしているし、辛いことも苦しいこともあるけど、成長を実感する日々はやっぱり代え難く楽しい。

「親がやっていたから」という信仰理由は、いつしか「自分が選んだ道だから」に変わっていた

あらためて言うけど、僕は幼少期に創価学会に入会したことを全く後悔していない。今でも母ちゃんに感謝しているし、家族の判断を支持している。

おそらく「親ガチャ」というのは、カプセルを開けた瞬間(生まれた瞬間)に、当たりハズレが決まるものではない。
その価値判断は、自分の思考や感情と連動しながら、大人になっても絶えず変化し続けるものなのだろう。

そういう意味で僕の「親ガチャ」は“スーパー”がつくかは分からないけど、それなりにレアリティが高かった。

信仰の正しさを“文字だけ”で証明することはできない

と、ここまで書いたのは、僕自身のエピソードだ。サンプルNo.1に過ぎない。

みんながみんな“こう”ではないことを知っている。
学会員の中でも、厳しい親に育てられ、それを恨んでいる人もいれば、感謝している人もいる。

僕は創価学会の信仰が、人を幸福にするもの、もっとわかりやすく言えば、人を強くするものだと思っている。

でも、それを文字だけで証明することはできない。こんなことを文章で書かなくてはいけないのは、皮肉だ笑。

だからこそ多くのサンプルが必要だし、多くのエピソードが語られる必要がある。
統計的に量られる必要があり、帰納的に傾向を読み解く必要がある。

そしてまた、身の回りの学会の人に触れてみて、いい人か悪い人か、危険な人か安全な人か、それぞれが判断すれば良いと思う。
幸いなことに、みなさんの身の回りに学会員は結構な数いるはずだ笑。

とはいえ忘れてはいけないのは、親と子はあくまで他人だということ。
子供は「親の所有物」じゃないし、子供も「親のせい」だけにせず、自分自身を省みる必要がある。

その中で、互いを尊敬し合い、別々の価値観を認め、それぞれが正しいと思う信仰を選べばいい。
結果としてその信仰が同じものなら「信仰が継承された」といえるし、たとえ違うものを選んだとしてもそれが争いの原因になっては本末転倒だ。

ただ僕自身は、人から人へ「良い思想」が伝わるように、親から子へと「思想や宗教」が伝わることも、まったく否定されるべきことではないと思う。

“危険な思想”はどこから生まれるのか

ここまで読んだ方はどう考えただろうか。

それでもまだ、宗教なんて山奥でひっそりやってくれ、自分達には関わりのないところで勝手にやってくれ、って思っているかもしれない。

そんなみなさんに一つだけ言わせてもらいたい。
(言うのは自由だよね?)

僕から言わせてもらえば逆だ。
危険な思想は“山奥”から生まれる。

正確に言えば、“世間から隔絶されたどこか”で成長し、発展していった宗教は、間違いなく思想が先鋭化する。
その宗教コミュニティと社会の間には、必ず歪みが生じる。

おそらく、そういう団体の方が危ない。

その一点だけで言えば、創価学会は違う。
この宗教嫌いの国・日本で、どれだけ非難を浴びようとも「社会に関わろう、社会を良くしよう」とする以上は、強制的に社会に適合できる団体に変容するほかない。
その想いが強すぎて、一時的に摩擦を起こす場合もあるかも知れないけど、そうした“無理な活動”は必ずどこかで矯正されていく。

結果的には、そうした団体の方が安心なわけだ。

だからこれからも、間違ったことがあれば安心して非難してください。アンチの皆さんも、どうか遠慮なくお願いします。

その批判が、事実無根で間違っていれば元気な学会員が反論するだろうし、正しいのなら、多少時間がかかったとしてもいずれは改善に向かっていくはずです。



以上が、学会3世の僕からみた「宗教2世」の問題でした。

僕は、学会のスポークスマンでもないし、「これだ」という答えがあるわけじゃない。
だけど、少しでも考えるきっかけになってもらえたら嬉しいです。

あと最後に一言。
母ちゃん、いつもありがとう。

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