オタクの悪いイメージの話してたら秋元康の凄さにたどり着いた件

みなさん、どうも。
link編集部の井の中です。

今回のテーマは「理不尽」ということで、お話していきたいと思います。

僕が思う理不尽、それは、、、

「オタク嫌いな人多すぎ問題」です。

オタクに対するイメージ悪すぎると思いませんか?

「キモイ」「清潔感がない」「陰キャ」「同じ趣味同士でしか固まれない」
「3次元には行けないから2次元に走る」

ちょいとネットを検索するだけでこれだけのネガティブイメージが出てきました。

しかし、僕はこの状況に理不尽さ・違和感を感じます。

前提として僕はオタクだと自認しているので、今日はオタクな僕から見たこの偏見について語ってみようと思います。

目次
其の一 オタクの指す範囲広すぎな件
其の二 オタク=キモイ?
其の三 清潔感がない?
其の四 「陰キャ」「同じ趣味同士でしか固まれない」「3次元には行けないから2次元に走る」はただの悪口

おまけ1
おまけ2

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其の一 

オタクの指す範囲広すぎな件

実はオタクって明確な定義が決まってない言葉なんです。

元々1970年代に出てきたマンガ・ゲーム・アニメ・鉄道・SF・アイドルなどのサブカルチャーを趣味とし、愛好する人たちが現れ、彼らが二人称を「お宅」と呼び合っていたことから、80年代に評論家の中森明夫が名づけたとされています。

サブカルチャーってひとくくりにしてもめちゃくちゃ種類があるんです。

例えば僕は特撮やアイドルは好きですが、鉄道はただの移動手段としてか見ていません(機能的なデザインが美しいなあって思うことはありますが)。

なので最近は○○オタクと、○○に好きなジャンル名(アニメとかマンガとか)をつけて呼ぶのが主流になってきています。

こんな風に「オタク」と一口に言ってもその内容は様々に異なってきます。僕からみてもその趣味はわからないって思う「オタク」の方はたくさんいらっしゃいます。

其の二 オタク=キモイ?

「オタク」の定義が曖昧であることをお話できたので、オタク=キモイというイメージを持たれることに違和感を覚えるのはお分かりいただけるでしょうか?
何をもってしてキモイって思ってるんだろう?という気持ちを何度も僕は経験しました。

其の三 清潔感がない?

これに関しては僕もそう思うときあります。特に男性。
身だしなみはちゃんとしといて損はないよなあと。
ただ、なぜ「オタク」で身だしなみに気を使わない人が多い傾向があるのか?僕なりに分析すると、いわゆる「オタク」の人は、自分の外側に好きなものがありすぎるんです。
だから自分のことに構っていられなくなる人が出てくる。

それに昔は今よりもサブカルチャーの需要が少なく、値段も高かった。
だから、自分の好きなことにお金を使って自分のことが後回しになる。
それくらい好きになってのめりこめるものがあったんだと僕は考えています。
でもね、最近、特に握手会に多く参加しているアイドルオタクの方たちは、毎回着る服も考えて清潔なのはもちろん、すごくおしゃれな人も多いです。

其の四「陰キャ」「同じ趣味同士でしか固まれない」「3次元には行けないから2次元に走る」はただの悪口

ここまで来るとただの悪口ですよね?
そんなに人の「好き」を否定して楽しいんでしょうか?

ていうかちょっと考えてみると、其の二から四は、本質的にオタク関係なくない?

清潔感ない人はいくらか人を不愉快にさせるし、でもそれはオタクに限ったことではない。


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何だろうなぁ、、、。
オタクのネガティブなイメージって恐らく96年のオウム真理教による事件と当時サブカルチャーで人気だったオカルトがイメージ的に結びついちゃたのと、2005年の秋葉原連続殺傷事件の犯人がいわゆる「オタク」で、彼がその「オタクの聖地」秋葉原で事件をことのショックが、当時ようやくそれまでの「オタク」のイメージから脱却しかかってた頃に再び悪いイメージになってしまったこととか関係あると思うんですよね。

僕は、誰の心の中にも「これがたまらなく好き」っていう気持ちはあったと思うんです。
その「好き」の対象が、ある人はアイドルやアニメだっただけだと考えています。

3次元で充実しなかったから、2次元に逃げたっていう側面もあるかもしれない。だけど文化って、エンターテイメントってそういうものではないですか?

江戸時代の旅する金銭的な余裕のない人が浮世絵みたり。
現実でうまくいかなかったけど、音楽聞いてまた明日も頑張ろって思えたり。
失恋した心のモヤモヤを歌手に代弁してもらって切り替えたり。

それに、他人の好きなモノやコトを否定して自分の溜飲を下げている人が僕は嫌いです。

自分の好きを肯定できないから、他人の好きを否定して相対的に優位に立とうとしてるんだ。かわいいなとすら思います。と同時に、他人の否定でしか自分の好きなことを肯定できない人たちは好きを貫いてる人の見ている世界を見ることはないんだろうなと思います。

僕は自分の周りを好きなものでいっぱいにしたい。そうやって現実に自分の好きなフィクションを持ち込むことで、リアルが充実したオタク=リア充オタクになることだって可能だし、僕はそういう人に何人も出会ってきました。

っていうか真のオタク(=自分の好きなものを他人の好きを否定するコトなく貫いている人)は、現実世界でも充実してると思いますよ。

・・ヤバい。どんどん愚痴みたいになってきた。
これだとオタクのイメージがまたよくならないので、少しアイドルオタクの僕なりに話して、締めたいと思いますね。

リア充オタクになるために僕がやってること

結論からいうと、僕もオタクでありながら現実世界が充実しているリア充オタクになりたい!

そんな僕がリア充オタクの先輩たちから教わった方法について書きます。

1、本を読め!
自分の好きなものにのめりこんだ経験のある「オタク」は、興味関心のある分野への好奇心がすごいんです。

だから、自分の興味のある分野から本を読んで、さらに知識を広めていきましょう!

おすすめするのは、サブカル評論家の宇野常寛さん。
サブカルチャーを通して社会を読み解きます。
「日本文化の論点」社会×AKB
「リトルピープルの時代」震災×村上春樹・仮面ライダー
「母性のディストピア」政治×冨野義之・押井守・宮崎駿

2、欅坂46をきけ!
ええそうですよ。完全に僕の趣味ですよ!

でもちょっと聞いてください。欅坂の曲を聴くと、このオタクをどう見るべきか問題みたいなものの1つの解決策が見えると僕は考えています。

サイレントマジョリティーってデビュー曲ありますよね?

あれは実は二重構造になっていて、「YESでいいのか?サイレントマジョリティー」と問いかけられて、この曲に賛同する人こそが、実はサイレントマジョリティー側(多数派に属して安心して何も動けずにいる人)なんです。

これまでのアイドルとは一線を画した、欅坂という彼女たちですら、デビュー時にはまだ完全にサイレントマジョリティー側から出ていないんです。

だから「僕らはなんのために生まれたのか?」と「自分の夢の方へ歩けばいい」という矛盾する内容が並立してあるんです。

つまり、欅坂のデビュー曲はサイマジョでしかありえなかったということです。
歴史にifはないですが、もしサイマジョがデビューから少し経ったこの時期に出されていたならば、当時ほどの影響もなければ、欅のここまでの発展もなかったでしょう。

そして、一変して最新曲「アンビバレント」では、彼女たちはサイレントマジョリティー側から抜け出して、自分たちの力で社会と対峙できるようになったんだなと感じます。

ということが、
「好きだというなら否定しない 嫌いといわれたって構わない」
という歌詞に表れていると僕は感じます。

僕はこの歌詞が現代のオタク嫌いな人多すぎ問題に、通じると思っています。

そうなんですよ。好きなら好き、嫌いなら嫌いでいいんです。

ただ、それを他人にまで押し付けるのは違うんだと僕は思うわけです。

一連の楽曲を作詞した秋元康は元々歌謡曲出身です。
歌謡曲は社会の無意識を歌うことで人に意識的にさせるという手法で、老若男女問わず愛されてきたという特性があります。

そのなかで特に突出した才能を発揮した秋元康が作詞するこれらの楽曲を通して、僕たちは現代の社会問題に向き合うことができるのではないかと思ってます。

やっぱ秋元康すげえな。

以上、井の中秀政でした。

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この記事の作者
井の中秀政

生粋のアイドルオタク。

かつての総合知識人としてのオタクになるべく日夜勉強中。
個人名義でnoteの更新も行っている。
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twitter→井の中秀政@hidemasainonaka
その他オタ垢も存在するので暇な時に探してみてください。




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