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フェイ・エンダー/おわりびと㉔ 第4章 血の絆 「4-2 破戒僧」


第四章 血の絆

4-2 破戒僧

( 前作 「4-1 死のはざま②」 のつづき )

 塔の外れ、レンティアの大森林を西に臨む位置に祭壇が設けられた。
 日没の赤い陽が、石畳や塔の外壁を血糊のように濃く染め上げている。 
その夕暮れの強い日差しを受けて、影を落とす数人のシルエット。

 今、そこでは異教の儀式が執り行われている。
 知恵と創造の神を信奉し、崇めるダナー正教会。
その東方随一と謳われる聖なる塔が、目に見えない黒い染みに覆われていく。
 辺り一画が立ち入り禁止となった直後から、厳重に封鎖された見張り台への出入り口に異変を察知した修道僧たちが押し寄せている。
 前代未聞の破戒と蛮行が行われている―――誰もが不安におののきながらそう思った。

 北方の貧しい農村出身のルード・ホスローは、ひたすら勉学に励み学識を身に付けながら、貧困に喘ぐ人々のために身を粉にして奉仕してきた信仰の人であった。
 己の理想を信じるがあまり、時として狭量にもなった。
 だが常に民衆の側に立ってきたという一貫した生き様により、大僧正にまで昇りつめた今では人々に聖者として崇められ、東方の民衆救済の灯台となっている。
 そんな人物が、なぜこうまで己を失ってしまったのか。
 
 しかし、発狂したと思われている当のホスローは至って冷静であった。
矛盾も豹変もしていない。己がしていることを重々承知のうえでの選択である。今も昔も変わらず、一貫して。
 彼は自分が信じる理想を、ただ忠実に実行しているだけなのだ。
 理想を実現するためには、手段も方法も善悪で判断することは無意味である――それがホスローの持論であった。

 
 即席で急遽しつらえた祭壇には、本来の穀物や果実などの代わりに人間が供物として供えられていた。
 腰巻一つあてがわれた裸同然の格好で、冷たい石の上に転がされている。
 
 辺りには胸が悪くなるほどのねっとりとした血の匂いが充満していた。
祭壇の周囲を夥しい数の生贄が積み上げられている。
 手足を縛られた二羽の鶏。二匹の蟇蛙。猫。兎。鴉。山羊。羊。豚。牛。
 その他多種多様な生き物が二組ずつ、それも片方は生かし、片方は必ず首を切り落としている。
 屍から流れ出る液体は、聖なる祭壇の辺り一面を大きな血の池に変えた。
 その池の直中ただなかへ足を浸し、平然と佇むホスロー。
 そして、同じく血溜まりの中で儀式を執り行う先導者に声をかけた。
彼は獣の血で汚れつくした小刀を右手に持っていた。

「手順通りであるな?」

「はい、猊下」

 ホスローを補佐するように、傍らで影のごとく控える黒い影。藍の刺青で口元を彩ったイアンであった。
 イアンの黒い眼は、恭しく首を垂れながらも祭壇へ横たわるフィオランへ吸い付き、そして離れた場所に佇む青年へと移る。
 深い青色の長衣トーガを纏った青年は、沈鬱な表情で祭壇を見守っている。青年の緊迫した息遣いを、ホスローは耳聡く聞きつけた。

「ご気分が優れぬのであればご退出を。この原始の野蛮な儀式は、高貴な貴方には耐えられぬと申し上げたはず」

居丈高な物言いに、青年は穏やかながらも断固とした口調で応じた。

「わたしにはすべてを見届ける責務がある」

 青ざめ、げっそりと頬が削げた顔を、ホスローは岩か石でも見るような目つきで見やる。 

「心配なさらずとも、これが貴方がた王家にとって最善なのですよ。殿下」

 イアンが祭壇を挟んでホスローの真向かいに立った。
手に持つ青銅でできた小刀を、目の前に横たわる生贄に当てがう。胸から腹部にかけて引き裂かれたような無残な傷口を露わにした肉体。
 紙のように白い顔をして眠るフィオラン。
 狼の牙で噛み裂かれた傷は医僧たちによって縫い合わされたが、ここでイアンの手によって再びあばかれた。

 鮮血が飛び散り、大理石の天板とホスローの衣を赤く汚した。みるみるうちに腹部から溢れる血は祭壇を伝って石畳へと滴り落ち、獣たちの血の池と少しずつ混ざり合っていく。足を踏み出した青い衣の青年を、側近の修道僧が素早く阻んだ。
 イアンの唇から聞き慣れぬ言葉が紡ぎ出され始めた。

「死んでしまうのではないのか」

 さすがに眉根を寄せてホスローは呟いた。目的を達成する前に手札が使い物にならなくなってしまっては無意味である。

「さあ、猊下もご一緒に。二対・・でやらねば意味がないのです」

 イアンは強い口調で命じた。一瞬ホスローは癇癪を起しかけたが、黙って従った。常に自分に従順に付き従っていたこの男が、何か得体のしれないものに豹変したように感じ取ったのだ。

 この古代に行われていた祭儀に精通し、執り行うことができるのはイアンしかいない。
 遠い西の塔の書庫に保管されている古い文献に、この古代モーラ族の儀式について記述があった。禁書とされていたその文献を盗み見、そのくだりを見つけ読んで以来、ホスローの中で黒い野心が発芽した。
 それは欲望となり、己の中に蠢くのを自覚する。一度気づいてしまうと、もはやそれは抑えがたく、腹を切り裂かれて飛び出す腸のようにどうにも始末に負えなくなった。
 そして呼応するかのように、イアンが現れた。
 ホスローは言葉巧みにイアンを懐に引き込んだが、果たして引き込まれたのはどちらの方だったのか。
 すでに残照となった赤黒い最後の光を背に受け、イアンは古代語を詠唱する。

「古より受け継がれしワームの目よ。再び契約の時は来た。この依り代の器から目覚め、新たな誓いを果たせ。終わりと始まりの原初の力を我が身に与え、そしてこの世のすべてを浄化せよ。我がこの世の光となり希望となり、あるいは絶望となり、万人を照らす太陽のごとく慈愛に満ち、そして凍てつく夜のごとく万物に静寂という終わりを告げることを望む」

 ぞっとするほど艶めいた声が、辺りに幕を張るかのように覆った。鳴き喚いていた動物たちの声がぴたりと止んだ。
 その声音に肌を泡立たせたホスローは、いよいよ先ほどから感じる違和感にようやく気づきはじめる。

「………イアン? そなたもしや」

 その異質な声に導かれたのか、不意にフィオランが目を開けた。
ぽっかりと緑の瞳が虚ろに覗き、ホスローは慌てて話しかけた。

「そなたはわたしの力の泉。人類への偉大な事業の片翼を担うのもとなるのだ。己が世の役に立つのなら、今世に生まれ出でた意味もある。本望であろう」

 刃を持つ手に力を込め、自分の腕を切り裂いた。溢れ出る鮮血をフィオランの上に降り注ぐ。意味が分からずとも、イアンの詠唱をそのまま忠実に反復までする。
 ホスローは血走った眼を、イアンへ向けた。

「……まだ血が足りないのか? なぜだ、なぜだ」

 溢れる血へ手を浸し、ホスローは喚き出した。何の変化も起きない。
微塵も感じられない。

「どういうことだ? おまえはわたしをたばかったのか?」

 イアンは答えず、息を詰めて生贄を観察している。起こるべき現象を、慌てず騒がず辛抱強く待ち続けている様子だった。
 そのイアンを取り巻く気配がおかしい。鬱蒼と生い茂る大杉の大森林を背景に夜の帳が降りる中、篝火に照らされたイアンは人間らしい精気を失ってしまっているように見えた。
 先ほどから感じている違和感はこれか、とホスロー思わず祭壇から後ずさりそうになり、寸でで踏みとどまった。

「力を受け継ぐのはこのわたしだ。おまえには渡さぬ。わたしを利用していたのだろうが、無駄なことだ。身の程を知るがいい」

 獰猛に歯を食いしばり、ホスローはもう一度刃を振りかざした。
 今度は生贄へ向けて。刃を向けた瞬間、横から力任せに突き飛ばされた。
踏鞴を踏んで転倒から持ちこたえる。振り返ると、祭壇に横たわる生ける屍へ、青い衣の青年が守るように屈みこんでいた。
 腕と腹の傷を布で抑え、懸命に止血を試みている。衣を裂いて当てがった青い布が、みるみるどす黒く染まっていく。
 小刀を振りかざして迫るホスローを、青年は鋭い眼光だけで制した。

「そこをおどきなさい、殿下」

「これ以上は見過ごせない。彼の命に係わる」

 厳しい、断固とした口調で撥ねつけた。陽だまりのような温かさをフィオランへ与えた気配は、今は微塵も感じられない。

「何を今さら。王家のためとあなたは覚悟を決められたのではなかったのか。この者の力を解放すれば、あなたにもどんな恩恵がもたらされるかわからないのだぞ」

「そう、あなたを見込んで頼った自分の愚かさを悔いているところだ。
あなたは失敗し、わたしは判断を見誤った。そしてあなたには荷が重すぎた」

 青年の静かな通告が、くにゃりとホスローの視界を歪ませた。
白く濁った眼が一瞬宙を見据え、静止した。何かを断ち切ったのだ。
 見晴台への出入り口を封鎖している側近へ合図を送る。側近は控えていた二人の衛兵を伴って、素早く祭壇まで走り寄ってきた。
 止血をしながら生贄を庇う青年に取り付き、強引に引き剥がした。手を振り払おうと必死にあらがったが、頑健な兵二人に力づくで抑え込まれてしまった。
 青年は大僧正の正気を疑った。
 
「これは何の真似です」

「決裂したからには次の手を打たなければならない。あなたの病巣は臓器から臓器へと広がり手の施しようもなく、ついには脳にまで達し、錯乱状態に陥った。その結果どのような惨劇が起きてしまったか、と国王陛下に報告差し上げることになるやもしれない」

 自制心などとうにかなぐり捨てていた。術を失敗し、宝を奪われる危機を前にしている以上、もはや後戻りはできないのだ。
 諦めるにはまだ早い。文献には、意識が極限の状態で覚醒するとあった。
それでは最大にまで呼び覚ましてやればいい―――。

 小刀の切っ先を目玉へ近づけた。茫洋と開かれた両目は、迫りくる刃を見ても瞬きひとつしない。
 イアンの口元が大きく弧を形作った。それまで不動の態度を貫いていたが、ここにきて喜びを抑えきれずに思わず身じろぎをした瞬間だった。

 あり得ない現象が起きた。
 今まさに、刃に突き立てられる寸前であった目玉が消えたのだ。
正確にいえば、生贄の身体ごと、寝かされていた石の祭壇の中へ突然沈んでいった。それも沼の中にズブズブと引き込まれていくかのように。
 唐突に、なんの前兆もなくそれが起こった。

 その奇怪な現象を目の当たりにした目撃者たちは一様に立ち竦み、まやかしにあったかと目を疑った。
 呆気に取られたホスローは、空になった大理石の天板を切っ先で執拗につつき回す。その音だけが虚しく辺りへ響き渡った。
 何とか理性を取り戻そうと、必死で自分を立て直そうとするところへ、追い打ちをかけるような声が手元から湧いてきた。

「なに、あいつも連れていけだって? やれやれ、おまえ一人だけでも大変だってのに。名がわからなければ引っ張れないよ」

 ホスローはぎょっと祭壇から手を離し、後ろへ飛びずさった。
 分厚い石の中から人の声が聞こえてくるのは、身の毛がよだつほどの気味悪さであった。

 緊迫した場に、不似合いなガラガラ声がなんとも頓狂であった。

「なに、ネイス? 本名かい………ああ、いたいた。これだ」

 名を呼ばれて僅かに反応した青年が、今度はあっという間に足元の石畳へと吸い込まれていった。
 彼を抑えていた衛兵たちは完全に腰を抜かし、側近も卒倒寸前の顔色で固まってしまっている。
 強烈な意思の力で己を取り戻したホスローは、縮みこんだ喉からやっとの思いで声を絞り出した。

「何者だ! 姿を現せ!」

「ルード・ホスロー」

 頓狂なガラガラ声が、ふっと周囲の空気を変えるほどの殺意を帯びた。
 名を呼ばれ、それを敏感に感じ取ったホスローは口をつぐんだ。小刀を持つ掌が汗ばむほどの緊張を強いられた。

「あたしのかわいい曾曾曾曾曾孫を随分と可愛がってくれたもんだねえ。
おまえさんには後であたしが直々に礼をさせてもらうよ。たっぷりとね」

 その捨て台詞を最後に、頭を押さえつけられたような重苦しい緊張が解けた。もはや何の気配も声もしない。祭壇を取り囲む松明の燃える音がやけに大きく響き渡った。
 大きく喘いだホスローは、最後の頼みの綱とばかりに辺りを見回した。
そこにいるべきはずの己の手飼い、イアンの姿はどこにも見当たらなかった。


~次作 「 4-3 女伯の恋 」 へつづく

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