見出し画像

フェイ・エンダー/おわりびと㉒ 第四章 血の絆 「4-1 死のはざま①」 


第四章 血の絆

4-1 死のはざま①

(前作 「 第三章 太古の記憶 3-4 狼の顎 」のつづき )

 
 ちりんと金物が触れ合う音で目が覚めた。

 水面へ急浮上するように意識が覚醒したものの、フィオランはしばらく前後の記憶を取り戻せず、ぼんやりと眼を彷徨わせた。
 簡素な見慣れない室内だった。
 見たこともない部屋だ。おまけに人がいる。その人物が、自分が寝かされている寝台から少し離れた飾り棚に、ちょうど茜色の容器を重そうに置いたところだった。

 その人は真鍮と思われる容器の中に数枚の布を浸し、次々と水を絞っていく。その手慣れた動作を無心に眺めていた所で目が合った。
 その人は細長く肉の薄い顔を崩して、にっこりと笑った。笑った拍子に顔中に細かな皺が走った。

「ああ、気がついたようだね。よかった」

 笑顔が木漏れ日のように温かく、吸い付くように見とれてしまった。
濃い青の長衣トーガをゆったり纏ったその人は、フィオランの視線を受けて柔らかく微笑した。
 静かだが豊かな知性を思わせる水色の瞳。癖のある亜麻色の髪が細長い顔を囲むように飾っており、こんなに瘦せ細っていなければもっと魅力的な好青年であったろうと惜しまれるほど整った顔立ちをしていた。

 歳の頃は三十代前後といったところか。
 その潤いがまったくない黄みがかった肌と黒ずんだ唇から察するに、どこか身体を病んでいるのだろう。
 眼にこれほど澄んだ輝きがなければ、フィオランも眉を顰めたかもしれない。

 話しかけようとして、喉に痰が絡んで咳き込むフィオランを気遣い、相手は聞き取れるようにゆっくりと語りかけてきた。

「きみは丸三日高熱を出して眠り続けていたんだよ。傷口からというより、蚊に刺されたことによる感染らしいという見立てだ。南方で多い症状らしいが、こんな東の国でマラリアを発症する患者は珍しいと医僧が首を傾げていたよ」

 優しい語り口に、フィオランはつい安心して耳を傾け聞き入った。

「汗を随分搔いたからね。この布で清めるから身体を楽にしていてくれ」

 そう説明を受けながら器用に寝巻を半分脱がされ、ほんのり温かい湿った布を首筋に当てられた。
 上半身を丹念に拭かれ、その気持ちよさにフィオランはうっとりと眼を閉じた。
 未知の場所で未知の相手に完全にされるがままにされている。この無防備状態がいかにおかしなことか、まったく自覚がないのだ。
 その証拠に、目覚めてから頭が一度もまともに働いてない。
 目の前にあるものを好きか嫌いか、単純に感覚で捉えているだけだった。

 部屋の中に細く漂った煙が枕元にまで流れてきた。
 甘く香しい匂いで、鼻腔いっぱいに吸い込むたびに身体が軽くなり、痺れたような恍惚感を味わった。

 何も発言せず、何も尋ねない。廃人のようなフィオランを、その人は寝巻を治してやりながら痛ましげに見つめた。

「考える力まで奪ってしまうなんて――。この煙は深い催眠へ誘う麻薬を焚いているんだよ。きみを薬漬けにしてもう三日にもなる。これ以上の使用は危険だと訴えても、彼は耳を貸さない。何とかしてきみをここから逃がしてやりたいのだが」

 理解しているとも思えない目つきの病人へ、その人は律儀に話して聞かせた。汗で額に纏わりつく赤い髪を、幼子にするように優しく指で払いのけてやった。

「わたしの名はネイス。覚えておいてくれ。必ずきみをここから出してあげよう」

 なぜ? という疑問は唇に上る前に消えてしまった。
 ここがどこなのかも、初対面の自分になぜこれほど親切なのかという問いも大した問題ではなくなり、霞がかかった意識に夢見心地となって眼を閉じた。



 瞼に強い光を当てられて、強引に目を覚まされた。
 いい気分で夢を見ていた所を強引に起こされたわけだから、当然不機嫌になる。フィオランは、枕もとに立ち自分を覗き込んでいる人物を険しく睨み上げた。
 緋色の衣を着た白髪の老人が、庇のように突き出た眉を顰めて無遠慮に眺め回してくる。
 その眼つきは、まるで捉えたウサギをどう調理しようか考えあぐねているようにも見えた。

「……薬が効いておらんな。五日目だというのに自我を保っておるように見える。なぜだ?」

 老人は傍らの白い衣を着た中年の僧侶へ訝しげに尋ね、問われた僧侶はすぐに寝台近くの棚に置いてある香炉の中身を調べた。
 蓋を開け、直接中身を摘まんで匂いを嗅ぎ、そして首を振ってみせた。

「ただの香ですな。中身がすり替わっています」

 その報告を聞いて、老人は胸まで伸びる顎髭をしばらく黙って撫で始めた。

「誰の仕業かはわかっておる。少し勝手を許しすぎたようだ」

「お呼びしますか?」

「いや、放っておけ。それ以上のことなど出来はしまい」

 この意味不明なやり取りに、放置されたままのフィオランは痺れをきらした。

「おい、爺さんよ。枕元でがなり立てるのはやめてくれないか? 
 内輪の話なら外に出てやってくれ。ガンガン頭に響いてかなわねえや」

 無頼な口調だが、一応フィオランなりのお願いであった。
 それを老人は目を剥いて、一瞬仰け反るように屈みこんでいたフィオランから身を引いた。まるで死人が口を利いたかのような驚き方だった。
 大袈裟なジジイだと呆れながら、更にフィオランは畳みかけた。

「ここはどこだ? その身なりからして、あんたら坊さんだろう。 
 ということは、ここは正教会の寺か? 慈悲深き神の使途が、かよわき人の子にこんな無体な真似をして許されるのか? 罰が当たるぞ」

 香炉を持った中年の僧侶があんぐりと口を開けている。
 何にそんなに驚いているのかと身動きをしたが、残念ながら四肢にまったく力が入らなかった。
 今のところ、よく動くのは舌だけである。

 しばらく硬直していた老人は、再び白く輝く顎髭を撫で始めた。どうやら感情を落ち着かせるための癖らしい。
 眉毛から覗く目を光らせながら、老人は注意深く口を開いた。

「正気を取り戻されたようで何より。あなたはこの五日ほど生死の境を彷徨っておられてな。夕べ峠を越えられたと報告を受け、こうして様子を窺いに参った。ここは、王都ベルウェストの外れにあるダナー正教会の塔です。大怪我を負った瀕死のあなたを、我々が保護したのですよ。高熱と苦痛により錯乱状態だったため、我々は持てる限りの医術を駆使しました」

「へえ。そいつはどうも」

 大した感慨もなく受け流し、フィオランは中年僧侶が持つ香炉へ目を向けた。

「だが、あいつはいただけないな。あれのお陰でこのひどい頭痛が起きている。吐き気で胃がひっくり返りそうだし、寝台がさっきからグルグル回ってるような気がして落ち着かない。悪いが下げてくれないか?」

「あの香のお陰であなたの苦痛が抑えられているのです。まだ必要ですよ」

 やんわりとした言葉ではあるが、威圧的な抑揚が込められていた。
 眉を跳ね上げたフィオランへ、老人は眼を細めて微笑を送った。

「まだ名乗っておりませんでしたな。わたしはルード・ホスロー。
このラダーンを中心とする東教区を統括する大僧正でもあり、ダナー正教会教皇猊下の次席に就く者である。王家の骨肉の争いを見るに忍びなく、あなたをお助けした」

「骨肉の争い? 俺は天涯孤独の身なんでね。したくてもできやしない」

「知らないふりをする必要はありません。あなたが何者かは我々は重々承知しておりますよ、フィオラン殿下」

 敬称で呼ばれ、フィオランは尻が非常にむず痒くなり、思いきり顔を顰めた。

「よしてくれ。どこの誰さんだい、そいつは」

 理性では自分の出自を理解していても、感情面ではまだまだ受け入れきれていない。

「俺は王族扱いされたくてラダーンを目指していたわけじゃない。あんたが心配しているようなことは何もするつもりはないから安心してくれ。動けるようになったら勝手にお暇させてもらうよ」

 もっとたちの悪いハイエナの巣に迷い込んでしまったことは百も承知であったが、軽く言ってみた。
 予想に反して意識を取り戻し、喋りまくる相手をどう御せばよいか、じっと目を光らせ自分を観察する異様な雰囲気をあえて無視した。
 見る者によっては、ふざけていると腹を立てそうな薄笑いを浮かべて辺りを見回す。

「ところで、あのにいさんはどこだい? 俺を随分とよく看病してくれたみたいだ。ひと言礼を言いたいんだが……。やっこさんは坊さんじゃあないだろう?」

 僧侶というより学者といったほうが似合いの風貌をしていたことを思い出した。

「たしか、ネイスといってたな」

 大僧正と名乗った老人は反応して眼を細めた。

「ほう……そう名乗りましたか」

 そして側近らしき中年の僧侶と目配せを交わし、フィオランはそれをしっかりと見届けた。

「随分と意味深だな。やっこさんはあんたらの何なんだ? お仲間か? そうは見えなかったけどな」

「彼もまた、我々が保護する患者のひとりですよ。あなたと同じく。
 重い病を患っており、一時的に集中治療をこの塔で施しているのです。
他郷で育ったあなたはご存じないだろうが、この東方圏では我々正教会が医術を一身に担っているのです。各国に亘る各教区の教会は末寺に至るまで、信仰の場の他に市井の病院の機能も果たしている。このレンティアの塔はその中でも高度な研究と医術を持つ中心施設であり、国内外からあらゆる重篤な病人が送り込まられる。貴賎の差をつけず、万人が平等に」

「へえ、同じ正教会でも東と西では随分と違うもんだ。正教会は医学を教える場でもあると聞いていたけど、そこまでの規模とはね。さすが東は文明が進んでいるな」

「西よりも遥かに文明が進んだ地圏であるにも係わらず、医療環境が劣悪だった東方諸国をここまで整備するには大変に骨の折れる一大事業であった」

素直に感心してみせるフィオランへ、大僧正ホスローは重々しく頷いた。

「医術に優れた僧侶を育てることは勿論だが、それ以上に諸王家の医術と正教会に対する根強い偏見と抵抗を打ち破るのに、何十年という長い年月を擁した。あなたが産まれるずっと以前から、わたしはその事業を至上命題としてこの地に送り込まれた。信仰と医術は、その他大勢の庶民にとってなくてはならないものです」

 ホスローは、側近が運んできた天鵞絨ビロード張りの腰掛けにゆったりと腰を下ろした。

「だが、まだ完全ではない。為政者によっては、医療を広めることによって我々正教会が庶民を掌握するのではないかと危惧をし、何かと我々の事業を妨害してくる。疑心暗鬼も甚だしく、お陰で未だ国内の僻地には医療が行き届いておらず、庶民は苦しんでいる。そのことに我々は深く苦慮している」

 相槌を打つことはせず、フィオランは黙って聞き役に徹した。
 高僧でありながら、初対面相手にいきなり内情を吐露しだしたのは何か魂胆があるに違いなかった。
 ホスローは上質な衣の上で手を組み、更に重々しく切り出した。

「受け入れがたいことかもしれぬが、あなたには真実を述べよう。ラダーン国王はあなたに王位を譲るつもりはない。国王が望んでいるのはあなた自身、つまりあなたが持つその力そのものなのだ」

 フィオランは大仰に目を見張ってみせた。
 ホスローはそれを見て、自分の言葉が何かしら効果を与えたと受け止めた。

「国王はあなたの力を利用して、国土から正教会の影響を消し去ろうと画策している。それが何を意味するかわかるだろうか。庶民は癒しの手と安息の場を奪われるのだ。やがて時代が過去の劣悪な環境へと逆行する。それはあってはならない愚挙だ。それだけは断じて阻止せねばならない。そうは思わないかね?」

「まあ、俺はあんた方みたいな高潔な考えは露ほどもないがね。ただ、権力を持つ人間の身動きひとつで、俺たちみたいな蟻の群れは簡単に踏みつぶされちまうってぇのには我慢ならねえな」

「あなたは実に健全に育たれたようだ」

 ホスローは深く頷いて褒めそやした。

「我々はあなたに期待をしている。国王の思惑に屈せず、この国を正しく導く力を持ち、我々と歩みを同じくしてくれることを。我々正教会はあなたの後ろ盾となり、力の限りあなたをお守りいたそう」

 真摯な態度で言われ、フィオランは不安そうな表情を浮かべた。

「それはとても心強いが………。というと、俺は実の父親から身を守らねばならんほど危険な身の上ってことかい? そもそも俺がこんな大怪我を負ったのは、あんた方が仕向けた異能者サイキッカー集団に襲われたせいだと思っていたんだが。記憶違いかな」

「イアンのことかね? あれについては、わたしの方から深く謝罪をしなければならない」
 
 ホスローは眉根を寄せ、困り顔になった。演技達者な爺さんだと、内心フィオランは思う。


~次作 「 4-1 死のはざま② 」 へつづく


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?