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パクス・ヒュマーナ 〜平和という“奇跡”〜 その4.1 平和は相互努力 平和裏にエルサレムを統治できた背景 当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 ネタバレですがフリードリッヒ2世に平和裏にエルサレム統治を快諾したエジプトのスルタン、アル·カーミルもまた評価されるべきかと思います。

 NHKさんの作品を取り上げ、平和への1つの切り口、史実を元にした深堀りをするという話です。

(特に駐在したイスラエル、飽きるほどデレゲーションのアテンドで行ったエルサレムと私の人生に大きく影響を与えた稀有な経験に直結しています。ですから食い散らかした現役時代を卒業したこともあり、コンテンツとして残す事に意義ありという認識です。立ち止まって丁寧に考察して行きます。)

 今回は、平和裏にエルサレムを統治できた背景としてフリードリッヒ2世と親交の厚かった交渉相手のエジプトのスルタン、アル·カーミルの話です。

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アル=カーミル(al-Malik al-Kāmil Nāsir al-Dīn Muḥammad b. Abū Bakr b. Ayyūb;アラビア語: الملك الكامل ناصر الدين محمد بن أبو بكر بن أيوب‎ 、生没年:1180年 - 1238年3月6日)は、アイユーブ朝の第5代スルターン(在位:1218年-1238年)。初代スルターン・サラディンの弟に当たる第4代スルターン・アル=マリク・アル=アーディル・サイフッディーン・アブー・バクルの子で恐らく長子。本名はナースィルッディーン・ムハンマドで、アイユーブ朝のスルターンに即位するにあたり冠せられた尊称「アル=マリク・アル=カーミル」から通常「スルターン・(アル=マリク・)アル=カーミル」などと称される。アラビア語で「カーミル al-Kāmil 」は「完全(なるもの)」を意味する。 

生涯
 父がスルタンの在位にあった間は、副王(=ナーイブ(nā'ib)つまりスルタンの「代理人」)として父を補佐してエジプト統治に務めた。1218年、父が第4回十字軍と交戦中に心臓発作で死去したため、後を継いでスルタンとして即位した。しかし父の死により、第4回十字軍によってダミエッタを占領されるなど、一時は危機に陥ったが、総力を挙げて反攻に転じ、十字軍を破った。しかしその後、カーミルの即位に不満を持つ一族やアレッポとダマスカスの総督に反乱を起こされて危機に陥る中で1228年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が第5回十字軍を率いて侵攻を始める。

 カーミルには十字軍を迎撃する余裕など無く、フリードリヒ2世もローマ教皇や教皇派諸侯との争いに集中したかった。2人は知識人としての交流(自然科学についての論議も行われた)を書簡によって(共にアラビア語で)続けるうち、互いが戦う事を望まない事を知った。カーミルは10年間の休戦、十字軍側への聖地エルサレム返還に同意し、全軍を内紛の収拾に向ける。この為、帝国の内紛は収拾したが、エルサレムを放棄した事で多くのイスラム教徒からの不満を招き、バグダードのモスクではカーミルを糾弾する集会が開かれたという。

 エルサレムに和平が訪れてから9年後の1238年にカーミルは亡くなった。フリードリヒ2世との交流はカーミルが亡くなるまで続いたという。

 カーミルの死から12年後、フリードリヒ2世が亡くなった。19世紀、フリードリヒ2世の遺体が学術調査を受けたとき、棺の中の彼はイスラム風の衣装を身にまとい、シャツの袖にはアラビア語で「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」というカーミルに向けられたと思われる(諸説あり)言葉が刺繍されていたことが記録に残っている。

出典

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 フリードリッヒ2世の宮殿が有ったフォッジャ

 アル·カーミルの宮殿が有ったカイロ

 エルサレムに平和が訪れる2年以上前から、その間で使者のやり取りが有りました。主に科学や哲学に関しての意見交換で、正に学究の友であった様です。この関係構築こそが奇跡的なエルサレムの平和への礎となるのでした。
 この様な関係は、フリードリッヒ2世側から言語の壁を超える形で歩み寄ることができた事が根本に有ります。その点については、その2のシリースで教育という切り口で詳細に考察してありますので、そちらをご覧になってください。

閑話
 これは、今日の平和維持活動にも応用されていて、各国が交易や文化交流などを通じて相互理解を深めることは積極的に行われています。
 私が携わったセキュリティを担保した上でのインターネットの普及もその1つのアプローチです。特に最近はAI技術の進歩で言語の壁を高度なレベルまで超えられる様になりました。スマートフォンが有れば、外国語を学ばなくても母国語だけで会話が成立するところまで来ています。

これを駆使して個人レベルまでの相互理解が進むことで平和が維持が固定化することを願っています。
 このエルサレムの平和裏な統治はその様なアプローチでの成功例の原点の1つとして、詳細にご紹介しているつもりです。

閑話休題
 また、アル·カーミルは兄弟間で領地を巡って争いが有りました。ダマスカスの領主で戦闘的な弟アル·ムアッズァムと対峙しているという状況でもあった様です。
 
 アル·カーミルは、気心が知れ、戦いを望まないフリードリッヒ2世との関係を上手く利用しようとします。エルサレムをキリスト教徒に統治させることで弟の領地との緩衝地帯を設けることで、兄弟間の無用な争いを回避することを狙ったのでした。しかし、歴史はそう簡単にエルサレムの平和を与えてはくれませんでした。

つづく


…………………………………………………………………………………………[経緯]
 その1では、神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ2世がその理性的な能力を発揮し十字軍として交戦すること無く、交渉でエルサレムの統治権を得たという史実の話でした。

 その2.1。その偉業を成し遂げたフリードリッヒ2世が3歳で父を亡くし、4歳の時に母方の持つシチリアの王となりました。そしてその理性的な能力の根源を、同年母が他界する4歳までに得たという話でした。そして… (格別の知識·能力を持って)4歳で孤児になったのでした。

 その2.2。その後の児童期の話。
 
 母からの幼児期のエリート教育、教皇からの児童期前半のエリート教育、そして多民族の思惑の中で揉まれた経験がファンダメンタルズ形成の礎となったようです。

 その2.3。少年期父親の元部下のドイツ人による教育と地中海交易盛んな市中を徘徊し得た経験、そして歴代王の残した蔵書の乱読という話でした。

 その2.4はフリードリッヒ(フェデリコ)2世が平和裏にエルサレムを統治できた背景、特に教育という切り口での詳細な考察のまとめでした。

 その3は、フリードリッヒ2世に最大の成果に関する関する専門家のコメントを紹介。彼の翻訳活動がルネサンスに及ぼした多大な影響を考察しました。

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