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モーニンググローリー(仮) 第2部



日本・東京

第9話

 渋谷はうんざりするくらい人ごみに溢れている。
 話には聞いていたが、俺の予想をはるかに超越したレベルだと思った。犬の銅像がある有名な待ち合わせスポットあたりなんか、通行人にぶつからないで歩くのすら難しい。
 仕事や学校帰りの夕方五時。プラットフォーム内には帰路につく人々でごった返している。今日も何とか事なきを得て一日が無事に終わった。乗客が発する雑踏と熱気を肌で感じながら乗り換えるため改札口を目指す。
 俺は三十五年間過ごしたロンドンを離れ、東京に行く決意をして数カ月が経った。ほとんど頼れるツテも無いのに、思い切った決断をしたものだと我ながら無鉄砲ぶりに呆れる。
 もちろん一時的な観光ではない。俺を駆り立てたのは二十年近く離れていた母親にもう一度会ってみたいという単純な動機。そして、俺が持っていたかもしれないもうひとつの人生を味わってみたかったという欲求だ。「日本人として日本で生きる」というシンプルな生き方を。
 見てくれは少し変わった東洋人だが、イギリス・ロンドン生まれという肩書きが買われて総合教育施設の英会話講師の職を得た。システムエンジニアとしての職歴もあるため、併設であるパソコン教室の講師も掛け持ちして何とか糊口を凌いている。「こぐちをしのぐ」なんて難しい慣用句どころか、つい最近まで漢字がほとんど読めなかった俺が教育施設で働くのはどことなくこそばゆさを感じる。日本人として日本で生きたい。と思いながら「イギリス・ロンドン生まれ」というだけで仕事を貰うのにも少し抵抗がある。でも食うためには仕方がない。
 JR渋谷駅徒歩十分の立地にある総合教育施設「スクール中谷」には、俺と似たような境遇の奴らが集まっていた。パソコン教室の同僚は無口で理論的な奴が多く、対照的に英会話教室にいる講師たちは陽気でおしゃべりだった。ヨリコという名の日本人とロシア人のハーフの女講師は出逢い頭にいろいろ話しかけてくれ、俺はお陰で日本語を急速に覚えた。いつも笑顔の絶えない女性で、校内のアイドル的存在だった。受講生の評判もよく、他の講義の先生からも好かれていた。
 彼女は俺の歓迎会を開いてくれた。ヨリコには日本語でいう「ぶりっこ」的なあざとさはなく、かといって変に気取っているわけでもなかった。笑いを誘う場面では率先して道化師の役を演じる配慮もあった。何よりも一緒にいて、話していて楽しい。酒の力も借りて、俺はヨリコに話しかけまくった。俺はすっかりヨリコのことが好きになっていた。いつの間にか、彼女の飾らない人柄に惹かれていたのだ。
 だから、ヨリコの歩んできたこれまでの人生が絶望的に暗いことに俺は茫然とした気持ちになった。

第10話

 人は見た目に必ずしもよらない。それを教えてくれたのもヨリコだった。
 付き合い始めて数回目のデートでの「事件」だった。渋谷川近くの雑居ビルに入っているこじゃれたカフェでお茶を飲んでいる時だった。
 英国風アフタヌーンティーが売りの店だった。スコーンは日本人好みの味付けで少し違和感があったが、セイロンのロイヤルミルクティーは淹れ方が上手いのかまぁまぁ美味しかった。
 ヨリコは持っていたティーカップを無言で置くと、堰を切ったかのように身の上を話し始めた。それはまるでヨリコ以外の誰かが彼女の唇を支配し、自由に操っているみたいだった。

 ヨリコは六歳の時に両親が離婚した。父親はウラジオストク出身の漁師で、日本人のヨリコの母と北海道の小さな漁村で暮らしていた。何かと依存しがちな母親は夫と別れてから一人娘のヨリコにますます依存するようになった。娘を名門の幼稚園に入れて、将来は良い大学に入れて大企業で働かせ、世界的な大富豪と結婚させる。順風満帆で、他人から羨ましがられる完璧な人生を娘に歩ませたいと望んでいたそうだ。
 これだけ聞けば娘の幸せを願うごく普通の良き母だか、ヨリコにとっては違ったという。
「母は自分が思うまっとうな人生を娘に押し付けるだけで、私自身のことなんてこれっぽちも見てくれなかった」
 あれはだめ、これをしなさい。ヨリコは母親の指示する通りに全て従って生きてきた。まだなんの自立するための力もない子供のヨリコには、そうする他に生きて行く術がなかった。母親の言うことに逆らえば殴る蹴るの暴行を受け、罵声を浴びせられ、雨の降る深夜に家を追い出された。
 母親の暴力に耐えられなくなって学校の担任に相談したこともあった。しかし、周りの大人たちは彼女を助けようとはしなかった。彼らはヨリコの訴えを一時的な親への反抗心程度にしか思わなかったのである。
 逃げては母親の元に戻され、更に増してゆく恫喝と暴力。
 また、年頃になって徐々に父親に似てくる我が子の容姿も火に油を注いだ。ヨリコのすっと通った鼻筋や、とび色の瞳に深みが増すにつれて、母親は自分を捨てた夫を連想するようになった。
 目の上や鼻に青あざを作って登校する女子高生のヨリコを誰も不憫に思わなかった。万事が「触らぬ神に祟りなし」の調子であった。
 そんな環境でヨリコの成績が思うように上がるわけがない。
 母親は模試の結果をひったくって見ては彼女を素手でぶちのめした。
「お前の脳ミソは馬鹿だ」
「私がこれほど熱心に教育してやったのに、過去に達成した物が何ひとつない」
「今まで私の要求に満足に応えたことがなかったじゃないか」
「お前は期待はずれの娘だ。こんなのは私の子供じゃない」
「やっぱりあの男の血が入っているから出来損ないなのかしら」
 東京の外国語大学への進学を理由に上京し、資格のスクール中谷の英会話講師となるまでそれは続いた。ようやく母親から逃れ、居場所を見つけた今でも壮絶な過去の記憶に怯えて泣く夜もあるという。
 上京する際、ヨリコは新居の住所も連絡先も母親には伝えなかった。それでも東京に住む母親の兄、ヨリコの叔父から無理やり聞き出したのか、夜中に長い留守電が頻繁に入っているという。
「ヨリコ、あんたもう二十五でしょ。まともな娘ならもうとっくに結婚して立派なお母さんになってるわよ! あんたは他の人と比べたらだいぶ出遅れてるの! 早くお母さんの見つけた人と結婚しなさい! そんな他人に自慢もできないような仕事やめてこっちに帰りなさい。まったく、国立大学出といて英会話講師なんて、情けないったらありゃしないわ」 
 ヨリコの話を聞きながら、どれぐらいの時間が流れたか俺は分からなかった。ほんの十分程度にも感じたし、十年もの月日が流れた気にもなった。いずれにせよ、彼女の半生に少なからずの衝撃を受けた自分がいた。
「どんな親でも育てて貰った事実に変わりはないし、感謝してる。それと同じくらい、こんな親ならいない方がずっとマシ、早く死ねばいいのにと思うこともあるの」
 うつむいて、両手でティーカップを握りしめながらヨリコは全てを話し終えた。カチカチとカップが忙しく鳴った。
 ふぅっと小さく息を吐くと、彼女は顔を上げて正面から俺を見た。穏やかに微笑んで見せたが、ぴくぴくと震えるこめかみから作り笑いを無理して作っているのが分かった。見ていて痛々しくなった。
「ごめんね。急にこんな話して。重かったね。まだ話すべきじゃなかったのに。でも、貴方なら何となく、聞いてくれる気がしたの。なんでだろ。なんでだろね」
 ヨリコの右目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
 なぜか俺は、赤ん坊の俺を抱きながら泣いていた、若かった頃の母をヨリコに重ねた。
 俺は鞄から取り出したハンカチをヨリコに渡した。ヨリコはありがとうと言って受け取り、ハンカチに顔をうずめた。肩が小刻みに震えていた。彼女が泣きやむまで、俺はしばらく雑居ビルの合間を流れる渋谷川をカフェの窓から何となく眺めていた。

第11話

 季節外れの台風十六号が日本列島に接近していた。俺は夕方からのパソコン教室のために用心のためにいつもより早めに中野の自宅を出た。首都圏の交通機関には本当に頭が下がる。だいぶ雨風が強まっているというのにほとんどが平常通りの運行だった。
 渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをする。雨で傘が破けてしまいそうだ。原宿方面の道路から歪んだギターと激しいドラムの音が聴こえて来たと思うや否や、大型トラックが交差点に進入してきた。「クラウドバースト」というイギリス出身の新人バンドを宣伝していた。車体の側面に大型モニターが付いていて、日本先行シングルと銘打たれた『虹を待つ人』のプロモーションビデオを繰り返し流していた。
 新人の外国人バンドにしては珍しく大がかりな演出の宣伝カーに信号待ちの人ごみは釘付だった。学校や会社から帰宅途中の連中が立ち止まって思い思いに携帯電話で写真を撮っている。付けまつげと太いアイラインでけばけばしい化粧をした女子高生たちがスマートフォンを片手にはしゃぐ。おおかたツイッターにでもアップするんだろう。ロックにてんで関心の無さそうな中年のサラリーマンまで携帯片手にトラックを追っていた。
 彼らの宣伝は大成功、といったところか。
 トラックは俺の目の前も通り過ぎた。モニターの中にギターを弾くあいつがいた。撥ねた泥水が俺の足元に引っかかった。

第12話

 仕事はおおむね順調だった。日本人は勤勉で粘り強いとは聞いていたが、俺が講師として勤めるパソコン教室の生徒もまさに「典型的な日本人」だった。管理職の中年男性や、仕事帰りの若いOL、大学生まで多種多様な人間が黙々とこちらの指示する通りにエクセルやパワーポイントの作業をしている。就職や進学のために資格を取りたいというのが動機のひとつらしい。何も考えずにシステムエンジニアになった、いわゆる「ポッと出」の俺からすれば、志の高い彼らに思わず閉口しそうだった。
 講義後の彼らの豹変ぶりにもとにかく驚かされた。仲良くなった受講生同士数人で何度か食事に行っているようだった。俺も担当した管理職の中年男性・太田さんに誘われて飲み会に参加したことがあるが、受講中の大人しい態度からは想像できないくらい良く喋り、笑った。そして彼らは大量のビールジョッキを次々に飲み干していった。居酒屋じゅうの生ビールを呑み尽くすんじゃないかと思うくらい、絶え間なくジョッキは運ばれ、太田さんや若いサラリーマン・佐々木さんたちの体内へと吸い込まれていった。中年肥りの太田さんはともかく、こんな小さな体躯の佐々木さんのどこに莫大な量のビールが入り込むスペースがあるのか不思議だった。
  仮にも俺は二人の講師として、全額とまではいかなくとも少しはご馳走する義務があると思っている。それが社会人のマナーだ。そうは言っても、やはりこんなに飲まれると俺の懐具合は大きなダメージを受ける。日本に来て物要りだから余計に苦しい。空になったジョッキを見て俺は頭を抱えた。
 これだけ飲めばさすがに酔いが回るらしく、ひとしきり飲むと二人は必ず猥談を始めるのだった。俺は心ひそかに閉店まで追加注文せずにずっと喋っていろと祈った。
「こないだ行った荻窪の風の店の女がさぁ」
「風の店?」
 俺はきょとんとして太田さんに聞き返した。
「風俗店のことですよ」
 佐々木さんがこっそりと耳打ちする真似をして教えてくれたが、隠す気がなさそうな声の大きさだった。
「風の店と言ったら、お金を払った男性にプロの女性が性的なサービスしてくれるお店ですよ。先生はご存じないんですか?」
 またまたぁ。先生も男性ならご興味くらいあるはずだ。と、太田さんのがなり声は続けた。
「それで、そこの娘がさぁ、東北の出身のくせに肌が汚くてよぉ。ノリはいいし気さくなんだけどやんなっちまったよ」
 太田さんは枝豆の殻を指でいじりながら構わず続けた。
「いや~それは残念ですね。あの辺の店は当たり外れ激しいですもんね。ボクなんかこの前……」
 佐々木さんも相槌を打ちながら話を広げていく。かつて自分が利用した風俗店の感想や、大塚に熟女好きのための専門店がオープンしたこと。その店名が汁に婆と書いて「しるば」と読むらしい。コンピューターによる写真加工技術の発展のせいか、店頭の写真と実物の風俗嬢があまりにかけ離れている由々しき事態について、不満を盛大にこぼした。
「コンピューターはいろいろ便利だけど、こんなところに弊害がもたらされるとはなぁ。ビル・ゲイツに責任取ってもらいたいわ」
  太田さんは焼き鳥の串を持ったまま机に突っ伏した。いい年をした男二人はひとしきり風俗業界の最新情報を披露した。こんなに熱く、何かについて雄弁に語る二人を初めて見た。日本語で言う「お年頃」という奴だろうか。
「そういえば先生は彼女とかはいらっしゃらないんですか?」
 突然、「お年頃」な二人の話の矛先が俺に向けられて俺は飲みかけのビールを吹きそうになった。
「え、いや。その」
 頭にふとヨリコの顔が浮かんだ。
「この慌てようは誰かいますね。さてはロンドンに残してきたとか。金髪ですか? パツキン良いなー。俺も彼女ほしいなぁー」
 佐々木さんは目を思いきり閉じてくぅーと唸ったかと思うと、みるみる顔が赤くなっていった。そしてパツキン、パツキンと手を叩いてはしゃぎ出した。
 なんだその表情は。
 俺はもう良く分からない。まるでやりたい盛りの中学生だ。そうだ、彼らをこれから「お年頃ボーイズ」とこっそり呼ぼう。よし、決めた。佐々木さん、今日から君は名誉ある「お年頃ボーイズ」の弟だ。
「おお、良いねぇ。俺もパツキン美女に一度でいいからお相手願いたいよ」
 お年頃ボーイズの兄である太田さんも一緒に頭の上で手を叩いた。
 パツキン。
 パツキン。
 お年頃ボーイズによるパツキン音頭はしばらく店内に響いていた。店員に閉店時刻を告げられるまで俺は日本語が分からないふりをした。

第13話

 英会話教室には大きく分けて三つのコースがある。

 ひとつはこちらが用意したレジュメを使用し、複数の受講生で文法から発音までレッスンするコース。最も典型的であり、殆どがこのパターンだ。
もうひとつはTOEICや実用英語技能検定試験、英検など目標の語学検定試験に合格するためのコース。これは各試験の直前期になると受講申し込みが殺到する。短期間でがっちり稼げるので講師としてはおいしい仕事となっている。
最後は講師と受講生とのマンツーマンでの個人レッスンだ。俺は英会話講師としての日は浅いので、まずは個人レッスンでだんだんと仕事に慣れていく方針となった。
 個人レッスンの受講生にもパソコン教室同様、いろんなタイプがいた。日本の首都・東京の大ジャンクションである渋谷駅徒歩十分という好立地条件から、仕事帰りのビジネスマンがその多くを占めていたが、彼らは個性的な性格の持ち主であった。ドバイの支店へ転勤となった某広告代理店の営業マン・高橋さんもその一人である。海外赴任する前に英会話を習いたいと当教室の門を叩いた立派な志をお持ちの方なのだが、会話の内容がいつも奇抜だった。
「ミスター高橋、しばらくお会いしませんでしたが、ご機嫌いかがですか」
「先生、ご無沙汰しています。実はここしばらく風邪を引いていて大事を取ってお休みしていました」
 筋骨隆々でいかにも「健康がとりえ」を絵に描いたような高橋さんが体調を崩すなんてかなり意外だった。
「それは大変でしたね。夏風邪は治りにくいと聞きます。お仕事がお忙しいのですか?」
 普通にしていて高橋さんが病気になるはずがないと思ったのだ。
「いいえ、繁忙期でもありませんし、仕事量は至って通常通りです。ただ、クライアントが久々に少しばかり過激な要求をしてきましてね。でも僕たち営業の人間にとってクライアントの命令は絶対服従なので逆らえません。ということで、やってしまいました」
 俺はここまで聞いて話の要領を得られなかった。不思議そうな顔をしていると、
「先生、北海道の湖は夏でも結構水が冷たいんですよ」
「まさか」
 俺ははっとした。高橋さんはニッコリとして続ける。
「ええ、そのまさかです。先日、出張で北海道に行ったのですが、先方が長い間ご無沙汰してしまったお得意様なので、お詫びの印として宴席を設けました。ススキノでも指折りの高級店なのですが、それでもお気に召さなかったようで。どうすればご機嫌を直していただけますかとお尋ねしたら、こう言われたんです」
 高橋さんはこほんと咳払いをする真似をした。
「では高橋さん、日本最北にある湖をご存知ですか。そこに人が飛び込んだら、面白いと思いませんか、ってね」
「そんな無茶な」
 もはや叫び声に近い大きな声が俺の口からこぼれた。
「ですよね。だけど、僕たちはクライアントがやれと言ったらやるんです」
 高橋さんの表情は変わらなかった。
「もちろん、僕たちは日本最北にある湖なんて知らなかった。でも、後日クライアントに連れて行ってもらって。もちろん僕たちは飛び込みました。やっぱり冷たかったですよ。今が冬じゃなくて良かったなぁ」
 遠い目をして過ぎた日を振り返り、水の冷たさを思い出したのか高橋さんは身ぶるいした。湖のなかでお笑い芸人さながらのリアクションを取る四十過ぎの男を想像した。くすっと笑えた。
 高橋さんの淡白な口調から察して、こういった事は日常茶飯事なのだろう。もし、重客であるクライアントに死ねと言われたら、広告代理店の営業マンは迷うことなく死ぬんじゃないだろうか。明確な根拠こそ無いが、俺はそう確信してしまった。
「オーマイガー」
 心から俺は彼らに同情した。日本経済を支えるビジネスマンの哀愁に敬意を表せずにはいられなかった。
「あはは、外国の人って本当にオーマイガーって言うんですね」
 くったくなく無邪気に笑う高橋さんが俺はちょっと怖かった。俺は右手を額の横にかざして敬礼してみせた。高橋さんも真似して敬礼した。しばらく二人ともそのままで動かなかった。

第14話

「日本最北の湖といったら礼文島にある久種湖だね」
 代々木に最近開店したばかりのオープンテラスカフェでキャラメルフラペチーノをすすりながらヨリコが言った。ずずずっとストローをすする音が鳴った。レイブントウ。クシュコ。聞きなれない言葉に新鮮さを感じた。
「北海道はアイヌ民族が暮らしていたから、アイヌ語が語源になっている地名も多いのよ」
 なるほど。
「でも、いくらなんでも湖に飛び込むまでしないんじゃないかな。連れて行くのだって面倒だし。貴方きっと高橋さんに担がれたのよ」
 ヨリコの冷静な分析を聞いて、俺はそうなのかもしれないと思った。たとえ高橋さんの作り話だとしても、俺はどちらでも良いと感じた。
「あまりお客さんのことをあれこれ言いたくはないけどね」
 そう前置きをしてからヨリコは「高橋さんの噂」と称して口火を切った。
「あの人って、事あるごとに自分は最大手の広告代理店で働いているって吹聴するんだって。特に若い女の人に対しては、自分が手掛けたテレビコマーシャルのエピソードとか、ここだけの話と言って会社の裏事情を暴露したりとかするの。最大手の広告代理店と言えば、女がいくらでも寄ってくると思っているのね。きっと」
「詳しいね」
「受講生の女の人たちに相談されたの。彼ってたまたま講義が終わったところに出くわせたふりをして、好みの受講生を食事に誘うんですって」
 高橋さんの裏の顔が垣間見えた気がして、驚いた。 
「さらに凄いところが、たとえ食事に誘った女性に脈が無くても、その人に友達を紹介してもらって合コンをセッティングするんですって。今は新卒の大学生でもまともに就職できないご時世じゃない。うちの受講生さんも正規社員の人たちばかりじゃないし。わずかなお給料をやりくりしてスクールに通っているところに、最大手の広告代理店、と聞かされるでしょ。もしかして玉の輿に乗れるかもしれない、と思って喰いついちゃう人も少なくないみたい」
 俺はどうしてもある点が気になったので聞いてみた。
「ヨリコは行ったの? その、高橋さん主催の合コンに」
 ヨリコは指でストローを弄び、じっと俺の顔を見つめた。吸い込まれるほど大きな瞳の奥にいたずらな少女が住んでいた。その好奇心旺盛な少女は口に手を当ててくすくすと笑う。さも愉快そうに俺の様子をうかがっている様子が分かった。
「さぁ、どうでしょう」
 間を置いて彼女は口を開いた。
「世の女性は、貴方がた男性が思っているより打算的でしたたかよ」
 俺の目の前にいる女は少女ではなく、すっかり成長しきった黒い翼の生えた悪魔だった。

第15話

 日本のテレビを観てまず驚いたのが、コマーシャルの豊富さだった。
 洗剤などの日用品の宣伝はイングランドのテレビでも頻繁に見かけたが、それらは至ってシンプルだった。しかし、日本のコマーシャルのなかには構成がこだわり過ぎていて、一見しただけでは主旨が良く分からない作品もあった。例えば「お父さん」と呼ばれる猫が出てくるシリーズが、俺にとっての「一見すると何を宣伝しているのか不明なコマーシャル」に該当した。目撃当初は戸惑ったが、最後まで眺めていると携帯電話の新機種が出てきた。そこでようやく「新発売されるスマートフォンの宣伝だったのか」と気付いた。驚く俺の目に最後に飛び込んでくるのが企業名である。あまりのインパクトに俺は一発で憶えた。
 猫がお父さんであったり、どこぞの人気バンドのメンバーである顔が白塗りの男が踊っていたり、登場人物が奇抜なこのコマーシャル。だが、こうして視聴者に瞬時に企業名を憶えてもらえるのなら宣伝として大成功と言えるだろう。俺は独り部屋のなかでテレビを観ながら妙に感心してしまった。
 「猫のお父さん」のコマーシャルの次に最近よくテレビで見かけるようになったのが、クラウドバーストという新人バンドのアルバム発売の予告だった。先日、日本のみで先行リリースされたシングル『虹を待つ人』はイギリス発の外国人アーティストのなかでは極めて異例の初動売り上げを記録したらしい。大手新聞、雑誌、テレビなど各メディアがこぞって彼らの作品に対するレビューを掲載し、そのどれもが高評価であった。ここに加えて今回のアルバム発表の運びとなったのだからメディアのあちこちで天と地をひっくり返したような大騒ぎとなっていた。
 インターネットユーザーが手厳しく忌憚の無い意見を書き込むので有名な某巨大掲示板ですら、とりわけクラウドバーストに関しては好意的な感想で溢れていた。質の高い作品のみならず、クールそうな外見とは裏腹に、インタビューで感じ取れる親日的で気さくなメンバーの人柄に惹かれたファンも多いようだった。特にフロントマンを務めるウィリアム・ベックマンは華やかなルックスと歴代の名ボーカリストに引けを取らない歌唱力で一気にファンを獲得した。
 クラウドバーストは本国イギリスのみならず、遠く離れた日本でも信じられない速さでスターダムにのし上がろうとしていた。
 俺はテレビで何度も流れるクラウドバーストのコマーシャルをじっと観た。ギターの男は顔が金色の長い髪に隠れていたが、シューゲイザー独特の首を縦に小刻みに振るたび目鼻立ちが垣間見えた。渋谷で宣伝トラックに泥を引っかけられて以来、俺のなかでもやもやと続いていた疑惑が確信に変化した。

 間違いない。あいつだ。
 あいつが日本に来る日は近い。
 俺はそう直感した。

第16話

 「猫のお父さん」のコマーシャルを手掛けたのが、他でもない我が受講生の高橋さんであった事実を知るのは間もなくのことだった。
「あのシリーズは我が社でもかなり気合を入れた作品なんですよ」
 流暢な英語でにこにこしながら高橋さんは話してくれた。
「新シリーズのたびに旬なタレントや有名人を起用するんで、こっちの方も気合入れてますよ」
 高橋さんは右手の人差指と親指の先端をくっつけて輪っかを作って俺に見せた。「お金」の意味だろう。
「ここだけのお話なんですけど」
 輪っかをやめて右手をそっと口元に寄せて隠す真似をした。内緒の話ということか。促されるままに俺は自分の左耳を彼の顔に近づけた。
「次回のシリーズでは外タレの起用を狙ってるんです。しかも世界中で最も旬の彼らを」 
「外タレ?」
 業界の専門用語か何かだろうか。
「外国人タレントの意味ですよ」
 話の腰を折られて高橋さんは悶えた。
「クラウドバーストっていうバンドなんですけど」
 今度は俺が悶える番だった。
「先生、ご存知ですか? 彼ら、イギリス出身で今年四月にデビューしたばかりなんですけど。新人とは思えないくらいクオリティーの高い曲を作るんですよね。僕も動画サイトで一度聴いてすっかりファンになっちゃって。今度の新譜も早速アマゾンで予約しちゃいました」
 えへへと笑いながら高橋さんは頭をぽりぽりと掻いた。
「現在、向こうの事務所に交渉中ですが、もし成功すれば大変な話題になること間違いなしですよ」
 ニンニクのかたちそっくりな鼻から思い切り息を噴き出して、高橋さんは満足そうな表情をして見せた。俺の脳裏に踊る白塗りの顔の男が浮かんだ。
「そうすると、今まで出演していたあの人たちはどうなるんですか。あの、日本の伝統芸能に似たメイクをした彼らは」
 俺は密かに彼らのファンだった。素顔が判別不能になるくらい白く塗った容貌が、犬の模様を表したKISSのメイクを連想させて、お茶目で愛嬌がある。
「残念ながら今回でお役御免です。人気もだいぶ落ち着いてきましたし。彼らの存在が世間に浸透しすぎて、もはや新鮮なインパクトに欠けます」
 生き馬の目を抜くショービジネスの世界は生存競争が厳しいことは一般人の俺でも予想できる。しかしながら、昨日までは仕事をくれた広告代理店の人間に、こうもあっさりと「お役御免」と言われ、切り捨てられるとは。旬の短い職業とはいえ、会ったことも無いはずの白塗りの彼らが気の毒になってくる。
 英会話のレッスン中なのに、高橋さんはもう既に日本語で喋っていた。これではただの雑談である。
「先生は、ロック音楽はお聴きになりますか?」
 察したのか、高橋さんは慌てて英語で質問してきた。
「ええ。良く聴きますよ」
 しばらく考えて俺は英語で返事した。
「昔、良く演奏もしていましたよ」
 へぇえ、と意外そうな顔で高橋さんは俺を見た。
「先生は大変、真面目そうな外見をしてらっしゃるのに。それは驚きです」
「だいぶ昔のことですから」
 紫煙と、嬌声と、轟音。
 場末のバーの隅っこで、おんぼろギターを弾く俺の周りをそいつらがぐるぐる回る。だいぶ懐かしい想いがした。もう何百年も前の時代の出来事みたいだ。しかし、俺の鼻はシケモクの臭いを、俺の指は錆びた鉄の弦を、瞬時に思い出すことができる。
 俺が返事したきり、教室にしばしの静寂が流れた。
「あ、それと、実は裏話がいろいろありまして……」
 これ以上ロック音楽について掘り下げて会話をするのはまずいと感知したのか、高橋さんは話の筋を「猫のお父さん」のコマーシャル秘話に持っていこうとした。
 俺はただ彼のとっておきの裏話を聞いて頷くだけだった。俺があたかも興味なさそうに聞いている様子から、ようやく高橋さんは目線をテキストに落とす気になったようだ。だがそれも束の間の話であった。
「そうだ。先生、今度の土曜日の夕方空いていませんか。一人キャンセルが出ちゃって、急きょ補充しないといけないんですよ」
 仕事の武勇伝の次は合コンの話か。
 良い加減、英会話に集中してほしい。
 それとも赴任先のドバイでもメンバー集めするための練習のつもりなんだろうか。
 俺はいらいらして頭が痛くなってきた。一方で、怒っても無駄であると腹の底から諦めの感情が湧いてきた。何を言っても敵わない気がした。相手が不快であろうとなかろうと高橋さんはいつもにこにこ笑うのをやめない。怒りを通り越して、こちらが呆れて折れてしまう不思議な雰囲気があった。以前ある雑誌で見た地蔵菩薩にそっくりな笑顔で見据えられると、いかに自分が些細なことで腹を立てる小さな男であるかと反省すらしてしまいそうだ。俺は口角をぐっと上に引きあげて愛想笑いを浮かべるのが精一杯であった。

第17話

 ビートルズのオリジナルメンバーであり、生きる伝説であるポール・マッカートニーはファンからの質問にこう応えている。
「好きなお茶は二種類。伝統的なイギリスの一杯、って気分の時はイングリッシュ・ブレックファスト・ティー。日本人の人達よりかは濃くして飲まないけど、緑茶も大好き。軽くて、リフレッシュした気分になる」
 ポールのこの意見には大いに賛同したい。それは俺が大のビートルズファンであるからではなくて、イギリス人の父と日本人の母を持つ男であるからだ。俺は遺伝子のレベルで紅茶と緑茶を愛する男なのである。そんな風に運命づけられているのだ。
 そもそも、俺が無事にこの世に生まれてこられたのも、ビートルズのお陰だと言っても過言ではない。父は自身が敬愛するビートルズのメンバーが日本人女性と結婚した影響を受けて母と恋愛したのだ。冗談みたいな話だが、事実なのだから仕方がない。ミーハーな我が父をかばいだてするわけではないが、人気メンバーの電撃国際結婚の一報は世界中を驚嘆させ、欧州では白人男性とアジア人女性のカップルがにわかに急増したとかしないとか。
 ジョン・レノンがオノ・ヨーコと結婚しなければ、若かりし日の父は日本人である母を妻にしようとは思わなかった。何よりビートルズが結成されなければ輝かしいロックミュージックは生まれてこなかった。アフリカの奥地までその名を轟かせるほどに世界を熱狂させることもなかったわけだ。
 黒くて針金のごとく硬い髪質と、笑うと横一直線になる目。黄色みがかった肌など、洋のなかにもオリエンタルな魅力を持つこの俺の身体ができ上がったのも、ひとえにビートルズの活躍の賜物である。まさに奇跡のロックバンドだ。  
 当然ながら俺はビートルズが大好きであった。オリジナルアルバムは全て発売当時のレコードで持っている。今度出るリマスター盤ももちろん聴くつもりだ。誰もが知っている名曲の殆どはレノンとポールの共作だが、俺はどちらかといえば小難しいレノンより親しみやすいポールの曲の方が好みだ。
 中野のアパートで淹れたてのイングリッシュ・ブレックファストを飲みながら『アビーロード』を再生する。この瞬間が何よりも俺にとっての心休まる至福の時だ。ビートルズの四人がレコーディングスタジオ近くの交差点を渡るジャケット写真は何度見ても心が躍る。何てことの無い風景でも彼らが存在するだけで名画に変わる。ぱっと華が開いたように輝いて見える。有名すぎるこの交差点をどれだけの回数、俺は往復したか。
 彼らのロックによってポピュラー音楽の歴史が始まったのと同様に、俺は彼らによって人間の身体を与えられ産み落とされたというわけだ。素晴らしいじゃないか。俺がビートルズを、ロックを好きにならないわけがない。俺は自分の出生の経緯を誇りに思う。
 今日もまたイングリッシュ・ブレックファストの入ったカップを飲み干してからレコードに針を落とした。『レイン』を歌うジョンの掠れた声が部屋いっぱいに響いた。折しも外では雨が降り始めていた。

第18話

 英会話講師の仕事もだいぶ板についてきた。
 個人レッスンの担当を任される回数もだんだん増えてきた。彼らは勉強熱心で、高橋さんのようなひと癖もふた癖もある受講生ばかりでないのが救いだ。
 日本に来て大きな発見があった。日本人は、というと、仮にも俺も半分は日本人なので違和感がある。一般的な日本人は、と言うべきだろうか。彼らは、英語を一から勉強して習得するのを困難に感じている人が多いということが分かった。日本語と英語はあまりにも言語としてかけ離れている。これは俺自身もよく思っている。「つくり」が全くと言っていいほど違う。使用する文字をとって考えてみても、英語はアルファベットひとつに対し、日本語はひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字も含めれば四種類もの文字を駆使して表現できる。更に漢字は種類も多種多様で、一生かけて憶えてゆくのを日本人は平然と受け入れて生きている。
 俺も誤字脱字が未だに多く、ヨリコによくどやされながらその都度憶えている。漢字にこんなに苦労させられるとは思わなかった。しかしそのお陰で、今ならバーで見かけたギャングのタトゥーの意味も分かる。奴の「尿」と彫られた右の二の腕が忘れられない。
 話を戻そう。
 言語として「つくり」の全く違う英語を学ぶことは日本人にとって難しいのはよく分かった。ただでさえ困難なのに、彼らが英語を習得するのをより消極的にさせてしまう理由がもうひとつある。
 他の日本人の「視線」だ。
 複数人での英会話レッスンの様子を見ていて気付いた。日本人は他の日本人の英語のミスにやたら手厳しい。文法やスペルの綴りにちょっとでも間違いがあると指を指して公衆の面前で指摘する。そのやり取りをお互いに課し、常に衆人環視の状況で見張っているかのようだ。
 仮にもネイティブスピーカーの俺から率直に言わせてもらえば、外国人の使う英語に多少のミスがあっても、意味が通じてコミュニケーションが成立すれば問題ない。英語と一言で言ってもアメリカとイギリスでは全くと言っていいほど定型句も発音も異なるし、いわんやオーストラリアをや(この言い回しもヨリコに教わって以来気に入っている)。
 そもそも英語には世界中で使用される国と地域によってかたちが違って当然だと俺は考えている。日本人には日本人らしい英語があって良いはずだ。だからもっと堂々とスピーチすれば良いのに、彼らは頑なに「完璧な英文法でないと発言してはならない」と思いこみ、人前での発言を委縮させてしまう。万が一ミスすれば面前で厳しく指摘され、ますます苦手意識が芽生えて悪循環に陥ってしまう。
 俺はそんな彼ら日本人を見ているのがどうも歯がゆい。

第19話

 英語が苦手で引っ込み思案な性格の高校生、桜井に対しても同様な感想だった。都内の進学校に通う桜井は、国公立大学を志望する、いたって平凡な男子高校生だった。英語の成績が壊滅的なこと以外は、特にこれといった悩みもなく高校生活を過ごしているようだった。趣味も持たず、特技もないのか、AO推薦で自分をアピールしろと言われて一番困るタイプだ。
 彼は苦手な英語の克服のために、俺のクラスにやってきた。桜井のような奴がいるおかげで、俺みたいな不良の外国人が「英語が話せる」というだけで職にありつける。とてもありがたい存在だ。
「先生、どうして人は勉強するの? いま、勉強したことは、将来、役に立つ?」
 桜井はある個人面談の日、俺にこんな質問した。俺は悩んだふりをしてからこう答えた。
「もちろん、役に立つ。現に俺は、俺の国語である英語を学生の時、一生懸命勉強したから、今こうして君に教えられるんだから」
 息を吐くのと同じくらい自然に嘘をつく俺自身に驚く。単純に、俺の母国語が英語なだけだ。小中学校の成績だって、平平凡凡を絵に描いたように月並みだ。試験に向けて勉強を頑張った記憶もない。俺はギターをかき鳴らして支離滅裂な歌詞をがなり立てるガキだった。少しでも人の心に響くような歌詞を書こうとか、ギミックを凝らした作詞をしようとか、なんの苦労も工夫もしていない。ただ、好きなように叫んでいただけだ。歌詞とも文章ともつかない、思いついたままの、心の叫びを。
 とはいえ、ここでは仮にも教師の身なので、耳障りのよい言葉だけを並べておく。変なことを言って、後でヨリコあたりに密告でもされたら、たまったもんじゃない。
「桜井君、英語が苦手なら、苦手という意識を薄めるために、普段から少しだけ英語に触れてみたら? 例えば、最近はやりのハリウッド映画を観るとか、学校で人気の洋楽CDを友達に紹介してもらうとか」
「俺、洋楽のバンドに今すごいはまってるんですよ! クラウドバーストっていうの!」
 俺の言葉をさえぎるかのように桜井が叫んだ。すっかりしょげていたそれまでの桜井とは別人のように瞳を輝かせ、頬を赤くして彼を夢中にさせるバンドの話をまくし立てた。
 イギリスでデビュー直後にミリオンヒットを記録した。ボーカルがジョニー・デップに瓜二つのイケメンである。あまりに似すぎているため、当初はジョニー・デップが副業で始めたバンドではないかとマスコミが本人に確認したほど、という逸話がある。日本で先行発売されたシングル『虹を待つ人』が、オリコンで七週連続第一位をキープしている。これはオアシスがそれまで持っていた記録を打ち破るセールスだという。桜井の通う高校では、クラウドバーストを聴いていない生徒は、話題についていけないどころか、SNS上のグループチャットにも入れてもらえず、スクールカーストの最下位に振り分けられ、のけ者にされるらしい。
 俺は桜井の顔を見ているのに、興奮して話しまくる奴の表情がだんだんとぼけていき、フォーカスが合わなくなったのを感じた。一方で、緩やかな笑みをたたえた俺の口元が、一気にこわばり、奥歯がぎりぎりと音を立ててかみしめられていくのがはっきりと感じ取れた。俺の様子に異変が生じたことなど、お構いなしに桜井はなおもクラウドバーストへの賛辞を続けた。俺は最後のほうはほとんど耳に入らなかった。その一方で、ぼんやりとした視界の中で、桜井ではない、長い金髪にコバルトブルーの瞳を持った若い男がはっきりと現れた。
 そう、あいつだ。かつて俺と同じ、場末のバーで酔っぱらいになじられながら、誰も聴かない歌をがなり立ててはギターをかき鳴らし、どうしようもない日々をともに過ごした男。
 俺は悪魔的な考えがふと脳裏に浮かんだ。そして、一通りまくし立てた桜井に向かって、言った。
「俺、そいつ知ってるよ。友達。今度、桜井君に会わせてあげる」
「まじで! 先生すごいよ! 学校のみんなに自慢できる。やったありがとう」
「ただし」
 俺が発した最後の言葉が聞き取れなかったのか、桜井はぐっとこちらに顔を寄せた。

「僕の言うこときいてくれたらね」

第20話

 午後十時の渋谷。ここはキャットストリートというらしい。どのあたりが「キャット」なのかは知らない。
「先生、遅れてごめんなさい」
 小走りで桜井がJR渋谷駅方向から駆け寄ってきた。
「遅いよ。早く行くよ」
 俺は桜井をきっとにらみつけると踵を返して元いた場所へ向かって進んだ。桜井は息をきらしながら
「待って、おいてかないで」
 と、慌ててついてくる。
 俺は構わず雑居ビルの地下に続く階段を下りた。少ししてから弱弱しい足音が続いた。
「でも、クラウドバーストのメンバーと先生が、まさか同じバーで共演した仲間だったなんて。世界は広いようで狭いですね」
 桜井は短い手足をばたばたさせながら驚いた様子を見せた。こいつはうれしくなると、頭に浮かんだ物をすぐに早口でまくし立てる癖があるようだ。
「そんな先生に英語を教わっていたおかげで、クラウドバーストに会えるなんて、俺ってちょーラッキー」
 地下への階段を下り切ると、鋼鉄でできた重い扉が目前に現れた。俺はゆっくりと取っ手をつかみ、ぎぎぎ、と不気味な音を立ててこじ開けた。こいつにとっては、天国へのゲートに見えるだろうが、果たして。
「ほかの連中には誰にも言ってないよね。マスコミがかぎつけたら、面倒だからさ」
 もっともらしいことを言って、俺は桜井に確認した。
「もちろん! こんな一生に一度、あるかないかのチャンス、俺以外の奴らに教えてたまるかって感じですよ」
 桜井は、サインも書いてもらおうと、色紙とペンを片手にそれぞれ持って、俺に見せつけた。おめでたい男だ。
「オーケー。じゃあ行こうか」
 そう、始まりだ。桜井にとって、おそらく一生忘れられない、パーティーの。

第21話

 俺が日本に来た理由は自分でも忘れていた。ヨリコと出会って、一緒に過ごす日々を重ねるうちに、きっとどうでもよくなってしまったのだろう。
 俺にとって、ヨリコは、思っていた以上に心のよりどころとなってしまった。彼女といて、恋愛特有の心が激しく揺さぶられることはない。相手の気持ちがわからなくて、もやもやと一人思い悩む必要もない。まったく情熱には程遠いが、こんな穏やかで安定した「世界」を、俺は生まれてから初めて彼女に教えてもらったのだ。
 ヨリコを作るパーツが好きだ。
 太陽の光に透き通る、色素の薄い髪の毛。
 白くて、薄い肌。
 すっと伸びた鼻筋。
 絶世の美女とは言い難いけど、俺は、この世で一番美しい「かたち」だと思う。誰が何と言おうと、俺にとって完成された「美」をヨリコは独り占めしているのだ。
「あなたが探していたお母さん」
 俺の身体は、ヨリコの小さな口から発せられた一言で硬直した。
「私の親戚が居場所を教えてくれたわ」
 俺は甘い夢から覚めた気持ちになった。寝ぼけた俺の横に、どうしようもない現実が気味の悪い笑い声をあげて横たわった。

「思うようにうまくいかないな」
 俺は自分にそう言い聞かせて生きてきた。人生は望むとおりにはならない。そんな風に思うことで安心する自分がいた。たとえどれほど情けないと理解していても、自分にそう言い聞かせれば、どこか救われる気持ちになれた。
「母親の居場所を知っている」
 ヨリコが突然、俺に告げた言葉が俺に突き刺さった。硬直した俺は、しばらく呆然として彼女の言葉を反芻した。横顔に冷や水をぴしゃりと浴びせられた気分だった。
「安曇野でサナトリウムを経営する遠縁のおばさんとね、たまによく話すの。……たいていはうちの母親の話題なんだけどね。なんとなくふっと思いたって、あなたについて話したの」
 彼女が独りで暮らす立川の、築四十年は経とうとしている狭いアパートに、俺とヨリコはひざを寄せ合ってうずくまっていた。ここだけが俺たちが心穏やかに過ごせる「世界」に思えた。それなのに、晴天の霹靂みたいに、耳障りの悪い言葉が安穏とした「世界」を変えた。どんよりと暗い空気がじわりじわりと俺を包みこむ。隣で転がっている丸っこいウサギのぬいぐるみを、ヨリコは細く長い指で弄ぶ。彼女がつぶやく言葉に耳を傾けながら、俺はぼんやりとその儚げなしぐさを眺めていた。
「そこにね、あなたによく似た女性がいるの。名字も、たぶん同じ人」
 視界に入っていたウサギのぬいぐるみが、だんだんと霞み始めるのを俺は感じていた。

第22話

 東京の夏は身体にまとわりつく蒸し暑さだということを、三十五年目の人生にして俺は初めて知った。 
 大型の業務用クーラーが危なっかしい機械音を立て、これでもかとうなる喫茶店で、俺は冷め切った紅茶を飲み干した。店内に設置された大型テレビでは、クラウドバーストの日本武道館での初来日公演をアナウンサーが興奮気味に実況していた。千鳥ケ淵の日本武道館周辺には大勢のファンが詰めよせ、さながら黒山の人だかりだった。約八千枚のチケットは発売後一分で即完売したのにも関わらず、夏休みで暇を持て余しているのか、スターを一目見ようとティーンエイジャーが駆けつけている有様だった。追っかけの奴らが放つ熱狂が、ますます日本の夏を暑苦しいものに変えているようで、俺はひどくうんざりした。ため息の向こう側に一人の男が立っているのが見えた。奴は、迷うそぶりも一切ないまっすぐな足取りで入り口からやってきて、俺の前に座った。
「おひさしぶりです」
 久々にロンドン訛りの英語を聞いた。照り付く日差しを物ともせずに、その男は汗ひとつ流さず実に涼しげだった。バラ色の頰にすべすべとした肌、薄い金髪は驚くほどまぶしく、俺の前でかすかに揺れていた。
「まさかお前が俺に会いに来るなんて」
「僕もまさか東京で会えるなんて、驚きましたよ、先輩」
 デーモンはますます美しくなっていた。天使も悪魔も、こいつの前ではみんな揃って骨抜きになりそうだと思うくらい、神々しい美を持っていた。
 俺が癇癪で職場を辞めてからしばらくして、デーモンは昔なじみの誘いに乗ってローディーの副業を始めた。本人曰く、元々、音楽の素養があったわけでは無いが、持ち前の愛嬌の良さと端正なルックスで人気のローディーとなったそうだ。
 俺は奴の身の上話を鼻で笑いながら追加の紅茶を頼んだ。
「自分で言うのもなんですけど、俺ってどこに行っても偉い人に気に入られちゃうタイプで」
 デーモンはアイスコーヒーに付いていたストローの袋をねじりながら話を続けた。
 やがて仕事ぶりが評判を呼んで大手のイベンターに声を掛けられ、本業のシステムエンジニアよりも多忙になり、ローディーに本腰を入れるために辞職を申し出たという。
「お前なら歌手としても一世を風靡しそうだけどな、バック・ストリート・ボーイズみたいにな」
「先輩、たとえが古いですよ、それを言うなら今だったらワン・ダイレクションでしょ」
 俺の精一杯の皮肉もむなしくデーモンは笑い転げた。やっぱり、こいつにはかなわない。内心、俺はこいつの事はいけ好かない野郎だと思ってはいるが、目の前で屈託無く笑われると、憎めなくなる。デーモンの圧倒的な美貌の前には、男の俺でも性別すら吹き飛ばして降伏せざるを得ないほどだった。笑顔と機知に富んだ会話は、相手にコミュニケーションの楽しさをもたらした。天性の人たらし、とでも言うのか。もし仮に理性を失いかけるくらい泥酔していたら、うっかりやってたかもしれない。それは冗談とは言え、とんでもない野郎だとつくづく感心した。
 鈴の音みたいな涼しげな笑い声が店内に転がった。店中の女が笑い声の主に釘付けになっているようだった。先程からピンクがかった視線が、まれに見る金髪の西洋イケメンに熱く注がれているのをじっとりと肌で感じた。
「俺、今は、来日公演中のバンドにくっついて日本中を回っているんですよ」
 女どもが放つアピール光線には微塵も構わず、デーモンは続けた。ストローの袋はデーモンの指元で蛇になったり、ただの紙切れになったりしていた。
「先輩も知っているでしょう? クラウドバースト。今かなりキてますよね」
 すごいクールですよね。
 俺も好きなんですよ。
 俺、ほんとラッキーだなって自分で思いますね。
 だってこんなイカしたバンドをすぐそばで堪能できるんですよ。やばくないですか。
 褒めちぎる言葉が弾丸みたいに迫ってくる。こんなにはしゃぐデーモンを見たのは初めてだった。システムエンジニアとして要領よく働く奴からは、とてもじゃないけど連想できない変貌ぶりで、フランクな言葉遣いもかえって新鮮な驚きだった。
 金色に輝く髪をワックスでまとめ、几帳面にアイロンのかかったスーツに身を包んだかつてのサラリーマンはどこにもいないと悟った。俺の目の前にいる男は、アディダスのくたびれたパーカーとジーンズをけだるげに着込み、紫色のビビットなデザインが施されたナイキの古ぼけた運動靴を履き、長い足を狭いとばかりに投げ出して座っていた。たった約半年で、オフィスワーカーの清潔感や小奇麗さを投げ捨てた、肉体を酷使する現場でよく働く男に変貌していた。
「日本武道館はビートルズが演奏してから、音楽に関わってる人間には特別な場所じゃないですか。ここまで来るのは並大抵の事じゃ無いのに、クラウドバーストは、あっさり明日、あそこに立つんですよね。まるで、当然みたいな顔して舞台袖からステージへと出て行くんだ」
 一呼吸置いて、デーモンは顔に手をやり、そしてゆっくりと口を開いた。
「デビューして、異例の速さでキャリアの頂点に立った。俺たちみたいな人間にとっても特別な出来事だ。きっと、明日は人生で最高な一日になりますよ」
 奴は音楽やそれに携わる者への愛と敬意を、口ぶりからそれなりに漂わせてそこにいた。ひとしきり感想と自慢をぶちまけたのち、デーモンは紙切れを俺に差し出して見せた。
「バックステージパス。これ、俺からの餞別として先輩にあげます」
 俺、先輩のこと、割と好きだったんですよ。
「何が餞別なんだか」
 俺はもう、お前の先輩なんかじゃねぇよ。
 俺は両手を肩よりも上にやり、手のひらを天井に向けるしぐさをお見舞いしてやった。
 デーモンは、猫みたいに目を細めて、にっこりとほほえんだ。やわらかで穏やかな笑みだった。俺と揉めたあの日の狡猾さや小賢しさは微塵も見当たらなかった。俺はその憎たらしい笑顔に心の中で中指を突き立ててやった。

第23話

 桜井は英会話教室に来なくなった。
 正確に言うと、俺のレッスンには来なくなった。それどころか、奴の通う高校の同級生に聞いたところ、登校もまともにしていないのか、授業で顔を見る機会が減ったという。
 俺はあの日、桜井を渋谷の雑居ビル地下のバーに連れて行った。クラウドバーストに会える、と喜んでいたが、実際はもちろんそんな筈は無かった。そこに居たのは、クラウドバーストのそっくりさんが演奏するコピーバンドだった。
「なんだぁ」
 拍子抜けした桜井は間抜けな声を発したが、良い具合に緊張がほぐれたようで、きょろきょろとせわしなく辺りを見渡した。生まれて初めて入ったバーというモノの空気を、全身全霊で感じていたいようだった。よほど物珍しいようで、細い目を最大限に見開いて飛び込む情報を摑もうとしていた。瞳をきらきらさせてたくさんの星を浮かべていた。
 俺はその桜井の様子に、遠い昔、親父が近所のバーに連れて行ってくれた時の事を思い起こした。ヤニとジンから飛んだアルコールで淀んだロンドンの場末の臭いや、酔っ払いのおっさんの嬌声、割れる瓶の音、普段は寡黙な男の楽しそうな笑顔……俺の、決して良くは無い少ない脳味噌はそれらを見事に再現してくれた。
 時間が深まるごとに来客が増えていった。そっくりさんの出番が終わって退散したのち、DJがブラーの往年の名曲をひたすら流すイベントが始まった。音楽そっちのけで酒とおしゃべりに興じる奴、無愛想な面で何本もの煙草をくゆらせる奴、酔ってしたたかに頭を打ち付ける奴。様々なスタイルで音楽と夜を愉しんでいる。ひいきにしているバンドのツアーTシャツを着込む奴もいた。そいつらはブラーのイベントなのにオアシスのTシャツを着ていた。
「そんなの着てたら、宿敵のギャラガー兄弟に殴られるぞ」
 と軽口をたたいてやった。
 喧噪が落ち着いた頃、俺らは隅っこのカウンターに腰を下ろした。
 DJはブラーの代表的なアルバム『パークライフ』をかけていた。デーモン・アルバーンのどことなくおどけたような、舌っ足らずな歌い方が若い頃は気になったが、改めて聴くとそれが持ち味だとしみじみ思った。そういえば、ローディーのあいつも同じデーモンだったな。そう気づいて俺はジンをあおった。
「先生、ブラーって初めて聞いたけど、かっこいいですね」
 桜井はお気に入りのバンドが増えた様子だった。
「ああ、クラウドなんちゃらよりもずっと良いぞ」
 俺はくわえ煙草で言い放った。
「君の学校のださい奴らには、良さが分からねぇだろうな」
 俺のぼやきには答えずに、桜井は俺の口元のマルボロをじっと見つめた。
「吸う?」
 隣のカウンターでハイボールを飲んでいた女が、桜井にセブンスターを差し出した。見たところ、二十前後の若い女だ。
「吸ってみる?」
 女は続けた。ロングのストレートヘアを左右に分けて、濃いシャドーに彩られた切れ長の目が俺と桜井を鋭くとらえた。白地のTシャツの胸には大きく黒い字で「RAY」と書かれていた。
「いや、こいつは」
 俺が制止するのを振り切るや否や
「下さい」
 と、桜井は女の差し出したセブンスターの箱から一本の煙草を指でつまみ上げた。
 女は桜井の煙草にライターで火を点けながら、ニッと笑って
「学校のださい奴らなんかよりずっとかっこいいよ」
 と言った。

第24話

 もしや、あの彼女の影響か。
 会社で教材のコピーを取りながら、意識があの日に飛んでいた俺ははっと我に返った。状況を考えるに、ごく普通の高校生だった桜井を、ろくに登校もしない不良に変えてしまった原因は俺にもあるようだ。セブンスターを奴に与えた彼女だけのせいではない。そもそも未成年の喫煙を制止しきれなかった自分も同罪では無いか。元はといえば、日常のすぐそばにある享楽の世界へ、うら若き少年を連れて行ってしまったこの俺こそが諸悪の根源ではないのか。
「あーこれは。やってしまった」
 不良中年外国人の本領が、最悪な形で発揮されてしまった。大航海時代に世界を荒らしまくった海賊の島国で、生まれ育った俺の性。そいつが平和な島国ニッポンに住む、一人の善良で平凡な少年の人生を狂わせた。酒とロックと煙草の煙と喧噪にまみれて、すっかりすり切れちまった中年男の悲哀、そして、にじみ出る、渋さ。お前に分かるか、少年よ。
 そもそも、なぜ俺は桜井をあのような不釣り合いな場所へ連れて行ったのか。俺は大量に印刷される複合機を眺めながら自己分析を始めた。自分とさほど変わらぬ冴えない男だったあいつが、世界的人気のバンド、クラウドバーストのメンバーだと気づいた。それから俺の心にはひりひりした劣等感と焦燥が生まれた。それは認めざるを得ない歴然とした事実だった。さらに不本意ながら教鞭を執っている英会話教室の教え子、桜井が大ファンだと興奮気味にまくし立てたことで、俺の劣等感と焦燥にますます油が注がれた。燃えさかる負の感情は俺をある衝動的に駆り立てた。
 あいつらなんかくそだ。
 俺の方がすごい。
 俺の方が優れている。
 あいつらの音楽よりもイカしたモノを俺は山ほど知っている。
 今からそれをお前に教えてやる。
 そう言って自分の優位性を誇示するために、俺がよく知っているあの場へ連れて行った。おまけに「クラウドバーストのメンバーに会わせてやる」なんて、子供だましレベルの噓までついておびき寄せた。サインの為のペンと色紙まで桜井に持参させて。単なる嫉妬だ。つまりはそういうことなんだろう。ピー、ピーとインク切れを知らせる複合機の機械音が俺を現実に呼び戻した。コピーをとる反射板に写る俺の顔。肌が徐々にだらしなくたるんで、くたびれかけた中年の男と目が合った。
 いい年して、何やってるんだか。
 かたや、世界的ロックバンドに上り詰めた男。世界中が恋するスター。一方、俺は好きでもない仕事に就き、年端もいかない少年に虚勢を張るだけの、からっぽで、ちっぽけな野郎だ。
 あまりに情けないときは涙も出ない。JR渋谷駅徒歩十分の立地にある総合教育施設「スクール中谷」。そこのオフィスの片隅で複合機にトナー交換をけしかけられながら、ちっぽけでみっともない俺はひとつ身をもって学んだ。


Suspended 1

 東京の金曜夜は特に賑やかだ。「華の金曜日」略してハナキンと呼ばれるくらいだから、どんな人も週末の楽しみを糧にして生きているんだろう。
 俺とヨリコの前でいちごパフェを頬張る田中さんも例外ではない。彼女は俺の英会話レッスンを受けていた。吸収力が高く、こちらが教えたイディオムをすぐに会話に取り入れる柔軟性もある。えも言われぬ達成感で教師を気持ちよくさせてくれる受講生だ。なぜ彼女と俺たちが深夜のファミリーレストランにいるのかというと、話は数分前に遡る。溜まりに溜まったストレスを発散させるため、俺はヨリコを誘ってキャットストリートにあるカラオケボックスに行った。夢中で歌うのに疲れて休憩していると、隣の部屋から聴き馴染んだ歌が流れてきた。
「ジーン・サンレノか。渋いチョイスだな」
 隣人は九十年代を代表する歌手の曲ばかりを好んで歌っているようだった。
 終わって部屋から出ると、隣室のドアが開き、伝票を持ったメガネの女性がほぼ同時に出てきた。独りカラオケに興じていたのは田中さんだったのだ。
「正直、田中さんみたいな若い女性がジーン・サンレノを知ってるなんて、驚いたよ」
 俺はしみじみと言った。
「大好きなんです。今度の日本武道館のチケットも買いました」
 田中さんはスプーンを持つ手を止めて、恥ずかしそうに俯くと、続けた。
「英会話を習い始めたきっかけも、彼なんです。もしどこかで会ったら、お喋りがしたくて……」
「まぁ、素敵」
 ヨリコは瞳をキラキラと輝かせた。
「愛の力って偉大ね。良ければ、田中さんがジーン・サンレノを好きになった理由を知りたいわ。職場の先輩の影響とか?」
「仕事は、してないんです。辞めました」
 俺とヨリコは顔を見合わせた。
 田中さんの話はこうだった。子供の頃にいじめられた経験から、自分に自信が持てなかった。やがてアパレルショップ店員となった彼女は職場で地味に過ごしていたが、ちょっとしたことで空気が変わってしまった。接客した顧客から感謝の電話を受けた店長が、全店員の前で彼女を褒めちぎったのがきっかけだったという。年次の高い女性店員を中心に、その日から嫌がらせが始まった。彼女を露骨に無視したり、必要な連絡を回さなかったり、わざと商品を散らかして片付けさせたりなど、にわかに信じがたいようなレベルの低いものだった。
「同僚の視線に居た堪れなくなって、退職を願い出た帰り道、街頭の大型スクリーンに映るジーン・サンレノの古い映像が雨の向こうから目に飛び込んできて……優しい歌声に励まされた気がして、その場で泣き崩れてしまいました」
 田中さんは再び俯くと
「こんなことで泣くなんて、恥ずかしいですよね」
 えへへ、と愛想笑いを浮かべ、右手でぽりぽりと頭を掻いた。
「どうして田中さんが辞めるんだ」
 俺は思わず大きい声を出していた。
「俺には分からないよ。どうして何も悪くない田中さんが辞めて、そんな奴らが残るんだ。悔しくないのかい? どうして見返してやろうとしないんだ」
 しばらく沈黙が流れたのちに、田中さんは、ふっと口元を緩ませた。
「もちろん、悔しくないと言ったら嘘になるんですけど。やり返してやるとか、見返してやりたいとか。そういうのは思わなかったんです。相手の思う壷のような気がして」
 メガネの奥の目は、穏やかな光をたたえていた。

Suspended 2

 田中さんと別れて、原宿へと繋がる深夜のキャットストリートをヨリコと歩いた。
「田中さんの言ってたこと、ちょっと分かるなぁ」
 不思議そうに見る俺に構わずヨリコは続ける。
「日本って特にそうなんだけど。女ってさ、他人にいろんな呪いをかけられて生きるのよ。三十までに結婚しないと変な人だとか、いろいろ。周りの人間が決めることじゃないのにね」
 俺は目から鱗が出る思いだった。
「知らなかったよ」
 俺の知る限り、イギリスで暮らしている時、年齢で生き方をあれこれ言ってくる人間は皆無だった。
「そうだよね。ヨーロッパの人たちはそれぞれのタイミングを尊重してくれるもんね」
 ヨリコはふふふっと笑って、縁石ブロックに飛び乗ると両手を広げて歩き出した。本当に、ヨリコは俺の知らない物を何でも教えてくれる。縁石ブロックという呼び方もそうだ。俺の中ではただの車道と歩道を区別するだけの存在に過ぎなかったのに、俺の世界に名前をつけてくれたのはいつも彼女だった。
「誰かを見返すために頑張るのも、間違いではないけど。それだと相手にずっと縛られたまま生きることになるもんね。田中さんは、分かってるんだねぇ。それがどんなにしんどくて、自分を虚しくさせるかって、さ」
 まるで平均台の上を歩くように、バランスを取って進む彼女の姿を眺めた。俺はウィリアムのことを思わずにはいられなかった。まさに、俺はあいつに、自分がなりたかったモノになれた男に、縛られたまま生きている。持たざる者の俺が持てる者に嫉妬し、一方では憧れ、そんな自分を認めたくなくて、嫌いで、誤魔化すために足掻いていた。心の中は込み上げる恥ずかしさと虚無で一杯だった。
 立ち止まった俺に気づく素振りもなく、ヨリコは夜の散歩を続けていた。

「先生。どうして……」
 日本武道館の控え室。田中さんの目の前には、ジーン・サンレノが座っていた。
「奇遇だね。ジーンは俺の友達の友達なんだよ」
 俺が目くばせすると、ジーンの側にいるデーモンがこちらへ向けてウインクした。
「さぁ、時間のあるうちにジーンに話しかけて。おっと、もちろん、英語でね」
 溢れんばかりの涙のせいで、まともに喋れなくなった田中さんを宥めるのも、悪くはなかった。彼女は英語で自己紹介をしたのち、どん底にいた自分がジーン・サンレノの音楽にどれだけ救われたか、丁寧に言葉を選んで話し始めた。ジーンは目尻を下げた優しい表情を浮かべ、ゆっくりと紡がれるスピーチに耳を傾けていた。
「応援しています」
 彼らは握手をすると、同時にエールを送り合ったために声が重なった。あまりにもタイミングがバッチリで、居合わせた全員が思わず笑った。驚いたのは、ジーンが彼女を励ますために「応援しています」という日本語を覚えていたことだ。もっと驚いたのは、記念撮影にデーモンがちゃっかり紛れ込んでいたこと。さらには奴さん、ジーンの隣に立つ田中さんの肩に手を回している。微塵も照れる様子もなく堂々とやってのけるので、どっちがスターなのか分からない。
 こいつには何回度肝を抜かされるんだろう。相変わらず、掴みどころのない男だ。

第25話

 東京で八月に入って十五日間も雨が降り続いたのは、七十七年ぶりだったらしい。
 クローバーは本来秋から冬にかけて咲く植物だ。きちんとした名前はシロツメクサ。涼しい土地柄に群生する性質上、寒さには比較的強いが暑さには弱い。
 その日、俺が目を覚ますと窓際のクローバーがしおれていた。雨に煙る東京の蒸し暑くじっとりとした気候のせいか、俺が水をやりすぎたせいか。見るからに弱々しく、いくつものか細い茎を土の上に這わせる姿に、絶望的な展開を察知した俺はただ泣いた。手の上の鉢と、視界の両端に入り込む色素の薄い長い髪が小刻みに揺れた。
 やがてキッチンから罵声が飛び交う。
 俺の人格を根底から否定する、いくつもの呪いの言葉。耳をつんざく甲高い声の持ち主は俺の母親だった。彼女から発せられた、見えない凶器は俺の心をぼろぼろに消耗させた。俺は植物すら満足に育てられない、どうしようも無い人間だ。そう自責の念を抱かせるには十分な威力で、それらは俺に次々と投げつけられた。このまま家を飛び出して、ナイフみたいな雨にしたたかに打たれた方がましだった。そうすれば良かったとすら思った。
 暗闇から俺の母親の不気味に白い腕が伸びてきて、その瞬間、横顔に鈍い痛みを覚えた。白い腕は続け様に俺の亜麻色の髪の毛を摑んだ。驚いた俺の小さな身体は床に横たわり、あっという間に彼女の支配下に置かれた。そのままの姿勢でしばらく俺は家中の床を引きずられて回った。俺にぶつかった弾みで、テーブルの上にあったお気に入りの皿が割れた。構わず彼女は俺の髪を摑んだまま家の中を周回した。元は皿だった筈のガラスのかけらは、一瞬にして白く輝くシロツメクサとなり、噓みたいに連なって咲いた。俺は母親に引きずられながらそいつらを横目で見た。ああ、咲いてるな。枯れたのは気のせいだったのか、と自分でも驚くぐらい冷静に思った。そのまま、永遠に続くと思うくらい長い時間が経った。気がつくと俺は草原に寝転がっていて、隣で佇むシロツメクサに心配そうに見つめられていた。視界には絵の具を溶かしたような雲ひとつ無い青い空が広がって、涼しい風が俺の頰を撫でていった。何もかも大袈裟で、張りぼてでできたみたいに噓臭いその世界に不思議と俺は安堵した。遠くの方で慟哭が響き渡り、いつの間にか現れた檻の中に母親がいた。鎖で壁とつながった手錠をはめられて、彼女は自由を奪われてうずくまっていた。
「お母さん」
 そう言って俺は目を覚ました。頰を伝う涙に、俺は泣いていた事を教えられた。これはヨリコの夢だった。幼かった彼女と、彼女の母親が過ごした一日。いつかヨリコの部屋で聞いた哀しい記憶が、悪夢となって俺を飲み込み、追体験させた。
 夢が見せた内容はそれだけではない。訪れた安曇野に俺の母親はいなかった。いたのは俺の知らない、車いすに乗せられた変わり果てた女だった。何を言っても空虚な視線を投げるだけで言葉は返ってこなかった。俺は黙ってその場を立ち去った。俺はついに名乗ることはできなかった。自分がただただ、悔しかった。話したいこと、聞きたいことはたくさんあった。いじめられても守ってくれて嬉しかったこと、差別の原因だった自分の容姿も、大好きだったこと、一緒に居られて幸せだったこと、親父と三人でロンドンアイに乗れたらどんなに素晴らしいかということ。
 俺は弱虫だ。全部、言えなかった。捨てられて憎んでいるとも、誰よりも愛しているとも、生きてくれているだけで幸せだと思ったことも、彼女にひとかけらも伝えられなかった。

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