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2012年夏、首相官邸前で。

昨今の福島原発「ALPS処理水」の報道を巡る一連の世論を聞きながら思い出したこと。


有楽町線永田町駅の国立国会図書館方面出口を上がると、ちょうど向かって右に国会議事堂の裏側、左側に国立国会図書館が見える。他には何もない。ただ広い道路があるだけ。私は資料探しのため定期的にここに通っていた。

たまたまこの日は少し早くここを出て、夕刻議員会館横を通り首相官邸前へ向かっていた。丸の内線に乗ろうとしていたからだ。官邸と道路を隔てた交差点前のスペースにシュプレヒコールをしている一群がいた。まだ片側歩道の一区画分を占める程度だったが、強い意思を感じる声だった。東日本大地震により津波が押し寄せ冷却不能となり、ついにメルトダウンした原発に日本が震撼し1年以上が過ぎようとしていた。今後の日本の原子力政策に強い危機感を感じ、今まで特別な政治的行動をしてこなかった人々がボランタリーに集まり始め、直接首相の間近で毎週末訴えるという取り組みとのこと。私自身も日本の原発政策には強い不安を持っていたが、それに対しどのようなアクションをしたらよいのか燻っていた。私はよくある政治的な組織性を感じさせない、むしろ音楽的な集団の佇まいに興味をもったのだ。

最初の2回は、ただ最前列部隊の向かい側の道の壁に寄りかかって、状況の推移を眺めていたにすぎない。ただ、そういう人々が一定数いた。ここの通行人はほとんどが議員会館関係者の場所。だから公務員的でない彼らの姿は一種に異様に映った。まだ、呑気に見物さえできた時期だ。警官もどこか牧歌的だった。
 
さらに翌週、また同じ場所で見ていた。明らかに人が増えていた。そして警備の人員も増員されていた。機動隊のバスが向かい側歩道沿いに並び始め、私たち見物人たちが交差点周辺に立ち止まることを規制するようになった。この動きは大きくなる、と思った。

その頃、twitterを中心としたSNSがこの週末行動を拡散し始め、「普通の人々」を巻き込み始めていた。まだ、新聞、テレビはほとんど報道していない。官邸と道路を隔てたメディア会館前道路に長い長い抗議の列ができ始めていた。明らかに老若男女、こういう抗議スタイルになれていないであろうあらゆる層がいた。後に私もその長い列に並び始めることになった一人だった。

翌週、いつもの場所はもう確保できないだろうと、永田町駅を出て議員会館の側の舗道から行くことにした。しかし18時前にもかかわらず、既にあらゆる官邸周辺道路は群衆で溢れていた。ちょうど、樹木の下のスペースが空いていたので陣取る。溜池山王駅から官邸横の坂を登ってくる人々の波ができる。官邸前に巨大な群衆の塊が発生していた。大飯原発「再稼働反対」のシュプレヒコールに呼応した声が響き渡る。丸ノ内線国会議事堂駅の出口前は、続々と集まり滞留する人々と警察の間で揉めている。明らかに今までとは違う質の層が加わり始めてきている。「普通の人」たちが、ネットでの情報を聞きつけて、半ば好奇心も含め集い、「傍観者」から「参加者」に転身していく。それぐらいの敷居の低さがこの行動の最大の特徴だった。ふと見ると、ミュージシャンやタレントの姿もあった。

樹木横に立っていた私の横に一人の初老のサングラスをかけた男性がいた。
「どこからきたんですか?」「私は初めてなんですよ」
突然、彼が聞く。話していいものか少しとまどったが、答える。ついでに、今回が4度目でどんどん大きくなっている状況も説明する。
「ほう、ほう」
彼はうなずき、そこに座り込んだ。座りこもうというわけだ。まあ、でも僕もこれから起こることをじっくりみたい気にもなり、横に座った。目線の前に警察の規制線があった。

もう一人、となりに何処かでみた人がいた。テレビで何度か出ていた元東芝の原発技術者の後藤さん。一目でわかった。彼のような人もここへ来るのか。黙って座り込んでいた。意志を感じた。周囲は騒然としていたが、どこか皆緊張し冷静な部分もあった。

19時前後、官邸前が暗闇に包まれ始めるにつれ、群衆の数はさらに膨れ上がり、至る所で人が滞留する。警察は歩道を確保させるため滞留を認めない。しかし地下鉄からは続々と人が溢れてくる。とうとう国会議事堂側の歩道も埋まり始める。官邸前に向かう両側の道路がさらに人で溢れ始める。シュプレヒコールの声が一段と大きくなる。最前線のスピーカーの声とは別に、幾重にも声の波がうねるように官邸周辺に広がっていく。

突然のことだった。抗議行動の長い隊列の後方の歩道から、車道に人が溢れた。あっという間に広い6車線の道路が群衆で埋まり、官邸前に向かい前進してきた。大きな歓声と拍手があがった。初めて見る光景だった。次の瞬間、官邸前側にいた私たちの前に何台かの機動隊のバスが進んできて、あっという間に視界を塞いだ。サイレンの音が響き車道を前進する群衆に対して「止まれ」「歩道に戻れ」の指示。バスの向こう側で何が起こっているのかは窺い知れない。しかし、巨大なシュプレヒコールの声は聞こえてくる。こちら側からも呼応するように、「再稼動反対!」の声があがる。あの初老の男性も東芝技術者も声をあげた。周囲は騒然となった。いつしか、私も叫んでいた。

10数分もそれが続いただろうか、警察が私たちに移動するように強く動き出す。誰も動かない。シュプレヒコールは続く。やがて、警察の警備車両のスピーカーから「主催者からの声明により、今日の抗議行動は中止になりました」との通知。なかなか解散には至らなかったが、しぶしぶ抗議行動は終了を迎えた。

よくも悪くも、これが全国に広がる前代未聞の反原発抗議行動へと変容する契機となった。まだ主催者周辺を除き、現場にいたものたちさえも、一体何が起こり始めていたのか把握していたものは少なかったと思う。主催者は「みなさん、また来週集まりましょう」と告げた。

私はこれを契機に、この夏の抗議行動にほぼ毎週末通い始めることとなった。人生初めての意志的なデモンストレーションだった。その後この首相官邸前行動は、テレビの取材によりさらに増幅し、ほぼ半世紀ぶりの大規模な国会前抗議行動へと拡大することになった。その結末はたくさんの言葉や写真・映像がネット上に上がっている通りだ。全ては中吊りのまま曖昧、隠ぺいと忘却が覆いつくそうとしている。あれから10年以上が過ぎようとしている。日本の原発を巡る未来は、まだ何も決めることができないままだ。

今でもこの場所を歩くたび、あの時の映画のような光景を思い出す。おそらく私はあの時期、人生で初めて「政治的群衆」の持つカタルシスと祝祭性、そして「限界」を実感した。私の中で何かが変わった。忘れられない体験だ。


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