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大学教員。編集者。好きなものはジャズと猫と映画と本。計画性のない散歩と旅行もいい。東京…

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大学教員。編集者。好きなものはジャズと猫と映画と本。計画性のない散歩と旅行もいい。東京在住。 ひっそりとやってます。ときおりこうして、忘れてしまいがちなことを書き留めておくと、過去と今と未来がつながるような気がする。私的な痕跡ぐらいは残しておかないと。

最近の記事

タルコフスキー『ノスタルジア』4K修復版再映

先日渋谷で久しぶりにタルコフスキー『ノスタルジア』を観た。なんと、30数年ぶりくらいか。80年代半ばに今は亡き六本木のCINE VIVANTで観た記憶が。 高校時代映画に目覚め、よく大阪のSABホールで関西エキプドシネマ(岩波ホール系)の映画を観に行っていた。そこで彼の『鏡』を観たのが最初か。ベルイマンやアンゲロプロス、ルイ・マル、ロメール等をを知ったのもここでの上映。ヨーロッパ系の映画を観るきっかけにもなった。まるで小説を読むかのようにに映画(映像)を体験していた時代だ。

    • 藤井風『満ちてゆく』から映画『四月になれば彼女は』へ

      藤井風の音楽を聴き始めたのは、コロナ期だったと思う。在宅での仕事の連続で、頭の活動に比して身体が活動を低下させていく。そうなると当然のごとく心身のバランスが崩れ、不調をきたす。無理にでも有酸素運動を、と近くの公園をジョギングする習慣がついた。人との距離も保たれる。しかし人恋しくはなる。そんな時、ジョギング用の音としてyou tubeから偶然耳に入ってきたのが彼の曲だった。 最初はオリジナルより洋楽カバーアルバム『help ever hurt cover』。編曲とピアノ&ボー

      • 「東京大空襲」と『パーフェクト・デイズ』と母の戦後

        1945年3月10日未明、東京の下町一帯に300機を超えるアメリカ軍B29爆撃機の大編隊が来襲し、焼夷弾による大規模爆撃を行った。この「東京大空襲」により、木造密集住宅地帯だった本所・深川・城東・浅草などを一夜にして焼き尽くし、そこに住んでいた10万人近くの人々を殺戮した。 私の母は、この東京下町の墨田区本所で生まれ育った。今でもある外出小学校の近くに実家があり、父は公務員、母は小さな店を営んでたくさんの子供たちを養っていた。小さな工場や商店が並び、後はみんな長屋のような狭

        • 半蔵門の細長いビル

          1980年代の半ば頃、半蔵門駅の地上出口から歩いてすぐ、細長いビルがあった。一台しかないエレベーターに乗り上ると、私のバイト先があった。 学生時代、私はここにあった情報誌ぴあ編集部でアルバイトをしていた。ちょっと長く大学生をやってたせいもあり、留年確定後、自分の金は稼がなきゃと就活がらみで動いていた。かつての友人の紹介で入れてもらった。希望の映画担当はいっぱいで、美術ならということでやらせてもらった。 当時のぴあは、まあいかにもの学生企業で、正社員なんて少しで契約社員とバイ

        タルコフスキー『ノスタルジア』4K修復版再映

          映画『黒鍵と白鍵の間に』と昭和末期のバブルな夜

          この映画は、ジャズピアニスト南博氏が書いた原作を以前読んでいたので、気になっていた。この監督やキャストでどうなることやらと思いながら観に行ったが、意外と味わい深い作品。というか、あの80年代の後半のバブルに向かっていく昭和最後の夜の雰囲気を知っているかどうかで感想はかなり変わるとは思うが。私にとってはどこか懐かしく切ない20代半ばを少し思い出してしまった。 映画のような当時の音大出の学生が、ついつい道を踏み外し、ジャズの世界にのめりこんでしまい、仕事としての演奏の場を求め、

          映画『黒鍵と白鍵の間に』と昭和末期のバブルな夜

          ジャニーズ「事件」とテレビ社会の終焉

          春からの一連のジャニーズ「事件」で思うのは、アイドル業界のカリスマとも言えるジャニー喜多川が築いてきた圧倒的な富とその権力の源泉は何か、だ。そこには当然の如く、彼の出自(アメリカ)と来歴(朝鮮戦争出兵&米大使館勤務)、その戦後日米の間に築かれた特異なポジション(立ち位置)が欠かせない。その上に当時の新しいメディアとして創成期であったテレビというアメリカからもたらされた報道・文化装置への参画(渡辺プロダクションにいたジャニー)、そして正にその特異な才能の源泉(美少年を見つけ「育

          ジャニーズ「事件」とテレビ社会の終焉

          吉田美奈子『TWILIGHT ZONE』と80年代

          1980年の春、大学に入学した私がさっそく向かった場所はjazz研究会の部室だった。とにかく念願のジャズを本格的に始めたかった。ところが誰もいない。ここは勧誘とかないのか、とその閑散とした空気に少々落胆し、近くの部室棟を歩いているとドラムの音が聞こえてきた。そこは軽音楽部の部室で、奥に一人ジョンレノンのような髪型と丸眼鏡の小柄な男が淡々と練習をしていた。 外から少し眺めていると私に気づき、「新入生?中入ってきなよ」と誘われた。おずおずとに入っていくと、そこにはドラム、キーボ

          吉田美奈子『TWILIGHT ZONE』と80年代

          2012年夏、首相官邸前で。

          昨今の福島原発「ALPS処理水」の報道を巡る一連の世論を聞きながら思い出したこと。 有楽町線永田町駅の国立国会図書館方面出口を上がると、ちょうど向かって右に国会議事堂の裏側、左側に国立国会図書館が見える。他には何もない。ただ広い道路があるだけ。私は資料探しのため定期的にここに通っていた。 たまたまこの日は少し早くここを出て、夕刻議員会館横を通り首相官邸前へ向かっていた。丸の内線に乗ろうとしていたからだ。官邸と道路を隔てた交差点前のスペースにシュプレヒコールをしている一群が

          2012年夏、首相官邸前で。

          楽器で語る言葉と場所 

           ふと、思い⽴ってジャ ズを聴きに⾏った。中央線某駅からすぐの⼩さな⼩さなジャズバーだ。狭い飲み屋街の雑居ビルから地下に降りると、そこは10数⼈⼊るといっぱいという店で、通常はまさに「飲むところ」。  その晩の出演予定は、以前少々⼤きなライブハウスでよく聴いていたピアノトリオ(これも⼤好きなメンバーだったがピアニストが不幸にも亡くなってしまった)に時々ゲストで来てたアルト奏者。どこかアルトというより、テナーの⾼⾳、延⻑のような太くノイジーな⾳⾊、バップからモードまで網羅した

          楽器で語る言葉と場所 

          叔父の葬儀記

          その叔父の息子から電話が来たのは、年明け半ば、母をようやく病院から老健に移動させ、少し一息ついた頃だった。無言の着信。留守電は入っていない。叔父に何かあったのかなと思ったが、急ぎならまたあるだろうと連絡を待った。翌日また着信と留守電。叔父が入院した、と。どうやらがんで入院しているらしい。詳細を語っていなかったので、夜こちらから連絡した。大腸がんでかなり進行しているとのこと。昨年冬から入院とか、コロナにも一度感染したとか、正確な情報が見えにくい。また今はコロナ禍で、医療介護系は

          叔父の葬儀記

          記憶の回廊

          3年前に認知症を発症した母は、ゆっくりと様々なことを忘れていった。最初は自分に起き始めたことにおぼろげな不安を抱いていたが、やがて「しょうがないわ」という諦めと共に、明日に対する意欲がすこしずつなくなっていった。 平凡な日々の生活記憶は、翌日には消えていき、若き日々の思い出、人生の中で楽しかった時の記憶が、断片的なイメージと共に美しく編集され、繰り返し語られる。介護のため、定期的に母の家に訪問する私は、その会話の重要な聞き手だ。 母の記憶は、何かのきっかけによって引き出さ

          記憶の回廊

          本を捨てることができない。

          自宅の仕事部屋兼書斎に本が溢れかえっている。10代のころから読み始めた本を、基本捨てずに置き続けているからだ。もちろん、買って読み失敗したと思ったものは、定期的に古本屋に送って処分している。しかし、それでもまあ置いておこうと思う本が多すぎる。人生の時間のかなりの部分を、本と音楽と映画に費やしてきたせいもあって、どうしても本の背表紙を見ると、その内容のみならず、それを買って読んだ時の日々が、その時代の記憶・感情とともに蘇るからだ。この背表紙と視覚とタイトルと脳のインデックスの関

          本を捨てることができない。

          『京都人の密かな愉しみ』と幻想の京都

          以前、何度かNHKで観てハマったシリーズ番組。録画して、時折また観返している。コロナ過で撮影が難しいのか、次回が待ち遠しくなるような名作。 それぞれの役者の演技はもちろん、各シーンの映像の切り取り方と音の入り方、またナレーションを含むセリフの入り方が本当に絶妙。京都を知りかつ深く愛する視線で、四季の変遷を背景に営まれる住人たちの物語を、ドラマとドキュメントという虚実を織り交ぜて、抒情深く魅せる。ラストでいつも流れる武田カオリの「京都慕情」がなんとも素敵な編曲!老後は京都住み

          『京都人の密かな愉しみ』と幻想の京都

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          夏 平日 午後の井の頭公園

          夏 平日 午後の井の頭公園

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          2016春 佐賀九年庵訪問記

          父が亡くなり、5ヶ月が経った。葬儀から香典返し、たくさんの名義変更や社会保障関係の諸手続きで、忙殺された。さらに追い打ちをかけたのが、まだ退去してくれない荻窪の親戚の状況だった。 荻窪明け渡し裁判は、昨年夏前にようやく和解という形で決着し、9月末までに退去、遅れた場合は遅延損害金をもらう、という和解調書を交わした。にもかかわらず、N子さんは9月末になっても出て行こうとしなかった。関わってもらっている弁護士のH氏に、強制執行の手続きを取ってもらうようお願いした。様々なことの先

          2016春 佐賀九年庵訪問記

          荻窪 明け渡しの日

          2016年、正月明けてすぐ2日の午後に、ずっとお世話になってきた親戚の弁護士H氏から、練馬駅改札で「実家の鍵」を受け取る。私より10才ほど上の彼は、ここ数年間、いや10年以上に渡って、実家をめぐる親戚との争いに、父から私へと、わが家の代理人として関わってくれていた。それがようやく解決し、貸借していた実家は明け渡されたのだ。しかし、一緒にそこへ行くはずだった父は、昨年秋に亡くなっていた。失意の底にいる母は、もはや一緒に行こうとはしない。 翌朝8時過ぎに妻と家を出て、9時に荻窪

          荻窪 明け渡しの日