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一度逃げたら神様は2度と振り向いてくれない?




人生のほとんどは、辛い時期を過ごし、
我慢の連続で、耐え続ける

少しの優しさや、ちょっとした出来事が
すごい幸せに感じるくらいに。

進み続けるには、覚悟が必要。

これが、僕の人生です。
良ければ読んでください。


僕は小学生の時にサッカーを始め
少年団からスタートしました。6歳からサッカーを初めて一年半後くらいですね。
小3ながら負けず嫌いで勝ちたいチームに行きたくて
地元のクラブチーム6チームくらい練習参加して
全チームからチームに入ってもいいよと言われ
フィーリングでクラブチームを選んだ。
大正解だった。

その後2年で全国大会に出場し、後少しのところまで来た。
小学5年生で中学生の練習にも参加させてもらっていた。
選抜チームにも選ばれていた。

中学もそのクラブチームでプレーした。

一気にレベルが高くなり
サッカー、勉強
友達との遊びや色々とブレブレになっていた。
サッカーへの熱が冷めていた。
僕はクラブチームをやめて、楽しいサッカーを選ぶと父に伝えた。
その時に言われた言葉です。


幼い時からサッカーにかけてきていた僕。
今逃げたらサッカーの神様はもう一生振り向いてくれない。
結構突き放された。

そして、事務所に辞めることを伝えに行った。
その時のコーチにも言われた言葉を今でも覚えてる。

今悩んで逃げたら
また新しい悩みが生まれるだけ。

こんなに試合中ずっと走れてゴールを決めれるサイドバックはなかなかいないから残念。

一度持ち帰って考えてから答えを出してと。

その後やっぱり辞めたいと言う勇気がなくて続けることにした。

言われた通りだった。
チームに入った小学3年生から中学2年生までずっとトップにいて常にレギュラーだった。
はじめてBチームに落とされた。

しかし何故か何も思わなかった。
練習にも行かなくなった。

そして高校生になり監督からの差別をうけ、3年間一度も試合に出ることはなかった。

1年生の時に、自分がサッカーが好きでプロになりたいと言うことを改めて思った。

遅かった。
そう思った時には周りとの差はかなりあった。

ここから、僕の本気の戦いが始まった。
何度も泣いた。
寝ずにひたすら闘った。
褒められても勘違いすることなく
大きな夢をもち、そこに向かって妥協しなかった。

神様は微笑んでくれる。
そう信じて何度も何度もこのnoteに書いてきた生活を送った。

朝2時50分に起き新聞配達。
意地でもお金を貯めて海外に行くために
終わってすぐにグラウンド。
5時前からチャイムがなるまでひたすら
アジリティ、ドリブルを磨いた。
練習終わりに毎日ジムで筋トレ
そして社会人チームの練習。

オフの日、オフ期間も地獄のようなトレーニングに地獄のような発想でトレーニング、試合、筋トレをひたすらに続けた。

高校時代、試合に出ることはなかったが、マンチェスターに留学した際に、コーチ陣に認められ、ドイツのオファーをもらう。

一度逃げたら神様はなかなか振り向いてくれない。
その通り
僕はヘルニア、分離症、疲労骨折をしながらのプレー
ケアにも時間を多く使い
チャンスがきて、その手前で断念ということが何度も続いた。

サッカーカレッジに行き、卒業したらドイツ、スペインにいくと決めていたが、次は卒業前に脊柱管狭窄症。
本当に厳しい世界だ。海外を諦め地元のスポーツジムで働きながら
時期を待った。

チャンスをもらい、タイ、カンボジアへの挑戦する機会をもらった。

一度逃げたあの14歳の時から15年間。
20歳を超えても続けた
毎朝のトレーニングや、日々の積み重ね。
どこかで辞めていたら本当に一生振り向いてくれなかったであろう
僕の神様。

僕は諦めなかった。
29歳になった今。
インターナショナルトーナメントで優勝。

そして今年は
オーストラリアでも最強チーム
オーストラリア代表4人が在籍するチームで
プレーする
予定でした。


たくさんの試練がありました。
高校で試合に出れず
どんだけ身体を鍛えてもパフォーマンスが上がっても
試合に出ることはなく
練習試合で
毎回のようにゴールを決めても無視され
最後の試合はベンチ外
最後の挨拶で

お前はサッカー選手なのに身体を鍛えてた。
やっている競技がちがうよって言われた
3年間お疲れとかそういう言葉はなく、最後の最後まで
侮辱された。
けど、今だから言います。ありがとう。

サッカーカレッジでは毎日の2部練習に加えて個人トレーニング
いい感じまできたところで脊柱管狭窄症に、なり
また大きな悔しい思いをしました。
ありがとう。
地元に戻りフットサルチーム、サッカーチームに入り、脊柱管狭窄症のせいで、毎日吐き気、めまいがし、体重も大きく落ちた中での再スタートの中。
フットサルでは地域リーグ12試合15ゴールでチーム得点王
今では元プロもいて
地域リーグで1.2位を争う競合チーム。

なんとかチャンスを掴み、タイ、カンボジアでプレー
外国人選手枠を争い違う地域、言葉のわからない中でのプレー

そしてオーストラリア。

チームが決まりシーズン前に車に轢かれ病院。
チームとの契約が切られ、別のチームでプレー
たくさん差別を受けました。
1部ではありましたが、最下位のチームで
U23とトップチーム、両方でプレー
U23は上位でしたがトップチームは常に負け
0-9で負けた試合もありました。
いままで小中のチームが常勝チームだったので
こんなに屈辱的なことはなかったけど
これも試練だと思い
闘い続けました。

そのあとフットサル一本に絞り
オーストラリアのNPL
division1でプレー
ものすごいレベルが高く
元J1ヴィッセル神戸でプレーした選手や
ブラジリアン中心のチームでした。
トップ4に入り、優勝が近かったけど
監督からの差別が原因でチームを去りました。
原因は僕の英語力がないからです。

その次の年は別のチームに行きました。
監督は今のオーストラリア代表監督のマイルズ
彼は日本のFリーグ、府中でもプレー経験のある人で
練習からかなりハードでした。
いい感じに来ていた中、コロナで日本に帰国。
3年間日本で過ごしました。

僕は諦めず
遊ぶこともなく
毎朝4時に起きトレーニングを続けました。

そして、オーストラリアに戻ってきて1年目
素敵な出会いがあり、フットサルチーム、そしてコーチの仕事をその方から得ました。

ユース(16歳主体のチーム)でリーグ戦をプレー
ほぼ毎試合負けました。
人数も揃わない中、毎試合フル出場。
けど僕にとっては大切な期間でした。

負けても、周りのサポートがなくても
プレーの質を落とさないように
ぶれないメンタルが、鍛えられました。

どんなに周りがうまくても
安定のプレーを常にし、モチベーションやコンディションを、言い訳にしない
プレーを意識し、
そのチーム12試合11ゴール

キャプテンも、やりました。



そして、division2のチームに入りました。
そこでは最初の3試合で4ゴールと暴れ
確実にチームの中心であったのにもかかわらず
フットサルを知らないスペイン人の頭の悪さで
試合でどんだけ活躍しても
観客があいつを出せと言っても
4.5分程度しかでることはできませんでした。


サッカー以外での成功の道はものすごくたくさんありました。
働いていた会社からのビジネスビザの話

自分で始めたサッカースクールも2年で生徒が100人くらいになったり

働く会社ではすぐに管理職にあがり、支店のトップになったり

僕は、逃げてきたこの闘いを軸に人として大きく成長してきました。
なので、僕はどんなおいしい話も
ときめくことなく、自分のサッカー、自分のフットサルを中心に物事を考えてきました。

遊びだけではなく、食事もかなりこだわりました。
友達と遊んだ記憶もほぼないくらい

僕は凡人なので、誰よりも闘っても
すぐに結果が出るタイプではなかったです。

いまだに脊柱管狭窄症による
しびれやめまい
試合中に力が入らなかったり
試合終わりはほぼ毎回つったり
身体が苦しい中での闘い

ここにくるまで、15年

ちょうど四年前
コロナのせいで強制帰国を余儀なくされた時
正直もう戻ってこれないと思ってました。
ただ、この3年間が僕を本当の意味で強くさせてくれました。

毎朝早く起き
全てを、整えてきました。




その試練を乗り越えて
僕は2024年に入り
一つ目のタイトルを獲得しました。

みんなの言葉や、与えてくれた環境のおかげです。



このチームに入れたのも
全てSDBアカデミーのみんなのおかげです。

特にボスのTheoには自由にさせてもらいました。
3年間フットサルをしてこれなかった僕に
フットサルチームを与えてくれた。

どんな試合もほぼ、フルで出してくれた。
どんなにきつくても
信頼してくれて試合に出し続けてくれた。
そして働く場も与えてくれた。

いろんな大会をSDBとして闘ってきました。
そして、これは運なのか
次のシーズンはSDBは登録しないから
好きなところでやっていいよと言ってくれた。


ここで、たくさんのチームからオファーが届く。

6チームからのオファー

去年のNSWチャンピオンチーム
その決勝で敗れたチーム
Mauntain Majik
Hakoah

どっちの、チームにもオーストラリア代表、各国のプロがいるチーム
以前いたチームということもあり
顔馴染みが多くいた。

そしてチームが決まる前に
Theoから連絡が来た。

SDBで闘えることになったから
チームに入って欲しいと。
これからチームを強くするためにも
ここ数年が大事だということはわかってました。

僕になんでも与えてくれてここまで強くしてくれたボスからの言葉には正直かなり揺らぎました。

ずっと悩みました。

Theoの奥さんにどこでやるのか
聞かれた時に

Mauntain majikかSDBか迷ってると伝えたら

Theoにプレッシャーかけられたの?と聞かれました。
ちなみに、Theoの息子は16歳でSDBとして一緒に闘ってました。

ちゃんと自分の意思を伝えました。

僕はSDBでやりたいけど、去年は力不足をものすごく感じた。
1年は代表選手達のいるチームで誰よりも強くなって
来年Theoの息子達と一緒にプレーしたいと。

奥さんと、息子に
絶対mountain majikでプレーした方がいいと。

強く背中を押してくれました。
SDBの為に。


という感じで年初めからMountain Majikの練習にずっと参加してました。
本当に調子が良くて、確実に上手くいくと思ってました。

コーチは代表のコーチもしてして
一回も練習に来ませんでした。
そして、コーチが僕のプレーを一回も見ることなく、選手の登録人数を、フルにつかい、
シーズンが開幕する、1週間前まで
なにも連絡もくれずに
チームに入れませんでした。

オファーを、してくれた全チームも選手がフルということで。

いつも通りの結果です。笑

神様は振り向いてはくれないってわかってました。

1番悔しい状態になるようにうまく作ってくれて
叩き落とされるパターン
一度逃げたあの年からほぼ、毎年のように。

ただ、どんどん熱が冷めていって急にやめる現象が起こるかも。
サッカーは一瞬で熱が冷めてスパってやめましたね。

今はフットサルに熱があるのか。笑

何に対してもかも。



今年で30歳ですが
僕はまだまだ挑戦し続けます。

目標の先にさらに目標をつくり、達成し続ける。


このタイミングで
たくさんの企業様にアスリート契約の交渉をいたしました。
断ってくださった企業様、ほんとうにありがとうございます。
僕の人生はいつも
簡単にはうまくいかないんです。特に誰よりも
能力がない分。

ただ、絶対にやり続けたことは叶うので、そうやって乗り越えていくので。

今年はサッカーコーチ、フィットネスに続き
新しい事業

サッカー短期留学サポートの事業もスタートします。

これからさらに上を目指し、
たくさんの人に影響を与えていくために。

みなさん。ありがとうございます。

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