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ついに社長に慈しみを感じるようになってしまった。

土曜日の出勤、のんびりした午後。
社長が私のデスク横を通った。
一瞬のことだけど、今までに感じたことのない、慈しむような気持ちが生まれていた。
なんだこれ。どうした私。

社長はおそらく80歳前後。
(詳しくは知らない)
先日まで入院していて、退院後さらに元気になったと聞いてはいたが、姿をみたのは久しぶりだった。

正直、面接で少し話したくらいで、社長のことはよく知らないけれど、細かなルールで縛る慣習や、圧倒的な休日の少なさ、朝令暮改でみんながアタフタする様子をみていて、「なんだこの会社」ってずっと思っていた。

でもね、
休みが少ないのも覚悟の上の入社だし、給与も私の労働の対価としては問題ないレベル(気楽にやっているから)。残業はほとんどしないし、好きな曜日で休むこともできる。
長時間の車の運転や、泊りの出張など、出来ないことは出来ないと言えば免除もしてくれる。昔ながらの効率の悪さはあるけど、なんだかんだ情に厚いし、私の周りでは特に人間関係で問題を感じることは無い。
つまり、私はけっこうこの会社から恩恵を受けていて、不満を並べる理由はこれと言って特にないのだ。

ただ、会社全体は社長への忖度にあふれているから、成長したいと思う人には向かないとは思う。そういう意味で個人的に本当にここでいいのかなと思う人には、転職応援活動をこっそりと行っている。

閑話休題、
私の中に生まれた、慈しみの気持ちの正体はなんだろうか、と改めて考えてみる。

前回の記事にも書いたが、
「全てはブラフマン」というか、
「梵我一如」というか、
とにかく私たちは「全体」の存在であるにもかかわらず、「個」として肉体を持って生まれるが故、悩みや恐れ、不安を抱え込んでしまう。人と人との間に境界線を引くことで全ての苦しみが生まれているのだと学んだ。

社長はきっと、不安で不安でたまらないのだろうと思った。
前年よりも利益をあげなければ。
人員不足は努力と忍耐で補わなければ。
なんとか会社を維持しなければ。
上に立つものとして力をみせなければ。

そりゃあ、苦しいよね。無いものばかりを追い求めて、自力でなんとかしなければって思い続けていたら。怖いから従業員をルールで縛ってしまうんだよね。

もっと楽にいこうよ。手放していいよ。
そんな気持ちになったのだと思う。
ずいぶん上から目線で、お前誰やねんって感じではあるけれど。

苦しい社長の姿も、社長の指示に右往左往する人の姿も、それを見ている私自身も、全て同じひとつの存在。
そう感じた瞬間の「慈しみ」だったのではと思っている。


そういえば今日のヨーガのレッスンも「慈しみ」にあふれていた。
タダーサナ(山のポーズ)のとき(だったかな?)U先生がおっしゃった。
「立っているのではなく、天に立たせてもらっているというような感覚」
泣きそうになった。ああ、私たちは生かされているのだなと。

いつ辞めてもいいと思いながら続けている会社員だけれど、業務とは全く関係ないところでの学びが多くてなかなか辞められない。
まさに経典から学んだ哲学の実践の場となっている。

会社員とヨーガの学び。
私はこの両輪で進んでいくのが性に合っているのかもしれないな。

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