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たとえ必ず死ぬとわかっていても約束は守る

今週のnote記事では、素晴らしき先人たちの教えを、江戸時代のある実話から共有したいと思います🤲


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「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬のフン」とは、江戸市中に多いものをいった俗語 です。

このような俗語の筆頭に挙げられるくらい、とかく江戸市中には火事が多かった。

木造の建物で、全体的にホコリっぽかったので、すぐに火が出てしまったのです。

回数もさることながら、歴史に残るような大火事も何度か起こっています。


明暦の大火(振袖 -  ふりそで - 火事)もそのひとつです。

明暦3年(1657年)の正月18 日、本郷丸山にあった本妙寺から出た火が、折からの強風にあおられて、湯島、 駿河台、神田、日本橋……………と燃え広がり、10万人ともいわれる死傷者を出しました。


お江戸の火事は日常茶飯事!?


── そして、この火事に絡んで、非常に日本人らしい逸話が残っています。 ──

それは、かなりの広範囲に広がった火が、日本橋小伝馬町に置かれていた牢屋敷にも迫ろうとしていた時のこと。

囚獄 - しゅうごく -  (牢屋敷の長官)を務めていた石出帯刀 - いしで たてわき - は囚人たちを牢から出して「私の一命に賭けて釈放する。ただし、そのまま逃げたりしないで、必ず浅草新寺町の善慶寺 - ぜんけいじ - に戻ってくるように」と申し渡しました。

囚獄は江戸町奉行の配下で、囚人を預かるのが仕事でした。

ただし、牢の鍵は町奉行の管理でしたから、大火事という非常事態でさえ、囚獄に牢を開ける権限はありません。

しかし、いくら犯罪者であっても大勢の人間がただ焼け死ぬのを見過ごせなかった石出は、独断で釈放を決め、牢の格子を打ち破ってしまった。

 もし、囚人たちが火事のどさくさに紛れて新たな犯罪を重ねたり、約束の期日に1人でも戻ってこなかったりしたらどうなったか......その場合、彼は責任を取って、腹を切らねばならなかったことでしょう。


アンニュイさの漂う背中…🥺


このとき釈放された囚人は、120人余り。中にはいずれ、死罪となることがわかっている者もいたはずです。これ幸いと、そのまま逃げてしまっても不思議ではありません。

ところが期日として切った振袖火事の3日後には、釈放された囚人たちは全員、 浅草の善慶寺に戻ってきたというのです。

石出が命を賭けて自分たちを救おうとしたことが囚人たちに伝わったからこそ、彼らも、その石出の心に応えようとしたのでしょう。

もとより囚人たちは罪を犯した者ですから、真人間ばかりではないはずです。 

それでも彼らは、人として石出を裏切ることはしなかった。 

それは、自分が裏切ったら、石出が腹を切らされることがわかっていたからだと思います。

自分によくしてくれた人を、そんな目に遭わせるわけにはいかない。 そのためには、たとえ死ぬために帰るようなものであっても、帰って来いと言われたからには帰る、いちど交わした約束は必ず守るという義理堅さを、日本人は本来、持っているんですね。

人から助けてもらったら、受けた恩を必ず返そうとする。本来そういう考え方をするのが、私たち日本人なのです。

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人として、人を裏切ることはしない

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