こころの奥底にあったもの
「親に感謝を伝えよう」
「心配するのも、親の愛」
「親子だから、いろいろあっても最後は分かり合える」
そんな言葉にざわざわするのは、どうしてなんだろ。
自分たち夫婦と子どもの関係は良好にみえる。
(私の側からみえるだけ。子どもたちがほんとのとこ、どう感じているかは知らんけど)
「親を嫌ってもいい」
「親は子どもを育てる義務があるんだから、感謝なんてしなくていい」
そんな言葉に、胸の奥が疼くのは何でだろう。
大人になってだいぶ経つし、父はすでに他界、母も高齢だ。
特に何か大きな問題があるわけではなく、両親共に、愛情をかけて一生懸命に私を育ててくれた。
親に傷つけられたことは山ほどあったけど、私もやっただろうし、お互い未熟な人間同士、仕方ないよね、という納得感も十分にある。
それでも、だ。
父が亡くなった時、「お父さんの子で良かった」と言えなかった、と後悔があった。
「今までありがとう」って言えなかった。何で言わなかったんだ、と。
でも、私は本当にそう思っていたのか?
お父さんの子で「良かった」のか?
「ありがとう」を感じているのか?
生きていたら80代の父。
あっけらかんと何も考えずに、思ったことをそのまま口にする父。
子どもみたいで、憎めない人なんだ。
悪気は一切無くて、言ったこともすぐ忘れちゃう、かわいい人なんだ。
父という人を理解出来たように感じたのは、晩年だった。
命を繋いでくれて、育ててくれたという感謝は当然感じている。父なりの愛情も感じている。
私は父との関係を美談にしようとしてないか?
未熟な人間同士だから、悪気はなかったから…。
「妹は安心だけど、お前は心配だ」
「お前はほんとに勝手だな。」
父が、自分の不安や心配を自分で抱えきれずに、「親の愛情」という被り物を着けて、私にぶつけていた、と今なら分かる。
自分の不安を自分で抱えることがどれほど大変なことかも。
でも、
傷ついた私は確かにそこにいた。
その時、私は傷ついていた。
子どもである、というだけで親の意見とは同等に扱われない自分の意見。
一人の個人として尊重されていない感覚。
本能的に、一番に理解して欲しいと感じる対象である親に、信じてもらえない悲しさ。
自分も親になってみて、これがどれだけ大変で、どれだけ自分と闘わなくちゃ出来ないことなのかは、身に染みて分かる。だから父を恨んだりはしていない。
ただ、奥底にある傷みが、その存在を無かったことにされたくなくて、時折知らせてくる。
そして、私も臆せずに、「悲しい」と伝えれば良かったなぁ。
書いているうちに、気づいてきた。
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#最高の教師に近くにいて欲しかった
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