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何だかんだで、自分は酷く当たり前の事を言っている気がしてきた

自分は疑い続けているが、特に懐疑論者ではない

自分が言いたい事は、まず信じるなという事だ。信じるな、それはそのまま疑う事である、と思っている。結局疑う事が重要だ、という事だ。

ただし自分は、自信は持つべきだというような事を何処かで書いた記憶がある。だから結局自分は、自分以外には何も信じるな、と言いたいのだろう。

そうすると、自分は懐疑論者とは違う事になる。懐疑論者は、自分すら疑うようだ。

自分は、疑う事に関しては特に疑っていない。そこが、懐疑論者とは違うのだろう。自分は、疑っている自分を信じている。

そう考えると、自分は思考停止していない事にならないだろうか。全面的に疑う事は、逆に思考停止にしか思えない。

現代の異端は、歴史上の王道

自分は疑っている自分を疑っていない。

或いは、自分は結局「我疑うゆえに我あり」みたいな事を言いたいのだろうか。デカルトも昔何冊か読んで理解できなかった記憶があるけど、自分は「我思うゆえに我あり」と近いところにいるのかもしれない。

近いところというよりも、或いは全く同じ事を言っている気がしてきた。「我思う」は、「我疑う」だろう。

何か自分は自分だけ違うところにいる気がしてたけど、ずいぶん当たり前の事を言っているような気もしてきた。

自分は、現代においては異端でも歴史上では普通の事を言っている。自分のマイナス思考は根本的に懐疑論ではないが、「我思うゆえに我あり」ではあるという事だ。

実際、自分は孤独感を持って生きている。ただ、それは自分の生きている近辺での孤独であり、歴史を遡るとそうではないようだ。

今回自分は多分、自分が懐疑論者ではないという事を言いたかったのだ。ただ、そのくらいでは孤独とは言えないかもしれない、という事に気が付いた。

ところで、ネットで調べていたらデカルトは神を信じていたらしい。自分は、神を信じていない。

それはまた別の話、という事になるのだろうか?













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