さと

鬱歴約10年治療中。その後54歳でADHD、自閉と診断された私の反省と思い当たる点、そ…

さと

鬱歴約10年治療中。その後54歳でADHD、自閉と診断された私の反省と思い当たる点、そしてこれからのことや、今を徒然に書いていきたいと思います。

最近の記事

おばちゃん

おばちゃんのことを本当の「おばちゃん」という親だと思っていた。おとうさん、おかあさん、おばちゃんとは同列、いや、それ以上だと、思っていた。 未満児保育が充実していなかった片田舎で、おばちゃんは近所の人の子を昼間預かっていた。生まれて半年から預けられていた私は、母に連れられて帰る時 「おうち帰る」といって、 おばちゃんの家に帰ると大泣きしていた記憶がある。 おばちゃんの家には、トトロに出てくるような井戸もあったし、大きなお兄ちゃんやお姉ちゃんたちがいた。そこで夕飯を食べ

    • 泥棒なんかじゃない❗️

      小学校1年の時のこと。赤ちゃんの時に保育所代わりに預けられていた、おばちゃん家に遊びに行った。家から5分と離れていなくて、ここが自分の家だと思って自宅に帰る時に「(おばちゃんの家に)帰る‼️」と大泣きして暴れた記憶もあるほど。 おばちゃんは私の母親と言っていいほどの愛情をたっぷり注いで育ててくれた。 おばちゃんのうちの脇には田んぼがあって、細い畦道をバランス取りながら歩いたり、れんげの花を摘んだりするのも楽しみだった。 あれは、れんげの田んぼが耕されたあとくらいの季節だっ

      • たとたん

        保育所のきいぐみ(黄組)さん、今で言う年中さんでしょうか。当時は2年保育が主流でしたので、年少と年長しかなかったのですが、年少を2回やる子が稀にいたので、そう言うことでしょう。 その時にゆみちゃんと言う仲良しさんがいました。その子は舌ったらずで私のことを「たとたん」といつも呼んでいました。私も自然にそう呼ばれると、私のことだなと思っていたので、違和感はありませんでした。 豪快で何でも思い通りに進めるブルドーザーのようなゆみちゃんのお母さんはちょっと苦手だったけど、ゆみちゃ

        • ちゃんと歩いてたよ

          小学校1年の時のこと。学年ごとにまとまって帰ることが多かった。 私の登校班の同じ1年生の多くの子には、お兄ちゃんやお姉ちゃんがいたし、夜遅くのドラマやバラエティーなどテレビも9時代まで見てる子が多かった。おませで、精神年齢も私よりずっとうえだった。 そんな中で、長女でそこそこ厳しく、それこそドリフもまともに見せてもらえなかった私は、みんなの話になかなかついていけなかった。 学校を出て、最初は2列にきれいに並んでいた登校班も、10分も歩けばぐしゃぐしゃになる。三列になったり、

        おばちゃん

          目立ちたいんじゃないの?

          進学した地元の中学には吹奏楽部が無かった。そこに俄かに湧いた「今年から吹奏楽部ができる」という情報。音楽好きの私が飛びつかないわけがなかった。 まがりなりにも、ピアノ歴6年、音楽の成績だけは優秀だったし、実は「新世界」のトランペット🎺に憧れていた。最後列で、ビシッと立ち上がって、天にも届くかのようなあのフレーズが、とても好きだった。だって、私には無い華やかなものだったから。 もちろん、説明会初日から飛び込んで行った。それまで、他の部の体験入部に行っていたけれど、そんなものは

          目立ちたいんじゃないの?

          横顔

          精神的に幼かった私でも、中学生ともなるとなんとなく、自分の容姿が気になったりする。 うちの母はまだ農家が多い土地柄の中で、外に働きに行って小綺麗にしていたし、父もソコソコの男前だと思っていたので、両親共に中の上くらいだろうと思っていた。 でも、私は。全く容姿に自信が無かった。なんせ母には可愛くない、何を着せても似合わないと言われて育っているのである。 それでも、ちょっとくらいは…と一縷の望みを抱いてこっそりと母の三面鏡を覗くことも、ときどきあった。 辛辣だったのは溝口さん

          わたしじゃないもん

          確か小学5年生の時のこと。一つ年下のケイ子ちゃんと私は一緒に帰っていた。 ケイ子ちゃんは活発でハッキリものを言う。賢いし、スポーツもできて噂好きだ。 小学校も高学年となると、誰が好きだとか、両思いだとか、そんな事がこんな田舎でも話題になってくる。 その日、ケイ子ちゃんは私と同級生の「恵子ちゃんと健ちゃんが仲良いよね」という話をし始めた。2人とも目立つし、学級委員などする一目置かれた存在だ。私は「そうだね」と何気なく返事をした。 そこからケイ子ちゃんの妄想が始まった。 こ

          わたしじゃないもん

          濡れたパンツを入れたの だーれだ⁉️

          今の時代では考えられないことだろう。50年前の保育所の話である。 プールなんて立派な設備もない木造校舎。大きなスノコが並べてある下駄箱、大きな脚立がなければ届かないような天井に蛍光灯という、古い建物が保育所だった。 夏の楽しみといえば、大きなビニールプールに入って、先生が外からホースで水をかけてくれること。その時の服装は、男女ともパンツ一丁❗️ 今なら大問題である。 その日に履いて行ったパンツで水浴びをして、 あらかじめ綺麗に洗ったパンツをしっかりと記名してカゴに入れて

          濡れたパンツを入れたの だーれだ⁉️

          病気なんだけど?

          弟がインフルエンザになったのは、確か私が年長さんの時か小1の時だったと思う。家族みんなで枕元に正座をして、往診の先生が聴診器を当てるのをじっと見ていた。先生が帰るのを、母も祖母も仰々しくお見送りをし、私は、そこに座り続けているのもなんだかで席を外した覚えがある。 その程度なんだけど、かなり、たいそうな扱いを弟は受けていた。 保育所を通所拒否しても許されていたし、私は「おなかいたい」と言っても「ちょっとの事は我慢しなさい」と行かされていた。 忘れもしない小学4年の時の夏休み。

          病気なんだけど?

          我が家の当然

          誰にでも、その家流のやり方があるように、我が家にもそれがいくつもあった。 まずは【母は不機嫌】 共働きだった母は5時半頃、家に帰ってきた。 その途端に不機嫌になるのだ。ついさっきまで近所の人とにこやかに話していても、家に帰ると眉間に皺を寄せたような顔で、冷たい言葉しか出てこない。 テストでいい点数を取るのは当たり前。手伝いも当たり前。更にもっと機嫌の悪い時に、手伝いしようものなら 「そうすれば機嫌が良くなると思ってるんでしょ」という言葉を投げられる。 同居の祖母とは実の親子

          我が家の当然

          ピアノ習ってみない?

          小学一年生に上がる春のことだった。つくし取りにでかけた近所の畦道で、知り合いに会ったのか、母は誰かと話を始めた。私は聞き耳を立てながら、にょきにょき生えてるつくしを取っていると、その声が聞こえてきたのである。 それは、明らかに私に向けられた言葉だった。逆光で眩しいけれど、声の印象は柔らかな人だった。その隣で母は、困ったようなどうしようというような顔をしていた。そこだけが神経が張り詰めていた。「これは『良い子』のお返事をしなければならない」そう思った私は、「いいよ」だったか「

          ピアノ習ってみない?

          わからないけどいやなの

          2年生の担任はとても可愛らしい金城先生だった。みんなが「きんぎょ先生」と呼ぶに相応しい愛らしさと笑うと下がる目尻がとても愛嬌のある先生で、私も一目で好きになった。 あれは冬だったと思う。なんの時間だか、みんなで伝言ゲームをすることになった。先生が、1番前の席の子に何かを伝えて、2番目、3番目…と伝えていくゲームをした。 その時に先生がその日休んでる子を名指しで 「◯君はぶちゅぶちゅうんこで学校を休みました」 と伝言したのである。 今になれば、それがどんないけないことか

          わからないけどいやなの

          やり方はスケープゴート②

          ある時、いつものように電話応対をしたので、メモをし、帰社した支店長に伝えました。すると「いちいち言わなくって、おいとけばわかる‼️」と怒鳴られたのです。それ以降、口頭で伝えるのは辞めました。 ところが、ある一本の電話…それだけは、特別な存在だったそうで、伝えなければならないお客様だったようなのです。そんな事、入社して半年の社員にはわかりません。 そこから標的は私に変わりました。 電話に出るな 接客するな 他の人が忙しくしていても、コピー一枚、私に頼むこともなくなりました。

          やり方はスケープゴート②

          やり方はスケープゴート①

          さて、前述の会社は、やはり倒産してしまいました。計画倒産というのか、売上の良い支店を買ってくれるところがあったので、「私以外の全員」が、その会社に移籍できました。 私が移籍できなかった理由はわかりません。とにかく、先方から断られたということで、倒産1週間前に急遽、言われたので、解雇予告手当を支給してもらいました。 そして、失業者となった私は、ありとあらゆるネットの求人情報に登録し、ハローワークに毎週通いました。なんせ、我が家は、旦那の収入が少なく、私と二本柱で成り立っていた

          やり方はスケープゴート①

          適応障害になった経緯

          私が鬱になった経緯を軽く書いておこう。 最初は学習塾の本社に勤めていた時。もう倒産するんじゃ無いかと傍目にもわかる状態の時に、以前、セクハラ、ストーカーをしてきた人を再雇用すると決まった時に適応障害を発症。 その人が在職中は、深夜に長々としたメールを毎日のように送られ、帰りは一緒に帰ろうと追いかけられ、朝は駅で待ち伏せされた。子どもの同級生の父親だったので、無碍にできなかったのが裏目に出たらしい。決めては 「子どもは作らないんですか?私はもうできないようにしてありますから

          適応障害になった経緯

          来られて迷惑

          新しい支店で総務課の仕事。既に2人総務課の人員がいるので、どのように仕事の割り振りをされるのかが、不安だった。 その予感は的中した。 月に一度、午前中に終わる仕事を振られただけで、後は全く仕事を回してもらえない。2人は忙しく仕事をしている。3ヶ月待って6月に直属の上長の支店長に時間をもらい、お伺いを立てた。 「私をここに配属されたのは、どのようなおかんがえとかビジョンとかあってのことですか?」 答えは意外なものだった。 「知らん。人事が勝手にやったから」 なんと無

          来られて迷惑