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雑感記録(272)

【読書ヤンキーに僕はなりたい2】


以下の記録の続編である。

僕は常々だが、「本を読め」「本を読め」とそれこそ馬鹿の1つ覚えのように言っている。しかし、他方で「いや、別に本は読みたきゃ読めばいいんだよ。必要と思えば読めばいいんじゃない」ということも書いてしまっている。正直に言えば、どっちもどっちで僕の本心であることに変わりはない。本を読んで欲しいとも言えるし、別に読みたくなければ読まなくて良いのではないかとも思う。

だが、先にこれはちゃんと断っておきたいのだが、僕がこんなことを言えた義理は更々ないことである。僕自身、偉そうに本やら何やらと色々と語って悦に浸っている訳だが、僕はさして本は読んでいない。下手したらそこらの人より読んでいない。とこう書くと厭味ったらしいことこの上ないが、事実そうなのだから仕方がない。ただ、世間一般の同年代の人間と比較すれば読書の総体量が多いというだけの問題である。

まあ、そんな前置きは置いておくことにしよう。

ともかく、僕は「読書」というものに皆が皆どこかハードルの高い行為だと考えているようだ。各種テレビやSNSなどでのべつ幕無しに「読書しろ」「読書したら人生変わる」とか言われる。だが、読んだ先のことを誰も教えてくれない。いや、「読書をしろ」と人は言うけれど、誰も「読書の仕方」を教えてくれる人は居ないんだよなと僕はふと思った。

だからと言って、それに甘んじるつもりは微塵もないし、ハナっから「助けてよ~、ドラえ~も~ん!」精神は好きではない。僕も読み方は教えてもらった訳ではない。僕が教えてもらったことはあくまで読みの射程を広げるという部分に関してであって、自分自身がどう読むかということについては教えてもらったことなどないし、そもそも教えることすら不可能な領域である。

今、ここまで書いていて「教える」という言葉を僕は使用していたが、酷く厭らしい言葉だなと思った。「教える」というのは一方的な通行という印象が強い。何より、自分が「教える」立場になった瞬間にその場を統御するような雰囲気になることが僕には耐えられない。自分がその立場になった時にはもっと耐えられない。僕はそこまで大した人間ではない。

また話が脱線した訳だが、いずれにしろここで言いたいのは、もう1度書く訳だが「読書をしろ」と様々な人は言うけれども、「読書の仕方」を教えてくれる人は居ない。ということである。だが、僕が「教える」などとはあまりにも傲慢な態度であり、過去の記録で何度も執拗に書いているが「読書家が読書しない人を見下す態度」そのものである。

僕が出来るのは、せいぜい短い読書人生の話を書くことぐらいだ。どういう形で読書に向き合っているかということをただ記録することしか出来ないのである。しかし、僕の書く文章はどうも説教臭くなってしまって良くないのである。書いていると段々とヒートアップして「こうしろ」「ああしろ」というように変化してしまうのである。今回もそうならないことを願うばかりだが、人生何が起こるか誰も予想することなど出来ないならば、これから書くことだって予想することは不可能だろう。


先にも書いた通り、僕の読書スタンスを表明しておくと「全員が全員に本を読んで欲しいと思う。だが、必要だと思ったら読めばいいし、自分にとって必要じゃないと思えば読まなくてもいい。」ということである。

この考え方は、実はニーチェから拝借している。『善悪の彼岸/道徳の系譜』で言っていることだ。今までの哲学者の言う「真理」なんてのは、そんなものは「真理」じゃない。それはそれを必要としているから「真理」足り得るみたいなことを言う訳だ。つまり、人はそこに「真理」あるいは「真実」がアプリオリに存在すると考えがちだが、それを必要としていない人、関係の無い人にとっては「真理」「真実」などではない。唯の事象に過ぎない。

だから、僕は現代に於いて「本を読む」ということがある種どこかそれ単体で「真理」として屹立していることが怖いのである。僕は「どうして読書すべきだと思いますか?」と聞かれたら「それは僕にとって必要だと思ったからです」という風にはぐらかして答えるようにしている。先日の記録で書いたが、読書というのは「協働」作業に他ならない。作品と読者双方の「協働」によって初めて生まれる。その「協働」を必要としているか、していないか。ただそれだけの問題である。

しばしば、「本を読む」ことは孤独な作業で自己と向き合うための重要な時間であると言われる。僕はこれに関しては半分同意し、半分は少し考え方が違う。そもそも「本を読む」ことが孤独な作業というのが僕にはよく分からない。勿論、読む時は1人だ。それでも自分の中にもう1人の他者が存在している訳で、その他者と本と自分という三者の間で為される行為だと僕は考えているからである。もう少し説明しよう。

僕は前提として、自分という存在の中に、その時々で現れる他者としての自分が存在していると思う。これは平野啓一郎が言う所の「分人」なのか、あるいは柄谷行人が指摘するところの「他者」なのか、とそんな難しく考える必要は無くて。皆も何か独りで作業する時というのは意外と「独り言」を言いながら……しない?その「独り言」を言っている自分と、それを聞いている自分が既に存在している。このレヴェルで行くと、①作業している自分、②「独り言」を言う自分、③「独り言」を聞く自分というようになる訳じゃない。既にその段階で自分という存在が三者三様に、しかも同時に共存していることになる。

そう考えてみると、「本を読む」という行為では、まずこれも単純に①読む自分、そして②読んで考える自分の両者が共存する訳だ。更に加えるなら③②で出した考えに対抗する自分であろうか。だから、僕からすると「本を読む」ということが孤独な行為でというのが正直よく分かっていない。自己と向き合うということは、要するにそういう様々に現出する自分という存在を捉えるという意味で言っているのではないかなと思ってみたりもする訳だ。


そして、僕は「読書」そのものに対して、実は期待していない。

これは決して悪い意味ではない。僕等は「読書」の先に進まなければいけないということを言いたいのである。何だろうな…つまり「本を読むこと」が「真理」になってしまっているこの世の中では「本を読むこと」が完了すればそれでお終いである。大事なのはそこから自分なりにどう考えるかということなのではないか。例えば、「この作品は面白かった」と感じたならば、それを「どう面白かったか」ということを考えてみるということも1つの手ではある。更に遡って行き、「自分はどういう点で、何に面白さを感じるのか」と考えてみても良いかもしれない。

これは僕の経験則でしかないから、大したことではない。

前回の『読書ヤンキーに僕はなりたい』でも書いたが、とにかく訳も分からず読んだことは事実である。だが、読んでいるうちに段々と虚しくなる訳だ。僕も本嫌いからのスタートだったから、ただ滅茶苦茶に読んだ。最初なんて唯の作業でしかなかった。だけれども、そういうことをしているうちに「これ時間の無駄なんじゃないか」と思える瞬間がふっと来る。そう、そうなのだ。言ってしまえば、「読書」なんて本を読まない一介の大学生からしたら時間の無駄である。サークル活動にだって時間を費やせたろうし、バイトもバンバン入れてお金を稼ぎ、悠々自適に生活することだって可能だったはずだ。

僕には一応の大義名分があった訳で、意地で読書をしていた。

ただ、やはり僕の中でこれを続けて思ったのが、「本を読むこと」というのは案外簡単だということである。これは厳密に言えば「本に書かれている文字を眼で追う」ということである。どういうことが描かれていて、どういう内容でというのはある程度は抑えることが出来る。だから、そういった意味での読書は非常に簡単であり、誰にでも出来る。手元に本さえあれば。

僕が読書に期待していることは、とにかく考えることの継続性。それに尽きる。別に沢山本を読もうが、読ままいが至極どうでもいい話である。本の冊数など所詮ただの数である。とにかく、僕らが読者がどれだけコミット出来るか。それだけの話なんじゃないのと思ってしまう。


詩集なんかだと、これは至極簡単に出来るのだが、本の途中のページから読んでみるのは結構オススメである。僕は何も最初から本を読む必要性は無いと感じている人間であるので、本の真ん中あたりから訳も分からず本を読み進めることも良いじゃないかと思っている。これは夏目漱石の『草枕』マインドである。教えてくれた前田愛の『文学テクスト入門』には感謝してもしきれない。

女が余の前に座つた時、此頸と此半襟の對照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、六づかしい事が書いてあるでせうね」
「なあに」
「ぢや何が書いてあるんです」
「さうですね。實はわたしにも、よく分らないんです」
「ホヽヽヽ、それで御勉強なの」
「勉強ぢやありません。只机の上へ、かう開けて、開いた所をいゝ加减に讀んでるんです」
「夫で面白いんですか」
「夫が面白いんです」
「何故なぜ?」
「何故つて、小説なんか、さうして讀む方が面白いです」
「餘つ程變つて入らつしやるのね」
「えゝ、些と變つてます」
「初から讀んぢや、どうして惡るいでせう」
「初から讀まなけりやならないとすると、仕舞迄讀まなけりやならない譯になりませう」
「妙な理窟だ事。仕舞迄讀んだつていゝぢやありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を讀む氣なら、わたしだつて、左樣します」
「筋を讀まなけりや何を讀むんです。筋の外に何か讀むものがありますか」
 余は、矢張り女だなと思つた。多少試驗してやる氣になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切つた女は、あとから「さうですねえ」と判然しない返事をした。あまり好きでもなさゝうだ。
「好きだか、嫌だか自分にも解らないんぢやないですか」
「小説なんか讀んだつて、讀まなくつたつて……」と眼中には丸で小説の存在を認めて居ない。
「それぢや、初から讀んだつて、仕舞から讀んだつて、いゝ加减な所をいゝ加减に讀んだつて、いゝ譯ぢやありませんか。あなたの樣にさう不思議がらないでもいゝでせう」
「だつて、あなたと私とは違ひますもの」

夏目漱石「草枕」『明治文学全集55巻 夏目漱石集』
(筑摩書房 1971年)P.90

まあ、これで終いにしよう。

とにかく、これだけは言っておきたい。「読書」がゴールではなくて、そもそもゴールなど存在しない。考え続ける知の探究の端緒として、そして補助としての「読書」であることを忘れてはいけない。

以上。

よしなに。




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