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雑感記録(229)

【古本巡りはスポーツだ!4】


過去のシリーズはこちらから。

今日はここに行ってきた。

神保町さくらみちフェスティバル春の古本まつりである。今日は祝日だが朝早起きして散歩も兼ねて参戦してきた。僕の記録をご覧いただいている稀有な方はもう何度目かもしれないが、僕は勤務地が神保町である。わざわざ祝日にまで神保町に居なくても明日から参戦すればいい訳なのだが、しかし古本まつりとなっては別の話だ。古本集まるところには何が何でも行きたいところである。


実際に行ってみると九段下方面から小川町方面に向かってワゴンがズラッと並ぶ。しかし、普段の神保町古本まつりと比べると規模感は正直大きくはなかった。それは神保町駅降りてすぐの広場にはイベントスペースも設置されておらず、古本も並んでいないこと、またすずらん通りに出店されていないということを考えるとそこまで大きな古本祭りではなかった。

祝日ということもあって、やはり大盛況していた。今回は1人で参戦した。話せる相手がいないと寂しいなと思いつつも、悠長に見て回れるほどの場所ではないので仕方がないかと諦めもつく。ここが古本巡りがスポーツである所以の大きな1つである。

神保町古本まつりを1度でも訪れたことのある人ならば分かるだろうが、あのギュウギュウさは尋常ではない。「時間あるからゆっくり見て回ろうね」なんてそんな生易しいものでは決してない。ある意味で審美眼?っていうのかなそういったものがないと苦しい。人と人がぶつかり合いながら本棚を見て回る。人が多く群がっている所では見ることを諦めるという選択肢も時には必要になる。これは1回経験しただけでは難しい。

普段から本に目が肥えていないとこういうイベントは難しい。例えば所沢古本祭りのような場合などは会場自体がゆったりしているので初心者にはうってつけであるが、狭い所で人が密集している所で本を素早く嘗め回すように見る為にはそれなりの鍛錬が必要である訳だ。あと1番は「人を気にしない」ということがここでは肝心になって来る。

この「人を気にしない」というのは、普段ならば良くないことであるので推奨はしないが、とにかく「俺が!俺が!」というスタンスでガツガツ本棚に近づくという姿勢である。そうでもしなければ自分自身が欲しい本すら見付けられないのだから仕方がない。人間性をかなぐり捨てて本を見て回るのである。意外とこれは大切である。相手にどう見られようがとにかく古本に集中するのである。

例えばだ、ワゴンの前に人が群がっている。本を見たいが易々とワゴンに近づくことは困難である。しかし、離れてぐずぐずしている間に多くの人は流れるようにしてやって来る。結局そのワゴンが見られなかったら元も子もない。ではどうするか。簡単な話だ。

ワゴンを見ている人と人の隙間に上手く入ることだ。いやいや、何を当たり前なと思われるかもしれないがこれが実は至難の業である。自身の道徳心との闘いだからである。そこで「急に割り込んだら迷惑だよな」とか「ここで入ったら見ている人の邪魔になるよな」ということを考えていたら結局見れないで終わる。その道徳心を殴り捨てて間にズカズカ入っていくのだ。そうしてドーンとそこに屹立する。これが肝心である。神保町で古本を見て回るには人間性を一部捨てる必要がある。

間に入ってみたは良いものの、先が詰まっていて見れない。こんなに人が沢山居るのに、本の上に自身の手に取った本を広げて悠長に立ち読みしている大馬鹿野郎どもも居る。それを押しのけて先へと進まねばならない。ここでももたもたしていたら面倒なことになる。だから僕はちょっとした小手先のテクニック(という大層なものではないが)でどかしている。いや、というよりも至極迷惑な事をしてどかす。

それはその広げた本の下に置かれている本あるいはその周辺の本を手に取るということである。ちなみに断っておくが、普段ならこんなことはしない。というかしてはいけない事なんだが…。しかし、こっちも我慢がならないのだ。読むぐらいならさっさと買って別の場所で読めば良いのにといつも感じている。大概そうすると相手に睨まれながらも先に進むことが可能になる。しかし、冷静になってこんな混み混みの状況でそれを悠長にやっている方が他の人に大迷惑な訳だ。これぐらいは許してほしいものだ。それに読むならささっと買え、馬鹿が。


古本まつりやそういうイベントには大概そういう馬鹿みたいな奴がいる。混雑していない場合なら問題ないが、混雑していて他の人も見たくて困っている所でそれを堂々とやる馬鹿も居るから気を付けた方がいい。古本巡りはそういうマナーの悪い輩との闘いでもある。

そういう訳で僕はそんな奴らと闘いながら本を見て回る。

しかし、何と言うかどうもピンと来る作品が今日はあまりなかった。せいぜいジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』ぐらいだった。これは値段とかどうでもよく購入した。以前からずっと読みたかった本だったので買うことが出来て幸せだった。

ちなみにだが、2024年の5月に新しく単行本で『フィネガンズ・ウェイク』が読めるようになるらしいので、ご興味があればそれを購入してもらうといいだろう。まあ、『フィネガンズ・ウェイク』はそもそも日本語に完訳されること自体が素晴らしすぎることなのだが、それぐらい難しい書物であることは言うまでもない。久々に興奮する読書が出来そうである。

しかし、序盤も序盤で『フィネガンズ・ウェイク』に出会ってしまったものだから、正直あとは消化試合見たいなものだ。完全に「ああ…人多いから明日また見に行こう」という気持ちにシフトチェンジしていた。今日はリュックで来ていたが、明日からは財布だけ持ってほぼ手ぶらで見て回れるのだから、断然そっちの方が楽だ。その代り1時間という制限時間付きではあるのだが…。

明日に備えて今度は「どこのワゴンを見るか」ということに的を絞って回ることにした。これも古本まつり、ひいては古本屋を巡る時にも重要になって来る。それは古本屋ごとに特徴があるのでそれを捉えることが重要であるということである。これも言ってしまえば普段からどれぐらいその地域の古本屋を回っているかにもよる訳だが、1度そのワゴンの商品を見れば何となくだが予想はつく。詰まるところ「どれだけ読書をしているか」「どれだけ文化に造詣が深いか」が試される。これこそ審美眼?の重要性が確かめられる。

例えば、ワゴンをパッと見た時に大型本がかなり置いてある場合、これは図録や画集が多い。そう考えると置いてある活字の本つまり単行本もそれに関連した本が並ぶ予想がつく。しかし、画集や図録といえども、そもそも「絵」というものにも種類がある。例えば絵本も言ってしまえば画集の部類に入れてもいいかもしれない、あるいは実際に昔の絵、浮世絵とかそういった物もあるはずだ。ということを遠目で見ながら予想するのである。

あるいはこうだ。まずワゴンを遠目で見て、文庫が多いか単行本が多いかを判断する。文庫本が並んでいる場合には人が大抵集まるので除外。これは普段の古本屋で事足りる。それにあの背表紙から見るにハヤカワミステリーとかSF系が多いからここは行かなくていいやとか。岩波文庫が多いけど、カバーがしっかり残っている状態が多いから僕が求めているような作品は恐らくないし、大概岩波文庫はどこの古本屋にも置いてあるので、それをわざわざ並べているワゴンには行かない。などというようにワゴンから遠く離れたところで判断する。こういう瞬時の判断力も必要になって来る。

しかしだ。そういう判断が全て正しいかと言われると実際の所そうでもないのが現状だ。例えば、あそこは単行本が置いてある。古めのしかも箱に入った本が数多く並んでいる。あそこには僕の興味のある近代文学周辺があるに違いないと思って言ってみると所謂政治系や国史系の本ばかりで失敗したなと思うことだってある。あるいは、行ってみたら自己啓発本やビジネス本でミチミチになっているワゴンもある訳だ。ここが難しくまた古本巡りの面白いところでもある。

実は意外と古本巡りにも頭を使うのである。


そんなこんなで、何とか最終地点まで辿り着いた。およそ2時間ほど休まずに本を見て回った。所沢古本祭りはもっとゆったり見れたが、今回の古本まつりはどうもせわしない。仕方がないと言えば仕方がないのだが、貴重な本が買えるのであればそこは我慢である。忍耐強さも必要になって来る訳だ。

DAY 1 戦利品

とりあえず明日の準備はし終えたので、再び引き返し、毎日通っている古本屋に突入しタバコ休憩。2階から街行く人々を眺める。それにしても歩いたなと思った途端、肩の力が抜けてふにゃふにゃとなってしまった。丁寧に煙を肺に入れて口から噴き出す。

個人的に面白いなと思ったのは、若者層が多かったことにある。大概、こういう古本関係のイベントだと若者よりも高齢者層がやたら多い。結局本なんて爺さん婆さんぐらいにしか読まれないんだなと思っていたが今日はやたらと若者が眼に付く。まあ、近くに専修大学や明治大学が近いからその学生さんかなとも思ってみたりもする。だがこれも面白いことに若者は小説やら哲学というよりもサブカル方面、つまりは映画関係の所に集中していた印象がある。というか事実そうだった。

僕はいつもこの現象が面白いなと思う訳だ。若者は映画に流れて、年寄りなどは小説や哲学関係に多い。映画の本というよりも当時のパンフレットやポスターに集中していると言った感じだ。別に何も否定したいとか言う気持ちは更々ない。むしろそれで古本に興味を持って貰えるのであればそれは結構なことだ。しかし、同時に僕は哀しさも感じる訳ね。小説や哲学が至上だなんて全く以て決して思わないけれども、それ無しで映画を語れるの、考えられるの?とは思う訳だ。

だから僕は最近「サブカル」っていう言葉が嫌いでね。

何が「サブ」だ。って実は思っている。結局のところ僕等の生活を支えているのは文化であり、文化に「サブ」もへったくれもない訳だ。それに甘んじちゃっている気がするんだ、今の若者って。僕も勿論だけれども(って書いといて僕もまだ若者として見られたいんだなきっと)。だから小説や哲学、もっと広げる?批評、詩、エッセーなどは「サブカル」ではないから読まない、触れないみたいな感じがするんだ。

だが、これは当然に逆も然りである。

小説や哲学をやっている身からすると、「映画?なんそれ」みたいな感じなのかもしれない。僕は有難いことに友人に恵まれそちらの知見も色々と教えて貰っているから果敢に挑戦できている訳だけれども。だから先日の記録でも書いたけど「流動性」っていうのは大切だと思うんだ。「サブカル」という固定的な名前を与えられてしまっているからこそ、その面でしかものごとを見れない。そして逆に小説や哲学というジャンルが過去から現在に至るまでに確固とした固定的な文化の地位を築いてしまったことによって、その面でしか捉えられないのである。

古本まつりにいつも行くとそういう自分の惨めさというか、思考の狭さに気付かされ途方に暮れてしまう。流動性を持つ事は何事に於いても大切なんだよなと思いながらタバコを蒸かす。


タバコを吸い終え、帰路に着く。

九段下駅まで人混みを掻き分けて歩いて行く。本の重さにヘトヘトだ。しかし、これは喜びの重みである。自身が求めていた本に出会えるということ、そして偶然的な本の出会いというのは嬉しいものである。ある意味で古本まつりは巨大な合コンなのかもしれない。

出会いがない僕にはうってつけか。

さて、明日も気合い入れて回るぞ!

よしなに。

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