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雑感記録(242)

【日本語と世界構築】


何だか大仰なタイトルだが、さして大したことは書かない。書きたいことは非常に単純な話で、「日本語による世界構築は出来るか」というタイトルそのままである。少し抽象的なのでもう少し具体的にしていこう。

まず以てこれを書こうと思ったキッカケの動画がある。それについてまずは1度見て頂くと良いかもしれない。

この動画の序盤から中盤に掛けて「言葉」ということについて古館伊知郎と成田悠輔が延々と語るのだが、これが中々刺激的で面白い。やはり別のベクトルからであっても、言葉を突き詰めて来た人間の語る言語論みたいなものは興味深かった。いきなり田村隆一の詩を引用していたのには驚いた。偶然にも僕も過去の記録で引用していたので再度引用してみようか。

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きてたら
 どんなによかったか

 あなたが美しい言葉に復讐されても
 そいつは ぼくとは無関係だ
 きみが静かな意味に血を流したところで
 そいつも無関係だ

 あなたのやさしい眼のなかにある涙
 きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
 ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

田村隆一「帰途」『腐敗性物質』
(講談社文芸文庫 2020年)
P.83,84より引用

詩人にこう書かせることも凄い訳だが、それをさらりと引用できる古館伊知郎もまあ凄いもんだなと。それで、彼らはチョムスキーの生成文法やら様々な言語論的なことを「語る」という場面から話していく訳だ。それでどの場面だったか正確には覚えていないのだが、成田悠輔が川端康成の『雪国』の最初の1,2文を引用して「たった数文字しかないのに、そこには様々な情報が詰まっている。況してや読む人によって喚起される情景は異なる。外国語での訳し方だって1つでは絶対ないだろう。」みたいな話をしていたような気がする。

それで僕はハッとした訳だ。過去の記録でも書いた訳だが、僕は『フィネガンズ・ウェイク』を読み始めていてそこに何というか可能性みたいなものを感じた。そしてそれが吉増剛造の詩にも通底しているということも書いた。詳細については過去の記録を参照されたい。

この記録の中で東浩紀と石田英敬の『新記号論』を引用して、文字というのはごく平板化して言えば自然を真似て作られている。厳密には自然の中に現れる形と文字の形は似ているということである。これを僕は単純に「文字」というのは「自然」そのものであると言っても過言ではないのではないかと思っている。交換しなければならない必然性の中で「文字」を「自然」から拝借して作り上げたということである。

ところで、この引用について元となっている研究は海外の研究であり、当然に海外がベースになっている訳だ。僕はその論について読めていないので実際の所、何も言えないし、そもそもこうして書く権利すらない訳だが…。いずれにしろ、これを日本ベースで考えてみたらどうなるのかなと思った。日本は他の国と比べて少し特殊な感がある。単純に「漢字」「平仮名」「片仮名」と3種類の文字列を利用している訳だ。英語などはアルファベット26文字のみで構成されている訳だ。

しかし、日本語とりわけ「漢字」というのはたった1文字で様々な意味を孕んでしまっている。例えばだけれどもアルファベットの「d」と漢字で「出」だと文字数では1で変化なし。しかし、「d」単体だとそれが何を意味しているかは不明である。単純な記号である。だが「出」についてはこの1文字だけで例えば「生まれる」とか「外へ行く」とか「現れる」とか様々な意味を想像することが可能になる。こういったことを考慮すると日本語はもしかしたら別で考える必要があるのかもしれない。

そんなことを色々と考えてしまった。それでこうして書き始めた。


先にも書いた通り、僕は「文字」と言うものが「自然」を真似して作られた、ある意味で人間が作り出した人工的な「自然」であるならば、それは世界を構成する1つの要素として成り立つと僕は考えている。これは僕が考えている「文学とは何か?」という問題の1つの足掛かりになると思っている。つまり「言葉で何かを書く、表現する」ということは畢竟するに「世界を構築する営み」であるということである。それでこの「世界」というのは何も包括的な領域を示す「世界」という訳ではない。個別な言わば「小世界」であると思ってもらえればよい。

ちなみに、この世界の捉え方に関してはマルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』を参考にさせてもらった。と言っても、まだ序章しか読んでいない訳で、これから実際の詳細に入っていく訳だが、序章の段階から面白い。ぜひ興味があれば読んでみて欲しいものである。

いずれにしろ、話は若干飛んでしまうが「文学とは何か?」という問いに対し1つの要素として、文字は人工的な自然であり、何か言葉で表現するというのはそれによる小世界の創出であるということは言えるのではないのかなと思う。多分だけれども。もっと他に考えるべきことは必要で、書くという制度や読むという制度、あるいは「文学」が保持する規範とか、考えればキリは無いのだけれども、「言葉による世界創出」って言うのもあるのかなとも思ってみたりする。

さて、話を戻して。それで日本語でじゃあ考えた時に、そもそも日本語って本当に自然の形を模して造られた文字なのかとも思う訳だ。これは先の繰り返しになる訳だが、日本語は「漢字」「平仮名」「片仮名」の3種類の文字を扱う。そこで単純に僕は疑問に感じたのだが、そもそも「平仮名」あるいは「片仮名」の起源というのは「漢字」ではなかったか?と。

これは余りにも安直な例だけれども、例えば『万葉集』。『万葉集』って所謂「万葉仮名」というもので書かれている訳だけれども、あれは「漢字」そのものに変更が加えられているというよりも、「音」としての要素が強い訳で、実際「漢字」はただ「音」を基準に選定されたに過ぎないのではないかと、素人考えで想像する。

僕は実際大学の頃に『万葉集』の授業は取っていた訳だ。その時に「梅の花」という歌で論じようと思ったのだ。それで「漢字」で調べてみると様々な表記があることが分かった。でもどれも結局は「梅」なんだ。植物そのものに変化はない。と確かこんなような感じだった。しかし、これって冷静に考えて僕ら後続の人間が勝手に考察したある種の恣意的な思考に過ぎない。もしかしたら、これを記録している人は何となくこの「漢字」を当て嵌めていただけかもしれない。それは僕らの想像の域を出ず、ありとあらゆる可能性が考えられる。

だからこの時代というか、原始日本の場合は意味としての「漢字」ではなくて音としての「漢字」を求めてたのかもしれないなと、再びの素人考え!和歌も書くよりも詠む、詠じることが先行してた訳でしょう。そう考えると純粋に文字として日本に流入してきた。しかし、「漢字」も元々は中国から輸入してきた文字である。それに「漢字」の場合は象形文字とか会意文字とか指示文字とか形成文字とか、そういった成り立ちが列記としてある訳で、自然がベースとなっている訳だ。

では、「平仮名」や「片仮名」はどうなるだろうか。これは余りにも暴論になるから、そうだな「馬鹿言ってら」ぐらいに受け止めて欲しいのだけれども、「漢字」が自然を模して生まれた。そして日本人は「漢字」を模して「平仮名」や「片仮名」を作った。元を辿って行けば「平仮名」や「片仮名」だって自然を模した文字であるということである。かなり暴論だが。特に日本に於ける、崩し字というのはこれを考えるときの手掛かりになるような…ならないような…。多分。確証はない。

崩し字というのは、謂わば「漢字」と「平仮名」のちょうど中間地点にある文字である。実際に見て貰えると分かるだろう。

変体仮名

厳密には「変体仮名」というのだが、僕も大学時代に独学で「変体仮名」を学んだ。しかし、1人で学ぶのは中々腰が折れる作業である。まあ、そんな話は置いておくとして…。いずれにしろこれらの「平仮名」と「漢字」が組み合わさって文章を織り成す。よく博物館で見る掛軸に書かれているふにゃふにゃしたあの線がこれである。これらを繋げて書かれた文章になる。

そう考えてみると、この文字つまり「漢字」と「平仮名」あるいは「変体仮名」になる訳だが、どことなく曲線というか、下手したらアポリネールの『ミラボー橋』みたいに文字で山水画が描けそうなそんな気配がするし、恐らくだけれどもこの感覚が大事なんだなと思った。曲線が多くてうねうねしているけど、でもその中に止めや払いなどがしっかり織り込まれていて、何だか自然そのものを文字で描けるようなそんな印象すらある。

それで、この書体という問題について考えてみた時、「そういえば…英語も筆記体で書くよな。」とふと考えてしまった。あの筆記体だって、芸能人のサインとかを思い出してみると分かりやすいかもしれないけれども、結構曲線とか直線とかを駆使して半ば文字で絵を描くみたいに書かれることがある。文字で絵を描くというような。文字というものはそもそも自然であるのだから、当然っちゃ当然のことなのかもしれない。しかし、こういった際に「文字で小世界を構築する」1つの手立てとしての表記方法、つまり日本語で言えば「平仮名」(あるいは「変体仮名」)、「片仮名」、アルファベッドで言えば「筆記体」という手法もあるということだ。


それで話は最初のタイトルに戻って、「日本語で世界構築」するという所に戻ってくる。先程から延々と書いているように、文字も1つの自然である。そう考えると小世界(これは自己の世界で良い訳だが、基本的に生きている我々の世界げベースとなるはずだ)が構築は可能であるはずだ。それはどの言語に於いても、英語でもフランス語でもドイツ語でも、そして日本語でも。

だが、問題として「どこまでの広がりを持った、奥行きのある小世界を創出できるか」ということを考えた場合、これは圧倒的に日本語の方に優位性があるような気がしてならない。日本語は3文字使う。だが、大抵使われるのはそのうちの2文字で殆どが「漢字」と「平仮名」である。ところが、先にも少し書いたが「漢字」は1文字それ単体であらゆる意味を包含する。加えて送り仮名があっても「漢字」単体で意味が推察できることもある訳だ。1つの「漢字」から様々な方向に対して放射線状に広げていくことが可能である。

吉増剛造の詩を読むとそれが良く分かるのではないかなと思う。特に最近の詩集なんかはそれを体現している。例えば漢字で「向日葵」と書いてあったら横にフリガナで「さんフラワー」と書いてあるようなもんだ。これもどう言葉で説明したらいいのか分からないのでぜひ読んで欲しいのだが…。『表紙-Omote-gami』と『怪物君』は読んで貰うと分かるかもしれないな。

つまり、日本語で書くということはあらゆる自然を多分に孕んでいることになる。世界を構築する要素を他の言語に比べて圧倒的に量が多いのである。僕が『フィネガンズ・ウェイク』や吉増剛造の詩を読んで「意味が分からないけど、何か面白い」と感じられたのは正しくこれだったのではないかと思う。文字による世界の創出。言葉の意味とかそういったものを超越した、無機質なだけれども広がりを持った世界が展開されているからだと感じる訳だ。

それで先程、ちょろっと「崩し字」とか筆記体についての話を書いた。だから僕はやっぱり紙で書くことって重要なんだなと改めて感じる訳だ。そこに描かれる世界は言葉として意味を持っているかもしれない。しかし、文字として見た時にも、その文字だけで世界が構築されているとも言えるのかもしれない。……ちょっと、自分で書いていて何書いてるか分かんなくなっちゃったんだけど。

うーんと…。昔からというか明治期から活版印刷というか技術が向上してきて、皆本を読む時は綺麗なゴシック体な訳だ。本を読む人間からすれば当たり前のことなんだけれども、でもやはり「世界構築」という点で言えば実際書く方も読む方も手書きの方が良いんじゃないかなとも思ってみたりする。まあ、こんなことは唯の後付けの考えにしか過ぎないから、大した話では決してないのだけれども…。こうしてパソコンに打ち込んで、読んで貰ったり書いてもらうのも良いかもしれないけれども、1回紙媒体を挟んでみても良いかもしれないよね。


さてさて、段々と話が間延びしてきているのでこの辺りで終わりにしよう。

今日は意外と真面目に書きました。

よしなに。

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