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闘病記その14-3

(*'▽')わが家に舞い降りた女神様(*^^*)
【結婚式の巻】

おめでたいお話を3つ立て続けに、お届けしております。
本当はこの間に、一大決心をした手術を受けに入院していますが、それは後で書くことにします。思い出しただけでも辛くなりそうなので。
2022年10月に祐貴のお嫁ちゃんの瑶子さんを披露して、2023年4月23日の結婚式までは随分先だと思っていました。
私は、その間に11/30に、咽頭気管分離術を受けて、12/28に退院という、人生最大の修羅場をくぐりぬけておりました。
何とか年内に退院することができ、お正月は瑶子さんに初めて原田家のお雑煮を作ってもらい、新年を迎えることが出来ました。そして、3/18には、主人の退官記念のコンサートと最後の講演もありました。私からの感謝の言葉(作詞)を女優の紺野美沙子さんに朗読していただきビデオレターで披露してもらいました。
おっとその前に3/9にシンガーソングライターの浜田真理子さんに私の作った詩に曲を付けて貰ったりサプライズの連続でした。

我が家のお雑煮は主人の実家のを伝承しています。白みそ仕立てで、具材は鶏肉、大根,人参で最後に針のさきほどの柚子を香りづけに散らします。私が新妻だった時、主人の実家に三兄弟の家族が集まると12人分を作るのが長男の嫁の仕事で給食のおばちゃん状態でした。分量が皆目見当がつかず、最初のうちは、多すぎたり、少なすぎたりして、美穂子さんいったい何人で食べるつもりなの?と笑って許してもらったものですわ。

4月には、選挙もありました。私は応援演説は、声が出せないからできませんが、リーフレットに推薦状を書かせてもらったりして、文章やSNSで応援した女性が見事に当選されて嬉しかったです。
こうやって振り返ってみるとあっという間に四月の挙式を迎えたのもうなづけます。

さて駆け足で当日の朝にズームイン(笑)
私はとにかく用意に時間がかかるし、出かけるぎりぎりまで吸引チューブをくわえているので、調子よくさっと出かけられるのはめったにないです。
それでも今日は遅れるわけにはいきません。集合写真を最初に撮るので、間に合わなかったら、よく学校の集合写真で、右上の小窓に欠席した子の顔写真がはいっていたのですが、あんなふうにされたらえらいこっちゃと少し緊張して朝を迎えました。なんと5時起きですよ。新婦でもないのに。
そして無事に会場に余裕をもって到着。
控室では、久しぶりに会う妹たち姪っ子、甥っ子のお嫁さんには初めてお会いしました。まだお式も始まってないのに、再会だけで感極まりそうでした。
そして親族のみの集合写真。式場の係の人に、目をつぶってて、いいですよーと言ったら開けてください、といわれる。撮る前に主役の二人の登場を目をつぶって待つようにとのこと。そんなことできるか、と一人だけ言うことを聞かずに目を開けてたら、ホーラごらん、言うこと聞かんから、二人の姿がちらっと見えただけでもう泣いた。反則するからだわ。皆さん目をお開けください、といわれて開けてみてびっくり。なんでもう号泣してる人がいるの?とびっくりされましたわ。(笑)呆れられました。

そして式。言わずもがな、ですよね、わかったことですよね。ほとんどなにも見ておりません(笑)耳だけ参加しておりました。

唯一式の中で、カーテンが全て上がっていき、まぶしくて目を開けたら、何とそこに宍道湖のきらきらした水面が目に飛び込んできて、それは圧巻でした。人前結婚式なので、サインを両方のお父さんがして無事に夫婦となりました。

式が無事に終わって、涙洪水警報もしばし中断できると安堵したのもつかの間、さらに大きな感動が押し寄せてくるとは。聞いてないよー😭
いきなり、瑶子さんがご両親に当てた感謝の気持ちを綴ったお手紙を読みだした。最後には私たちの方を見て、原田家の一員として迎えてくださってありがとうと。(いかんいかん、ダムの崩壊が始まりだした。)
次は祐貴の番。「父さん、母さん、ここまで育ててくれて本当にありがとう。あらためて二人に感謝の言葉をいわせて下さい。」で始まる便せん5枚にびっしり書いてある言葉。一部抜粋してみていただきます。
「父さんへ  産婦人科という仕事上、自分の子供より人の子供のことを第一に考えるような状況でなかなか休めないことが多い中でも僕の面倒を見てくれたおかげで医療職に悪い印象は持たずに自分も歯科という道を決断できたように思います。振り返ると、僕の中では原田院の裏の駐車場で
キャッチボールをしてもらったことを1番に思い出します。
そう考えると当時は何気ない親子のキャッチボールが今になると
とでも印象深い思い出になるんだなぁと勝手に感動しています。
でも、本当にそうやって疲れてた時でも付き合ってくれていたおかげです。まさか病院長、そして大学理事にまでなるとは思っていませんでしたが
そうやって走り続けているおかげで僕も分野は違えど医療の道に飛び込んでいけたんだと思います。本当にありがとう。」
「母さんへ 僕らは多分外から見たらマザコンと過保護なミーハーお母さんだったと思います。ただ、それだけの思いを持って育ててくれたということは明らかでかけがえのないものだと思います。現在そこまで自己肯定感が高いとは言いませんが低すぎず卑屈になりすぎず生きて来れているのは母さんの「ゆうきは大丈夫だわね」という精神・姿勢が力を与えてくれていたと感じています。バイタリティ豊富でPTA会長だったり、原田医院を残そうと奮闘したり、商工会議所の女性会会長になったりと本当に何でも屋みたいなことをしていて子供ながらに「どんだけ体力あるんだよ」とちょっと引きました。嘘です。感心しました。
ALSになったと分かった時、現実味もなく信じきれない。
心のどこかで父さんの伝手でなんか高名な先生が治してくれるわ、と楽観視していました。そう思わないと不安でどうかなりそうだったからです。ただ、息子の僕でそうだったので母さんは計り知れない不安・恐怖と絶望感だったと思います。
ただ、母さんが何度も泣いて「死にたくない」と言われた時に僕は受け止めてあげないとダメだと強く思いました。泣きたいなら泣ききってもらう、思っていることがあるならマイナスの感情でも吐き出しきってもらう、そういうことができるのは唯一家族の前だけだからと思ったからです。それが母さんの心の助けになったかどうかは分かりませんが、僕らは泣きながらでも
弱音を吐きながらでも"大丈夫”と前を向いて立ち向かわないといけないとその時感じました。
それでもやっぱり母さんは強くて周りの人達を巻き込みながら、協力してもらいながら闘病記を書いたり、父親へのラブレターみたいな詩を作って有名人に歌を作ってもらったり、朗読してもらったりしてまた前みたいに走り出しています。本当にただ素直にすごいと思います。今は車椅子で現実にはもう走ったりはできないけれど、僕にとってはやっぱりずっと前を走り続けている、引っ張り続けてくれている最高で最強の母親です。ありがとう」
「2人の子どもとして生まれてきたことは僕の誇りの1つです。そしてこれからはそんな2人の誇りになれるよう、また2人のような、2人を超えるような
幸せな夫婦になれるよう瑶子さんと頑張っていきます。
これからも一緒に全員で走っていきましょう。」
こうやって読み返しながら打ち込んでいても、思い出して熱いものがこみ上げてきます。抜粋のつもりがほとんど書いてしまいました。(父さんへ、は大幅にカットさせていただきましたが、m(__)m)
そして二人からそれぞれの両親へ生まれたときの体重と同じ重さのお米(生誕米)を頂く。 

そして泣きつかれてからの披露宴、私にとっては、疲労宴(笑)最後まで見届けることができるのか心配でしたが、何と1:30に終わる予定が2:30と終わってみればすごい延長してました。よく頑張ったでしょ。

一気に書いてやっと挙式の部が終わりふーッと息をつく。なんと見てみたら、既に3000文字超えちゃってますがン(≧▽≦)。
どうしよう?もう一つ章を増やそうかな。
ってことで、披露宴の感動は、また来週👋、ってテレビドラマじゃないんだから(笑)
とにかくつづくったらつづく

絵になる二人(親バカですいません。)



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