私という人間  

はじめてこんにちは。
note始めました。

奇跡的に私のnoteにたどり着いてくれた方にまずは、私という人間を知ってもらいましょうね。

注意!!めちゃくちゃ長いです。

誕生

今から約40年前大阪府の藤井寺市と言う土地で誕生しました。姉が一人います。

両親の事

父親はダンボールを運ぶトラックドライバーでした。
ホンマに良く働く人でした。(過去形ですが生きています)稼ぎも良かったです。そんな父親はお酒とタバコ、パチンコ、女遊び全てする人で、当時現金支給だったお給料のほとんどを自分で使う人でした。(毎月お金を数えさせられていたので記憶にありますが、毎月100万はありました。)だから貧乏でした。

そんな父は1週間程でお給料を使い切りお金がなくなると母にお金を出せと暴力を振るう人でした。
一方母親はDVをされても何故が離婚せずお金を工面していました。

未だに母親の口癖は「どこにもつれて行ってもらった記憶もないし、美味しい物食べさせて貰った記憶もない。何にもプレゼントして貰った事がない」です。
母親は私に、「これからは女性が活躍する時代になるから、自立した人生をおくれるように手に職をつけなさい。女一人で生きていけるように」とおしえました。

そんな父、母に育てらた私は人の顔色、精神状態を見る事、お金の計算が得意になりました。そして、人の良いところを見つける事にも長けていると思います。人を嫌いになる事がまずないです。
夫いわく空気読む天才だそうです。

話が少しずれてしまいました。戻しましょ!

小学生の頃

一緒に遊びたいと思えるような友達に出会えず、毎日一人で河川敷に行って遊んでいました。草花を観察したり虫を捕まえたり、それと寝転がって流る雲を見るのが好きでした。

とにかく誰かといると顔色伺ってしまって疲れちゃうんですよね。

中学生

中学に入りスラムダンクに強く影響を受けた私はバスケットボール部に入りました。
でも、運動神経ないし、実は小児喘息持ちで体力もなかった…。校庭一周走るにも辛かった。
「あんたは特別出来る子じゃない。人より何倍も努力しないと特別になれない」という母親の教えもあって、
誰よりも練習して、雑用して、声出して。
ヘッタクソな私が一年生でたった一人のレギュラーを勝ちとった。技術は中の下。私より上手い子の方が多くて、私がレギュラー発表された時の同級生の表情が印象的だった。そのままバスケットにのめり込み勉強を一切しなくなり成績もガタ落ち。。。父親に部活を辞めなさいと言われるはめに。。。
それでも辞めるわけなく、続け三年生では部長に推薦され、引き受ける事に。

これにも一悶着あり、部長選出は三年生全員の投票により1番投票数の多い人がなると言うルールで、事前のみんなの様子だと実力の中の下だった私に投票するなんて話どころかある一人の子に投票が集中していた。
なのに、投票後顧問の先生に全員一致でお前の名前やったからお前が部長だと。

いや、いや、いや、おかしいやん。

何度断ってもわかってもらえなかった。と言うか先生が譲らなかった。そんなわけで部長になったけど、顔色ばっかり気にしてしまう私に務まるわけなく、しんどい部長経験だった。

高校進学

中学で全く勉強しなかった私は成績も中の下だったから、高校は普通科に行かせない。普通科にいってもその先の進学先にも就職先にも困る。商業高校に入りなさいと母親にいわれ素直に商業高校に。

同じ中学から同じ高校へ進学した子が居なかったのが私にとって凄くプラスだったんだと思う。一からの友達作り。
自分の気の合う友達に出会い、三年間よく遊びよくバイトした。何個も掛け持ちして父親譲りね仕事っぷり。
相変わらず勉強は出来なかった。でも簿記の勉強だけは楽しくて、当時就職する子が多い中卒業後は専門学校へ進学税理士を目指すことに。父親には進学させるお金がないから就職してくれと言われたけど、母親が説得してくれた。

専門学校

勉強に集中してすごしましたが、飲み込みが遅く挫折。税理士目指さず、卒業後は一般企業に就職しようと就職に有利なコースに変更。

その頃、姉が看護師の国家資格受験の為戸籍抄本を取りにいって、戸籍がないと。大騒ぎに。

まさかの無戸籍児だった

姉も私も出生届が出されておらず戸籍がない事、おまけに両親が入籍していなかった事が発覚。

父親はさっぱり訳がわからないといった様子で母親を問い詰めると、失踪してしまった。。。

どうやってこれまで学校に行けてたのか、とか沢山疑問も、ショックもあるけど、とにかく受験の為に戸籍を作らないと!と親戚に議員さんを紹介してもらいもろもろの手続きをして頂いた。

そして、それまで沢山のところに申請していた私の誕生日が母子手帳と1日ずれていた事にも気がつく。
戸籍ができると姉は家を出て行き、私と父親だけになった。母親が居なくなった事で、沢山の人や消費者金融に、借金がある事も発覚し、電気やガス、水も止まってしまった。

父親はこれまで何もしてこなかったので何も分からない。ここで初めて家計やばさをしる。

一か月程で私に母親から会いたいと連絡があり天王寺で会う事に。

疲れきった表情をしていた。なんでこんな事になってるのか聞くと、父親の戸籍抄本を姑に取り寄せて欲しいと頼んだけどしてくれなかった。だから籍を入れる事ができなくて、出生届を出せなかった。といまいち理解しがたい事を説明された。

前から両親の生き方に、不信感が、あった私はますます、両親から生まれた事を憎んだ。

それでも一人で生きて生きたいと言う母親をどうにか説得し、一緒に家に連れて帰る事に。

そんなこんながあり、自立を強く願った私は就活で、とにかく早く内定がもらえるように特に会社情報を気にしないで、唯一こだわったのは女性が出世出来るかどうか。
ありがたい事に早々に内定をもらう事が出来た。

自分が内定をもらった企業が大企業だと知ったのは入社研修だった。(遅すぎ)

新しい世界

大企業ならではの話で、周りは一流大学を出ているか、お嬢様学校を出ている人ばかりで、異世界に居るみたいで刺激的だったのを覚えている。
退職時に人事の方に聞いたはなし、学歴の無い私が内定をもらえたのは女性が出世出来るのか聞いたからだそうだ。この子はきちんと仕事をして長く勤めてくれると、採用担当の人が受け止めてくれて一般職採用の中で一位通過だったと、採用評価表をこっそりみせてくれた。

当時まだ、制度だけで実績がほとんどなかった産休、育休を2回も取らせて貰ってほんとに良くしていただいたと思う。

結局12年勤めて辞めてしまったけれど人間関係にめぐまれた環境だった。

それから育児と主人の仕事のフォローをしながら2年がたって、気がついた。
家にずっといてるの向いてない。誰かに指示してめらわんと手抜きばっかりになってダラダラしちゃう。

当時、主人の事業も上手くいってなかったのもあって、またフルタイムで働く事に。

今度は、居酒屋を何十店舗か運営している本社で事務員をする事にした。なんとなく大企業じゃなく小さめの会社で働いてみたかった。
きっと大手の事務員よりずっと色んな事やらせてもらえると思ったから。
他に会社選びで譲れなかったのは、絶対定時で帰れる。自転車通勤範囲。これだけ。

こだわったのはこれだけやけど、今のところ居心地よく働かせて貰っています。


めちゃくちゃ長い文章にお付き合い頂きありがとうございました。
こんな感じて子供の頃は大変な事もありましたが、人生の底は既に経験済みなので、大抵の事は苦労と感じません。

人生に沢山の光りを感じれるように日々笑って暮らしたいですね!





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