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メンターやロールモデルに近づいて幻滅することに隠れている本質とは?


はじめに

書籍「Life Shift」に関して、私流の「多様な人的ネットワークの作り方」についての記事を書きました。

その中で4つのステップを紹介しましたが、これは言い換えると「特定の誰かとの人間関係を築いていく・深めていくこと」でもあります。
 
中にはその相手が「ロールモデル、メンターにしたい」と思う人もいるでしょう。
 
今回は、そういう方たちとのRelation(関係性)に関する内容です。これを知っているかどうかで「感じ方」や「選択」が変わると思います。

メンターやロールモデルに近づいて幻滅することの本質

人間だもの、近づけば近づくほどその人の陰が見えることになります。
 
でも、その正体は・・・
 
メンターや素晴らしいと感じる人であっても、
人間だから、陽だけじゃなくて陰もあります。
 
だから、
最初は憧れの気持ちを抱いて近づいていっても、
 
ある一定の距離のボーダーを超えると
「あれ?」っと気になることが出てきます。
 
これは人間関係における陰との出会いです。
 
このギャップに落胆して勝手に判断して
踵を返すように去っていく人は少なくないのではないでしょうか。
 
残念です。
 
真価が問われるのは
ここからなのに。
 
その人に対してネガティブな感情が湧いた時に
その感情の原因を相手に求めてしまうと実は道に迷います。

 
一方で
その感情の出どころである自分自身を観察していくと
 
実はそれは
相手に問題があるのではなく
 
自分の中に
それを陰だとする観点がある
ことに
気がつくことができるのです。
 
つまり、
去っていった人は
メンターの陰を見て去っていったのではなく
 
メンターに映し出された
自分の陰から去っていった
のです。
 
実はこのときが自らの陰と向き合うベストなタイミングなのですが、
そこから去っていくと変化は何もありませんよね。
 
ということは、
その人はまた別の誰かと
同じテーマに取り組むことになります。
 
(もちろん、そのときに取り組まなかったことも
完璧な流れとも言えるけれど。)
 
もし、陰が見えたとしても、
そのまま「よく聴いて」「よく感じて」
その気持ちの出どころを掘り下げてみる。
 
そして
その先に「自分の無意識のこだわりや思い込み」と、
「それらの枠の外にも世界がある、視点がある」
気がつけたとき。
 
相手への感じ方が変わります。
 
言い換えれば、その時点で
その前の自分とは別人のようになるのです。
 
その私として「どうしたいのか?」
そこから関係を捉え直してみる
こと。
 
その上で関わりたいのか、
それとも離れたい(言い換えれば違うことを始めたい)のか。
 
もし、
人間関係において似たパターンを繰り返している気がするとしたら
この一連のステップへの取り組みが抜け落ちているからかもしれません。

すごく近い関係になった人へ感じた怒りから受け取れる2つのギフト

例えば、メンターやロールモデルや半径5mだと思える
関係の人に対して怒りという陰が湧くようになったとき、
 
その怒りの奥には
自分からのメッセージと、
 
同時に
相手への感謝の2つが隠れていると思うのです。
  
しかし、
その怒りを相手のせいにしていると
この2つのギフトを手にすることができません。
 
まず、相手への感謝というのは、
依存させてくれたことへの感謝です。
 
依存とは、
言い換えると自分の器に
自分ではない「何か」を入れている状態
と言えるでしょう。
 
しかし、最初はそれに気がつけないのです。
 
依存していたことに
気がつけるのは怒りが湧いたとき。
 
このときの怒りというのは、
私の本音からの「気づいてくれーー!!」
というコールであり、
 
自分ではない「何か」「誰か」を頼りにするのではなく、
自分自身を頼りにして欲しいというメッセージ。
 
そして、
「それは違う!」という感覚が湧くことによって
 
逆に「こっちなんだ!」という自分らしさが
浮かび上がることに繋がっているのです。
 
だからこそ、
 
そんな私の自立を促す
依存をさせてくれた相手に感謝ということなのです。
 
しかし、
このときに「自分からのメッセージに気づいたからOK」
と一方的に相手と距離を取ることは違うと個人的には思います。
 
確かに、
自身の本音に気がつくことで、
距離を取ることになる関係もあるでしょう。
 
しかしながら、
その気づきを自分だけのものとして
距離を取ることを選ぶこと

 
と、
 
その気づきのプロセスそのものを
相手と分かち合って、
 
感謝を伝えた上で
「私たちとして、どうしていきたい?」を創造し、
結果として距離を置く

という選択肢が現われる

のとでは全く意味合いが変わってきます。
 
自立に見せかけた孤立の道を歩むのか、
私たちという中の私を生きているという
本当の自立の道を歩むのか。
 
  
自分自身からのメッセージに気がつくことは
比較的優しいかもしれませんが、
 
それを分かち合うところは
なかなかハードかもしれません。
 
 
でも、そこに
あなた自身の等身大の人との向き合い力が
現れてくる。
 
本当の愛が試される。

また、
どちらの道を選ぶのかによって
次に出会う人が変わってくる。
 
もし本当にそうだとしたら
どうありたいでしょうか。
 
もっとも、分かち合うことが叶わない相手もいると思います。
 
ですが、そうしたいと思い実際にやってみた結果が
そうだった場合は、そこまでが適切なゴールなんじゃないでしょうか。

 
個人的には踏み込み過ぎてみて失敗して、気づくことでしか、
いい塩梅というか、中庸というか、を掴んでいくことはできないのではないか、と思っています。

さいごに

私は「ご縁ある人とは必ず何か交換するものがある」と思っています。
 
ここで言うご縁とは、
すでに半径5m以内だと感じる距離感にいる人」や「新しくなぜか自然と繋がった人」との関係のことを指します。
 
後者について違う言い方をすれば、
繋がろうと頑張って繋がるものではなく、
手を繋ごうと思っていないのに実は手を繋いでいた。
 
そんなイメージの関係のことです。
 
「私たちの間には何があるんだろう?」
 
関係性についてそんな捉え方をしてみてはいかがでしょうか。
 
また、
もし今実際にそんな関係の誰かがいて
陰を感じることがあったら
 
遠ざかろうとするのではなく、
 
そこに自分を観て
さらに深く自分を理解するキッカケにすることを
オススメしたいです。

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