ターニングポイント

7月も半ばに差し掛かる頃、とても耐え難い、信じられないニュースが日本中を駆け巡った。
そしてその同日、我らが角野隼斗のTwitterもファンとしてはまた心配な報告を伝えた。

もう始まって2年半も経つ疫病への恐怖と閉塞感。テレビのニュースも連日声高に感染者の数を報道し、解決する兆しを伝えない。
終わりの見えない日々に確実に蓄積したストレスが私の体をそして精神を蝕む。

それでも彼のピアノに出会い演奏に癒され、元気付けられ、勿論周りのたくさんの方々にも助けられここまでやってこれた。しかしいつも最後まで思うように前を向かない私の心は遂にこの二つのニュースに悲鳴をあげてしまった。

彼は自身の療養期間中、誕生日を迎えたことのTwitterを写真付きで上げてくれた。
それは味気ないシーリングライトが天井についているだけの寂しげな風景だった。

ああ、多分同じ様な風景を見ていたな…。

幸い2日程の検査入院で済んだ私は自宅でこのTwitterを目にする。
そしてとあるフォロワーさんから始まった、殺風景なTwitterの写真にお絵描きして角野さんを喜ばせよう、に私も参加した。

夏と言えばお祭り、お祭りと言えば…金魚掬い…。シーリングライトを金魚を掬うポイに見立て、小学生が描いたような辿々しい金魚を散らばせた。横にある、多分レールカーテンを吊るしている金具に夜店の水槽を照らす電球を描き足す。

闇夜の黒い水面を怪しく照らす電球の映像が私の脳裏に浮かぶ…。

暫くして彼から復活のtweetの知らせが書き込まれた。更に。
「復活YouTube liveやります(ビックリマーク9つ)」心臓が鳴る。

嬉しい気持ちと同時に得体の知れない不安が起こる。

不安の正体…。

既に様々なジャンルで活躍する事が広く浸透している彼。
その中でも私はやはりクラシックの角野隼斗が1番好きだ。ジャンルを越えられるというところに彼の凄さがあることが解っていながら、やはりクラシックが1番で、そして彼はクラシックを弾いてる時が最高にカッコいいという認識がどうしても私の中にあった。

またこの事も思い出した。
Jazz Auditoriaでの事だ。Jazzを奏でる彼の背中に見入りながら、思ったことがある。
「やっぱりクラシックの時とは弾き方が全然違う…これを彼はこの先も求められるままに弾き分けていくのだろうか…」
やろうと思えばやりきってしまえそうな彼ではあるが…。

一体彼は何処へ向かうのか…。もう既に私にはついていけない所へ行ってしまっているのか。。

そして配信当日。
futureのインタビューをLIVE直前に目にする。(記事へのリンク:
https://future-toyama.jp/article/article-2250/)
これからの学生さんに向けた、一つ一つの話題に頷けるとても素晴らしいインタビューだった。写真がナチュラルな事も手伝って読後感は爽やかなものだった。
そしてこの時まだ私は彼の言葉の真意を掴めていなかった。

しかしこの記事のお陰で、彼の音楽へのファンとしての不安から救われる事になる。

数時間後、LIVEの映像で彼は普通だった。
にこやかに挨拶をし緩やかに鍵盤を叩く。
心なしかやる気が見えない。
いつもの優しい雰囲気にホッとしつつ何だか変な違和感に包まれていると、その内に画面にノイズが走り、画面が切り替わった。

広い空間の暗闇の中に、微かに見える鍵盤ランドが映る。
真っ黒な衣装に身を包んだ彼と、それを照らす吊り下がったひとつのペンダントライト。

冒頭のゆるい雰囲気で始まった演奏を掻き消すように始まった「死の舞踏」。
演奏直前に彼が直接触れて揺らした電球は、まるで柱時計の振り子のように左右に揺れている。

ああやはりそちらへ行ってしまわれるのか。

不安の答えが目の前に示されている気がした。

誤解しないで欲しい。
彼がどんな音楽を奏でようとどんなスタイルでいようと当然彼の自由だと思っている。
彼の選ぶ道に私が願望を差し込む権利はあるわけもない。

しかし、個人的な思いとして、当たって欲しくない方へ当たってしまった気持ちと、やはりまだ体や気力がまだ完全には整って居ないような彼の演奏姿と、それとは逆に尚一層軽快に怪しく美しく鳴り響く旋律がごちゃ混ぜになって私を襲う。
最初から冷静では居られなくてとても苦しかった。

「死の舞踏」の雰囲気を保ちながら、同じフレーズを無機質に繰り返すルーパーが鳴り、内部奏法も用いられアラビアの音色が入る。チック・コリアの「La fiesta」だとチャット欄で知る。まさか、と思った。(私はダメ耳&ダメ脳なのでメロディーの記憶に長けてない。申し訳ない)
ミキサーでアレンジ音も入り、より世界観を際立たせる。

しかしだ。今まで多分彼のレパートリーにこの曲はなかったのではないかと思う。(違っていたら申し訳ない)それをこの日ここまでアレンジして完成させてくる気迫…。。療養中の筈だったのに。。

彼は止まる電球を時折揺らしてまたその世界に自ら深く陥っていく。
いつもよりも繊細に細く映る指が鍵盤を叩き続けた。

彼が口を開く。緊張の瞬間。
「色んな意味を持ってバカデカいスタジオを借りました …あー最初からちょっと飛ばしすぎた…」
私はYouTubeでピアノに嵌まってからというもの、ピアノ奏者のスタミナと集中力に凄まじさというものを感じていたのだが、この日の彼はやはり違った。
当たり前だ。寧ろこの状況でここまで弾ききっている方があり得ない。
角野さんからしたらしてほしくない余計な心配だろうが、これからの彼を思えばやはり無理はして欲しくなかった。

「Toccatina」は唐突に軽やかに駆け抜けていったようなあの動画とは違って、比較するなら地に足が付いたテンポのものだった。
だからこそ途中からのアレンジがより際立ちとてもドラマティックに感じた。
聞き慣れたメロディーに少し落ち着きを取り戻す。
そして「胎動」「追憶」と続く。
「胎動」は先のツアーで披露されたショパンのエチュード10-1をモチーフにしたアレンジ曲だが、私は披露された内でこの曲が1番好きだと思っていた。
ラボや日比谷音でも再び弾かれるようになり、「追憶」と共にショパンへの愛あるオマージュとしてまた角野さん自身の音としてこの曲が奏でられる。
モノクロの映像に動きが定まらないカメラの演出はこの曲に合っていると思った。

そして、さっきから何をそんなに悲観してこのLIVEを見ているのかと言うことだ。

それはたった1年半の彼しか私は知らないが、陰と陽があるとして、本音として彼の陽を見ていたかったのに、いつも感じていた彼のベースに静かに流れている陰の部分。過去にはそれを露にすることもあったようだが、それを全体でイメージさせる今日の演出。。
その陰も勿論彼の大きな魅力の部分でもあるのだけど…。

更に坂本龍一の「千のナイフ」からバッハの「インベンション」が続く。

ミサを思わせるアレンジに身がすくむ。

例えば讃美歌など、勿論その美しさは感じられるが、神聖な音の響きが私には時折怖く感じられ、その背景には長く複雑な歴史の認識があるからこそ簡単には受け入れ難い情感がある。
その一方でクリスマスなどを楽しんでしまう自分はいるものの、だ。

決して彼の今回の表現を否定したいのではない。寧ろ幼い頃からクラシックの世界で生きてきて、さらにヨーロッパの歴史にも馴染み深いであろう彼がこういう演出をするのだ。

そしてクラシックを、芸術の歴史を紐解いていけばいくらでもこの事にぶち当たる事はだんだん解ってきた。
やはり音楽とは芸術とは文化であり、そこには人々が様々なものと戦ってきた歴史が刻まれている。

男性のコーラルのような音が鳴り響き、その音に重ねられた曲はバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」、そして千と千尋の神隠しから「ふたたび」。分かっていても更に気持ちが重たくなった。

「Summer」のメロディーに暫し耳を傾け後はじっと、携帯の画面を見詰めるのみだった。
(そして個人的な事件。きっと近い内に角野さんが弾いて下さるのではと思っていた曲がある。「I Loves you Porgy」だ。ガーシュウィンが作曲したと小曽根さんがコンサート内で紹介して下さった時の予感だった。…覚えきれなかった自分が悔しい。。リアルタイムで、彼のその演奏に感動したかったのに。。)

イントロはアレンジされていたが「英雄ポロネーズ」が始まった。アンテナの8割が塞ぎ込んでいた私の耳にも鬼気迫る英雄ポロネーズが響く。思い起こされるツアーファイナルでの満身創痍の中での演奏。。
しかしあの時よりももっと凄味と成熟度と説得力を増して、彼自身の曲となって新たな感動を生む。
やっぱり角野さんは凄いと思わざるを得なかった。

小さく俯瞰的に映された角野さんが「みなさん元気でお過ごしください」と微笑む。

LIVE配信が終わった。

私は悩んだ。

音楽を楽しむのに、覚悟なんておかしいかもしれない。
自分がもう聴けないと思えば、そこから離れればいいだけかもしれない。

でも、いいと思ったものから簡単に離れられる程、Twitterを始めたり、ファンクラブに入ったり、YouTubeメンバーの有料会員になったり、noteを書いたりしていない。

きっとみんな好きなものの事はわかりたい。

彼の音楽はいつも彼の人生と連動して進化していく。彼そのものが音楽だと言われる所以かもしれない。
SNSという現代の最強ツールで本人を身近に感じながら、こんなに才能に溢れた方が進化していくのを肌で感じる事が出来るなんて本当に貴重な事だ。
しかし、その世界に私はついていけるのだろうか。

沈みがちになる気持ちをこらえ
分からないからこそ何度も配信を聴こうと思った。
「真実は舞台の中にしかない」
私が最近雷を打たれた井上道義マエストロの言葉だ。

次の日。

リアルタイムでは塞がっていた耳に、聞き慣れたメロディーが届く。
「Someone to watche over me」のサビのフレーズ。。。
気持ちが跳ね上がった。
何故かそれまでは角野さんが弾くことが全く想像つかなかった曲だが、弾いてみたら彼にとてもよく似合っていた。
理由ははっきりと言えないけれど「この曲がレパートリーに入ってくるならきっと大丈夫」私はそう確信した。

何だか目の前が開けた気がした。

そして繰り返しLIVE配信を聴いてみた。
演奏スタイルはさておき、彼の奏でる音楽についてちゃんと彼のままだと気付けた。
その楽曲ひとつひとつを大切にし、愛した上で演奏する。
そして冷静になって聴いてみると曲目の流れとしても、地を這うような絶望感から、救われ、希望を持ち、最後は勇気を振り絞って立ち上がるまでのストーリーにも感じられた。

もう一度インタビュー記事を読み直した。

改めて私が内心望んだ道に彼は来ないだろう事を思った。しかしだ。

彼が選んだ「自分にしかできないこと」は、決して今までの全てをなげうって、ゼロから作るものではないということ。

長い歴史の中で培われた智を基礎とし、そこから再構築して自分の感性を表現する、言わば経験と学問無しではやり遂げられない世界なのだと。

私が学んだ「菓子の世界」もそうだ。
何百年も前のルセット(レシピ)を基本とし、その意味や構造を学ぶ。材料ひとつひとつももそうだ。その性質を知らなければよいお菓子は絶対出来ない。
それを知ってアレンジするのと、知らないでアレンジされたもの、やはり知ってるものが見れば分かるのだ。

どんな世界でも「基本」がある。だからこそ「応用」や「アレンジ」が素晴らしいと評価される。
そして本当に小さい頃からクラシックという基礎を学んできた彼が要所要所で演奏するのは「正統派」クラシックだ。それは誰かの「ファーストクラシック」になるかも知れない、から…。
そんな音楽に対する真っ当な姿勢こそ、私は彼の本質だと思っていて、素人ながらもそこにずっと魅力を感じてきた事を思い出した。


そして次の日発表された最高に嬉しいニュース。
パリでの単独公演の知らせだった。

てっきりFUJI ROCK FESTIVALのステージに向けての配信かと思いきや、まさかのパリ公演のプレステージだったなんて!!!

「色々な意味があってバカデカいステージを」の「色々」に色々含みすぎである。
何が起こってももう驚かない気持ちでずっと来たが、こればかりは驚かされた。

前半はショパンや角野さんのオリジナルを中心とする楽曲が並び、後半はガラッとバリエーションに富んだセットリスト。ガーシュウィンがラストを飾るのもワクワクする。
嬉しい事に先程のあの曲も入っている。
フォロワーさんにも教えていただき、ガーシュウィンもパリで音楽を学んだことを思い出させてもらった。

Instagramで見せてくれた歴史ある雰囲気の会場にとても映えそうな選曲だと思った。

彼からすればこの療養中の短い期間でたくさんのプランを組み立て、形にし、ある程度の完成形まで目指さなければいけなかった。しかもそのコンセプトは場所も雰囲気もシチュエーションもバラバラだ。
たくさんのスケジュールで埋まった合間を縫って尚見せてくれるのは、ファンありきの行動であることに気付き泣けてくる。

そう言えば彼はいつも段階を追いながら、時には修正しながら、最後には唸るほどの結論で皆を納得させてくれるではないか。

一方で私は彼を1人の人間だという事を忘れたくない。周りが求めすぎて、期待しすぎて彼が苦しくなる事など絶対あって欲しくない。

こんなファンでも、まだまだ彼の音楽を追っていきたいと心からそう思っているし、そう思えたからこそこのnoteに記した。

そして前よりももっと広く深い世界を彼の作品を通して味わうことが出来たら、それはとても幸せな事だと思った。

そのために願うことはただひとつ。
これからのひとつひとつのステージがどうか無事に成功しますように。


2022年8月5日追記
フジロックでのステージは一気に全てを悟ったかのような、たくさん用意された鍵盤の中でもグランド・ピアノと向き合い、シンプルな、彼の真髄みたいなものを感じる本当に理想的なステージだった。(しかしこんなステージを見られる予想は私の中では10年は先だった笑)
まさかプリビアが調子が悪かったとは知らなかったが、そんなアクシデントすら霞む天晴れなステージ。全てがRockだった。

※フジロックのステージ配信を見たことで、改めて不安の正体がわかり、文中に追記致しました。