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綴らなくなったな

そう、久しぶりにnoteを開いて思った。

以前は──以前と言っても、もう10年も前だけれど、中学生から高校生にかけて、ブログを綴っていた。当時の私は、自分が悲劇のヒロインかのような心持ちで悲しいことや嫌なことがあると書いて吐き出していたし、好きなアーティストへの愛やオリジナルの歌詞も全部、ブログに詰め込んでいた。

ブログとは別にmixiにも文章を投稿していたし、もっといえば授業中にもよく小説を綴っていた。時折、人には言えないような内容のものや、二次創作も混じっていた。

それがいつの日からか、あまり文章を書かなくなった。

青春を謳歌していて、それどころではなかったと言ってしまえば、その通りなのかもしれないが、それはなんだか勿体のないことをした気持ちにもなる。

大学時代は私にとって、ダムの放水のような勢いで新しいことが流れ込んでくる日々だった。


学生ボランティアで訪れたインド・ケララ州の村で踊った夜
AAEEのベトナムスタディツアーにて集団移動をする様子


それまでは世界の中心は動かせず、私が周りを回っていたのに、急に世界が回りだしたような感覚。たくさん学び、感じ、考えた。

それでも、その時のそれらは綴っておかねば、あやふやになって、いつのまにか雲霧のように空気に広がって消えてしまう。必死に導き出した解すら、時が経てば忘れてしまう。

だから綴らないというのはなんだか、ひどく勿体のないことをしているような気がする。しかも私は、人一倍記憶力が悪い。

じゃあ、何で綴らなくなったのかなっていうと、シンプルに文字を紙に綴る習慣がなくなったことが大きい。

高校生までは、授業のノートをとるのが当たり前だから、ついでにその余白に新しい文章が生まれたりしてた。ついでにペラペラ漫画もたくさん生まれた笑。


けれど今は、紙やノートは「わざわざ」出すものだし、「書こう」としないと書くタイミングがないのだ。一応リュックの奥に忍ばせてはいるんだけどね。

大学時代はそれでも、こまめにノートパソコンを開いては、学生団体のあれやこれをしていたから、ついでになんとなくFBを更新してた。けれど社会人になり、それもなくなった。

会社はセキュリティがしっかりしてるので、仕事中にチラリと良い感じのことを綴っても、それを外に出すことはできない。メールで自分のスマホに送ろうものなら、「外部のメールアドレスにこんなの送ってます」とセキュリティ機能によって上司にネタバレされるのだ。

その結果、わざわざ書こうとしないと書く機会がない。

わざわざ書こうとすると、取り繕った文章ばかりが生まれてしまい、「感じた」ことではなく「考えた」ことを書いてしまうし、思い出したときにしかやらない。

そうやって、いつしか綴らなくなってしまったのだろうな。きっと同じように綴らなくなってしまった大人は、私の他にも多いんじゃないかなあ。

けれどやっぱりそれって、すごく勿体ない。
生み出すチャンスを自らポロポロ落としているんだもの。

また、「綴る」というのは、ポロポロ出てくる自分の中のあれやこれを掬いとる行為の1つでもあると思っている。
ほんとだったら気づいて掬い取るべきものに気づかずに、溜め込む原因にもなってるんじゃないかなと思ったりもしている。

その時何を感じて、考えて、何が嬉しくて、何が喜びで、何が不服で、悲しくて、そういうものを掬い取らないから、最近パンクしてしまう人が多いんじゃないかなあ。
(統計的に増えてるかどうかは確認してないです。体感的に増えてるように感じている、という主観です)

掬いとって外に出す行為は、別に綴る行為に限らず、絵でもダンスでも音楽でも声に出すのでも良いと思うけど、日本の教育的にも、多くの人にとって1番馴染みのある行為が「綴る」「書く」だと思うんだよねえ。

IT革命が起きて、パソコンが浸透して、ガラケーが浸透して、スマホが浸透して、それで紙が人の生活から離れてきたのってほんとにここ数年(十数年?)だから、そういった副作用って見落とされてる気がする。

「最近の若い人はツールに頼りすぎている。
ソフトなどのツールは可視化する手段で、考えて生み出すのはあくまで自分のあたま。頭で考えてから形にするのに、頭で考えずに画面の上で生み出そうとしている人が多い。」

先日話をさせていただいた60歳の現役デザイナーの方が、そのようにおっしゃっていて、なるほどと思った。
60歳と言っても時代遅れの考え方の方とかではなく、今も名指しでデザインの依頼が来るようなベテランの方だ。

私達より下の世代は小学生からIOTやICTが浸透していて、そのあたりがどうなっていくかはわからない。紙とかコンピューターとかにとらわれないで自由に想像し創造できる人たちが溢れるようになるのかもしれない。

ただ少なくとも私の世代─20代後半のゆとり教育世代までは、スマホなどは価値観が形成された後に出てきたものであるから、もしかしたら「ツール」に知らぬ間に縛られて、頭ではなく画面の枠の中で生きてしまってるのかもしれない。
だとしたら、一度デジタルデトックスして紙や声で綴った方がいいし、囚われないのであれば、これからスマホやPCで綴る習慣をつけていくのも良いと思う。

どちらにせよ記録として、表現として、可視化する手段として、綴っていくのは色んな意味で大切な行為な気がする。

「綴らなくなったな。」

そうやって気づいたからこそ、
今日からまた綴っていきたいなと思います。

そんな今日の気づき。



…余談ですが、ヘッダーにしているアオサギはGWに尾道で撮った1枚。コサギのほうがよく見るけれど、アオサギはやはり大きくてかっこいいから、テンションが上がりますね〜笑。

着陸直前のアオサギ。ヘッダーと同じ子。



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