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ディベートと日本、を考える

若者のディベート訓練について書かれた記事を読みました。以前から、ディベートって日本の風土にはあわないよね、なんて話題にちょこちょこと触れてはいるのですが、その辺りを先日読んだ記事に触発されてnoteしてみたいと思っています。


ディベートの魅力

ディベートっていうのは、ある特定のテーマについて、賛成派と反対派にわかれて、第三者を説得する形で討論を行うことです。最後に投票をしてどちらがより説得力があったかを競うようなことをしたりもします。アメリカの大統領選挙だったり、ハリウッド映画に登場するスクールでも目にする機会があるのでイメージが湧くのではないかと思います。

興味深いのは、中学や高校のアメリカの授業では自分自身の意見が元々賛成か反対かに「関わらず」振り分けられたグループでリサーチをし、それぞれの立場でディベートを行うといった練習をしたりもするようです。わたしはこれってすごい文化基盤だなと純粋に関心したのを覚えています。

(わたしの勝手な憶測ですが)そこには2つの意味があって、

1|多様な意見を認める
マジョリティーからマイノリティーまでいろいろな立場やいろんな意見が特にアメリカでは乱立しています。こういった様々な立場の人たちの意見を認める。そのために様々な立場に立って意見をリサーチして(自分の意見の賛否はいったん脇において)比較して戦わせる。ディベートというツールによって大小様々な意見をまずはテーブルに並列に並べられる。それぞれに固執しがちな固定観念からの離脱を促す非常に強力な手順だと感じました。

2|賛否を可視化する合意形成
また、これはとてもアメリカ的だとも思ったのですが、最後に投票によって勝ち負けをはっきりさせる、評価を可視化する。これだけだと単なる評価至上主義みたいで気持ちが悪いですが、そこに精一杯議論を尽くし、その結果に委ねる覚悟を促している点をわたしたちはつい見逃しがちです。つまり、これが単なる勝ち負けではなく、多様な意見を取りまとめる「合意形成」の素地を作っているということです。

これが多種多様な人種が入り混じっている自由の国アメリカの民主主義の根幹をなしている地盤ではないかと、わたしは渡米時代に感じました。多様性を受け入れるという強力な理念を抱えている昨今のグローバルな傾向からも、このようなディベートによる他者の受け入れや、それによる合意形成の手続きは非常に合理的で魅力的な手段に見えます。

日本にもディベート技術を取り入れるべきだと思った

21世紀において多様性を受け入れるのに日本も早々にこのディベート技術を取り入れるべきだと学生の頃のわたしは思っていました。これによって、より合理的に相手を慮り、立場によるご都合主義から離脱できるのではないかと。

ところが、どうも日本ではアメリカのように議論がうまく進行しない。。。このことに帰国してしばらくしてから気づくようになりました。

なぜか感情論になってしまう。

賛成とか反対にグループを分けて議論を進めようとすると、それがついにはロジカルな方向からそれ、人格否定だったり、裏切りだとか、誠意みたいな話になってしまうのだから始末がわるい。これはいったいどういうことなのだろう。

このような話をすると大抵、だから日本はダメなんだとか、もっと海外の知識人を見習わないととか、老害だとか、無能だとか、日本の風土や能力を否定する方向にどうしてもなりがちなのだけど、わたしにはそう思うことがどうしてもできない。短いなりに海外で生活した経験のあるわたしが感じたことと言えば、どちらの方が素晴らしいとか、どちらの能力が高いかなどまったくなかった。それぞれに当然のようにダメなところがあり、同時に関心すべきところが見えたからです。文化っていうのはそれぞれの風土のうまくいかないところを補正するものだって誰かが言っていた。これこそが風土からくる文化の違いです。

フルーツミックスとみかん箱

この風土の違いというのを端的にイメージしてもらうために、また例え話をしたいと思います。アメリカというのはフルーツミックスの社会だと思うのです(笑) そこにはりんごがあったり、キューイがあったり、マンゴーがあったりします。同じフルーツですけども、味も違うし、合う料理も、使われる用途も違うかもしれません。

アメリカは人種のるつぼ(最近だとサラダボウル?)などと言われていますが、そこには白人がいて、黄色人種がいて、黒人がいます。日本に比べるとそれぞれの祖先の背景も違います。歴史も浅いので、同じ白人でもアイリッシュ系だとかイタリア系だとかルーツはヨーロッパなど各地域の歴史にまで遡ります。そして、そのルーツの違いによる、あからさまな人種差別も経験しています。日本と比べると想像ができないほどに、人種だけではなくその背景や集っているグループに驚くほどの違いを国民自身が感じているのです。このような状態からフルーツミックス、さまざまなフルーツの詰め合わせのようなものをイメージしてみてください。ひょっとしたらそこには野菜も混じっているかも!?

すると、日本はどうなのか?

もちろん日本にだって多様な背景を持っている人や多様な才能だったり出生をもった人はたくさんいます。ところが、アメリカで言われる「多様」とはその意味合いがまったく違うということです。これを例えるなら、日本はみかんの詰め合わせなのです。温州みかんと、伊予柑(いよかん)、ぽんかんの詰め合わせです。

りんごとマンゴーが共存するために

りんごがマンゴーを受け入れる社会、キューイとグレープフルーツが共存しなければならない社会。味も、育ちやすい環境も、合う料理も、その用途も違います。違うなりにお互いを認めそれぞれの自由を毀損しないよう個性を平等に尊重する必要があります。それがアメリカです。そのための相互理解と、合理的な契約の縛りがアメリカの合意形成の基盤だとわたしはなんとなくそんな風に思っています。

もちろん、世界とかグローバルという視点をもつ必要が叫ばれる昨今において、このような合意形成の手法というのは日本人にとっても知っていて損はないと思いますが。。。それが日本にも適用できるのか?わたしたちはそこに適応すべきなのか?というと、それはまたまったく別のレベルの意味を持つと思うのです。この議論がないままに日本の学校にディベート教育を取り入れなければなどと主張するのは早計ではないかと思います。(わたしは教育の専門家ではないし、どのように取り入れるのかにもよるかもしれませんので、ディベート教育自体がダメだというつもりはありません。)

甘いみかんと腐ったみかんという多様性!?

さて、ここで改めてみなさんには深く考えてほしいと思います。最近日本でも、このディベート(っぽい)議論や、論破などといったことが盛んに行われているように思いますが、みかんの詰め合わせである日本においてこれがどういう意味をもつのだろう?

もともと日本には、アメリカほどの人種やルーツによる違いと言ったものはありません。そこに根掘り葉掘り「違い」や「差」を見出そうとするほどになんだかおかしなことになります。更には日本のアニメを見ていてよく思うのですが、どんな人にも根っからの悪人はおらず、それぞれの立場によって正義の見え方が違うといった観念をわたしたちは子供の頃から根強く持っています。これと相まって、、、そこにやたらに多様性といった言葉を当てはめようとすると、ある時点からみかんとみかんが共存するといった単純な構造が成り立たなくなります。つまり、良いみかんが腐ったみかんを受け入れる、そんな構造に導かれてないですか?

もちろん、腐ったみかんなんて存在しないんですよ?みんな人はそれぞれの正義に生きていますから。ただ間違ってほしくないのは、根っから腐ったみかんは存在しないという「人間観」と、ここでいう社会の合意形成における良質な「議題」を混同してはいけません。つまり日本で多様性という言葉を言葉通り実行しようとすると、おなじテーブルに道徳の話と、話されるべき議題が並列してしまうんです。浅薄ないわゆるクソリプにすら敬意を払うみたいな品格の話と考慮すべき議題とを混同してしまう。

これが恐らく、日本でディベートをすると感情論に流れる理由のひとつじゃないかと思います。もうひとつの理由は後述します。

ディベートは乗り換えの技術だということ

もうひとつここでディベートについて、おそらくわたしがみなさんと違った感覚を持っているとすれば、ディベートというのは乗り換えのための技術だと認識している点でしょうか。

賛成と反対の意見を戦わせて、勝った方にみんなで乗り換えますよ、という技術なんです。乗り換えって言ってしまうと日本人にとってはちょっと節操がないように感じてしまうかもしれませんので、契約と言ってもいいかもしれません。トーナメント戦で勝ち上がって最後に勝ち残った選手に金メダルを授与する、賞金1000万円を与える。これをみんなが了承しているからこそ、トーナメントというしくみは成立します。ディベートはそのような原理に近いとわたしは思っています。

ディベートによって勝ち上がった意見に対して、社会のみんなの共通認識として合意する。みんなでその意見に乗り換える。乗り換えという言葉が適切でないなら、次の決戦までは当面その契約に則って個を明け渡すという技術です。そういった訓練をアメリカでは学生の頃から行っているということです。それが必要な風土だったからです。そしてこれが近代民主主義における合意形成の根幹をなしているということではないかと思います。

日本の風土には乗り換えという観点がない

では、日本で「合意形成」というとき、どういった意味を持つのだろう?これが今日のメインテーマですw

日本では大きな人種の違いもないし、同じ種族内で先祖のルーツがどこだとか言った話にならない程度に長い歴史ももっています。あっても故郷がどこでどこ出身だといったくらいでしょう。それこそ、みかんの品種程度の違いしかありません。

これはわたしの憶測ですが、日本で合意形成と言った場合、欧米のそれと比べると、返ってより深いレベルでの合意を要求されるのではないか。近しいみかん種同士が狭い空間で心地よく共生するためにお互いの共通点を探り、そしてむしろ賛成とか反対といった枠を超えた「第三の道」を模索しようとすらします。それは「合意」と言うよりも「融合」に近い感覚です。

だから、合意には時間がかかる。いや、かけなければならないんです。例えば、明治以前の日本の村では合議にも数日をかけてひとつのことを決めたそうです。民俗学者の宮本常一はこんな事を言ってます。

夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かすものもあり、結論がでるまでそれが続いたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかくムリはしなかった。みんなが納得の行くまで話し合った。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。

宮本常一

意見は全員にわかりやすくそれぞれの体験談などによって語られていく。賛成意見が出ればしばらくそのままにしておき、冷却の期間を置いて改めて反対意見を聴く、、、お互いに気まずいこともないように、そうやって納得感をもって結論を導こうとする。それは賛成・反対という区別ではなく、同じ共同体としての「味方」を育んでいく儀式といった方がよいのかもしれない。

己の利益だけでなく、公益を尊重するための融合とはどのようなものだったのだろう。次の文章などはなんとも良くも悪くも日本らしいと感じてしまうのだけれど、それぞれのエゴが拮抗し行き詰まったときには次のような話をすると、話が合意の方向に流れるのだそうだ。

「皆さん、とにかく誰もいないところで、たった一人暗夜に胸に手をおいて、私は少しも悪いことはしておらん。私の親も正しかった。祖父も正しかった。私の家の土地はすこしの不正もなしに手に入れたものだ、とはっきりいいきれる人がありましたら申し出てください」といった。するといままで強く自己主張をしていた人がみんな口をつぐんでしまった。

宮本常一

むしろ議題とまったく関係のないところでの合意を求めているようにも聞こえてしまう。理屈だけで合意にいたろうとるす現代人からすると、なんとも非論理的な精神論にすら思えてしまう。これが日本社会が同調圧力だとか外圧ばかりだと揶揄される所以でしょう。でも、これをみかん同士のより強固な「味方」を育む融合の儀式であったと考えるなら、わたしはむしろ日本の風土が生んだ問題解決の手法だったのではないかと、その正の側面を思わずにはいられないのです。

合意の意味の違い

繰り返すけれども、だから日本の風土において、合意には時間がかかるし、かけなければならなかったように思います。合意のレベルがみなで納得のいく「味方」になるまで。。。よく自分が無いなどと揶揄されることもある日本人ですが、その出発点は恐らく公益のために時間をかけて己を抑えてお互いの融合を促したのだと思います。その先にあるものは欧米とはまったくちがう形の心地よさという自由です。これが日本でディベートをしようとしても、立場を乗り換えたり批判したりすると感情論に発展しがちな、ふたつめの理由だと思います。日本でいう「合意」はより精神的で心の拠り所を共有する「融合」の儀式だからです。

このような風土は、「個」を契約的に尊重することで合意をもたらそうとする西洋の様式とは出発点が異なるように思います。近年、日本社会でも欧米に習って契約的に問題を解決しようとする声が日に日に大きくなっているように思いますが、日本にはそのように短期間で契約的に賛否を乗り換えられるような風土はない。ムリに欧米式を輸入しようとするあまり、結果として早急な問題解決を避けようとする「事なかれ主義」に陥ってしまっている。

代わりに日本にはより深い融合の儀式が根付いている(いた)とわたしは思います。そういった片鱗が生活だけでなく、アニメなどサブカルチャーのそこかしこにも見て取れます。だからディベートを日本の教育に推奨するかと言われると、わたしはちょっと躊躇してしまう。更に、ディベートによって育まれている「個」の自由を保証するための民主主義というしくみそのものが日本にはひょっとするとそぐわないのではないか(これはまた別の機会に)。。。このように見ていくと、事なかれ主義の軌道修正、時間をかけて遅々として進まない会議、浅薄な意見との向き合い方、感情論に陥りがちな弁論、、、こういったことのへアプローチするための糸口がほんのりみえてくるのではないかと思うのです。

りなる



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