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瞑想

ステキなプロポーションを保つために多くの女性はダイエットをします。素晴らしい身体的なパフォーマンスを発揮するために、スポーツ選手もまた肉体トレーニングをします。身体は鍛えることによって持っている能力を最大限に活かすことができるようになります。肉体トレーニングについては、実際に物理的な効果が目に見えるので、敢えて異論を唱える人はあまりいないと思います。

一方で、現代社会ではむしろ肉体よりも知的な活動の方が圧倒的に多く、おそらくわたしたちは過去いかなる時代よりも"脳力"を活用しているのではないかと思います。にも関わらずですよ?なぜみんな瞑想というテクニックを蔑ろにするのでしょう。脳を活かすための時間を割こうとしないのでしょう。現代社会ほど、瞑想がフィットする時代もないように思うのです。。。

わたしの個人的体験を元にして書かれているので、根拠はあんまりないです。へぇ、と思って読んでくれたらと思います。ただ、わたしみたいな、わりと理屈っぽい人間がこういった形になりにくいものを言葉にすることで、また違った分野の人が興味を持つのじゃないかという期待をしています。

2つのテーマ

個人的に瞑想には大きく2つのテーマがあるように感じています。テーマっていうとなんか壮大な意識をもっちゃいそうですけども、あくまで結果的にそういう効果があった、またはありそうだという程度に思ってください。

1つ目は、脳内の余計なタスクをクリアすること。これは余計な不安や雑念を整理することでリラックスであったり、想像力の幅を広げたりする効果があるように思います。それによって思いやりを増幅することにもつながるのではないかと思います。2つ目は、わたしという身体がどのように機能しているかを体感として知ることです。「私とは何か」これは仏教などでよく問われますが、文字通り概念としてそれを知るということにとどまらず、普段実際に身体のどの部位が何を感じていて、それに身体や心がどう反応しているのかを意識して生活している人は意外と少ないと思います。このような身体の「反応」を意識的に体感することです。

1:余計なタスクをクリアする

全く関係ない話からはじめるんですけどもw みなさんパソコン使ってますよね。古いパソコンを使っていると、だんだん処理が遅くなってきて、動作がもたついてくることがあります。この問題に対処する方法は2つあります。1つは基本性能を向上させる(パソコンを買い換える)ことで、もう1つはタスクを整理する(余計な常駐ソフトを削除する)ことです。

人間の脳もわりと同じです。人間の脳はパソコンのようにパーツを取り替えたり買い替えたりはできませんが、その代わり鍛えることによって機能向上を図ります。ほとんどの人は勉強によって機能向上を図ろうとするのではないでしょうか。まぁ、現代社会における「勉強」が脳の機能向上に貢献しているか、と言われると疑問ですが。。。最近の「勉強」というのはつまり目先の試験であったり、地位などの誇示のために記憶に情報を溜め込むことを好む傾向が高く、いかにして身体の機能としての脳を鍛えるか、ということにはあまり適していないようにも思います。

話が逸れましたが、脳の機能向上を図るもう一つの手段もパソコンと同じく、タスクの整理ではないかと思います。現代社会は多くの情報に溢れていて、そのような過分な情報がより多くの不安や恐怖を増強し、わたしたちの許容量を遥かに超えた情報のループに陥っています。良くも悪くもわたしたちの脳は許容の超過分を「切り取って」処理続行することに優れているので、無意識のうちに多くの「生の情報」が削ぎ落とされる形でわたしたちは日々何気なく生活しているのではないかと思います。知らずのうちにわたしたちは他人をカテゴライズしたり、枠にはめたり、固定観念に縛られたりするのはそのためです。こういった情報をしっかりと処理するためには、脳内に充分な「空き容量」がなくてはなりません。そのためには、不要な、あるいは優先度の低いタスクを消すことです。この不要なタスクを消す行為こそが、いわゆる「瞑想」によって得られる効果です。

考えない

有名な心理学で「シロクマ」の実験というのがあります。シロクマのことだけは考えてはいけません、、、と言われると人間はシロクマのことを考えてしまいます。今から、5秒間(たったの5秒ですよ)シロクマのことを考えないでください、と言われて、シロクマのことを一切考えずにいられる人はおそらくいないでしょう。

いいですか。脳を鍛えることが間違っているとはいいません。ただ、仮に脳を鍛えることによって、あなたの脳の性能が10%向上したとしても、次の瞬間にその10%は新たなシロクマの思考に占拠されていることでしょう。

つまり、わたしが思うのは思考を豊かにするために、脳を鍛えるのが先なのではなく、そのための容量を明け渡すことが先であるべきではないかと思うのです。

思いやり

人は最適なルートが「わかってしまうと」その道を進まずにいられない生き物だとぼんやりと思うことがあります。小学生の下校時、通っちゃいけないよと言われながらも、近道を発見したらその道を通ってみたくなってしまう。近道を知っているのにそこを通らないのは、後で怒られるコストと、近道を行くコストが見合わないからです。

では、思いやりとはなんでしょう?わたしは思いやりとは想像力だと思うのです。他人の立場に立つことです。他人の背景を知ることです。知ってしまった以上、おせっかいをせずにはいられない、それが思いやりです。もちろん、声掛けをするのはちょっと恥ずかしいとか、人助けをする手持ちがないとか、そういう要素を天秤にかけて実際に行動にまでつながらないこともあるでしょう。それは単に見合わないからです。

近年思いやりや、心の通った交流が少なくなったと感じるのは、人間の本性が腐ってきたから、ではありません。それは、考える余裕がなくなったんじゃないか。誰かのことを思ったり、想像力をもって他人の立場に立つことは、相当な労力が必要になります。その思いやりを生み出すのに充分な許容量がみんなのなかに確保されているのだろうか?

瞑想によって、思いやりが生まれるといったことを主張する人がいますが、論理的に筋が通っているとわたしは思います。瞑想がなにか特別な啓示を与えるとか、そんなことではなく、わたしたちに想像の余白を与えるのです。

頭がよくなる?

瞑想をすると頭がよくなるのかと聞かれても、そういう実感はわきません。ただ、瞑想をすることによってその日の体調であったり、頭に浮かんでくるイメージに変化があるようには思います。瞑想するようになると、様々なアイデアが浮かんでくるようになります。それはきっと不安や雑念をクリアしたことによって、脳内の空いたスペースに新しい思考が入り込む余地が生まれるから。

そして、面白いことに今日は瞑想をしようと決めた日には、瞑想をする前にその効果が表れることがあります。これはスピリチュアル的な特別な力なのかw よくわかりませんが、恐らく瞑想が習慣化することによって、脳が行動パターンを予測するようになり、決断した瞬間に瞑想をしたときと同じ効果をもたらすのではないか、と思っています。パブロフの犬と同じですね。って書いちゃうとなんか、残念な感じに聞こえてしまいそうですけども。

2:「私とは何か」

これはちょっと言語化するのが難しいのですが、少しずつ紐解いて行きたいと思います。まずこれ忘れがちですが、わたしたちは生物だということです。生物である以上、わたしたちはその肉体的な制約であったり、観念的な傾向に少なからず影響を受けています。人に特徴的なのは、「自分」という定義が肉体的な個体としての自分だけでなく、観念としての自分をとても強く確立しているところではないかと思います。つまり頭のなかで思い描く自分像です。(まぁ、どちらも最終的な認知のレベルでは観念体としての自己に帰結してしまうのですが、ここでは深く触れません。)

人は肉体的であるか観念的であるかに関わらず、これらの「自分」という存在の消滅を生物として恐れます。逆にこれらの自己投影が永続することに心地よさを覚えます。これらを人間の幸不幸というテーマとすり替えることもできますが、その前に、これは生物としての「反応である」ということを実感として体感するのがよいのではないかとわたしは思います。

これらの反応は、生まれてからずっと自然に発現しているので、ほとんどの場合それがそこにあるということにすら気づきません。自分の身体の反応に耳を澄ませ、静かにただ自分の中で起こっていることを観察すること、これが瞑想の2つめのテーマです。

頭、腹、心の関係

わたしの感覚的な話になってしまうのですが、身体でどのような反応が起こっているのかを具体的に噛み砕いて見たいと思います。

人間の自己は、頭、心、腹で構成されている、とわたしは感じています。そして、多くの人は「自分」を頭で認識しています。年齢、容姿、性別、学歴などなど、あなたがあなただと思い描く姿は基本的に全て頭の中にある「自分像」です。こういった自分像は頭のなかで際限なくループとループバックを繰り返し、自分像によって自分像が更に増強されてゆきます。

順番に見ていきます。

絶対的な「自分像」と言ったものは現実には存在しえません。あなたは自分が「背が高い」と認識しているかもしれません。でも、背が高いとは何をもって背が高いのか。。。170cmは女性にしては背が高いかもしれませんが、男性にしたら普通かもしれません。欧米諸国ではむしろ低いくらいかもしれません。すると、背が高いというのはあなたを定義する属性にはなりえません。頭がいいとか、学歴などもそうです。それらは全て何かとの比較によって定義された概念です。性別ですら概念です。あなたがあなたであると確固たる真理をもって主張するためには、あなたはあなた「そのもの」であなたを定義できる必要があります。ところがどうでしょう?あなたが男性であるなら、それは女性という相対がなければなりません。背が高いという意識も、背が低い相対があってはじめて生まれる概念です。これらは全て「頭のなか」で作られた自分像です。

ですから、「自分とは何をもって自分であるのか」といった意識をよくよく観察してみると、それらは基本的に自分以外の何かとの「関係性」によって生まれているということに気づくでしょう。あなたは背の低いあの子との「相対的」な関係性によって、背が高いと認識する。背が高いということはあなたの「絶対的」な本性ではありえません。

これらは、全てあなたの外的な体感から知覚されます。目や匂い、感触、温度、そういった身体に張り巡らされた神経を土台にして(五感を通して)あなたは自分像を構築しているのです。こういった五感が「背骨」を通して「頭」に伝達されているのです。ちょっと感覚的な話になってしまいますが、全身の神経からくるこれら外的な感覚が「腹」に集約されて「背骨」を通して「頭」に伝わっている。ですから、「自分像の土台」というのは腹にある。古人が自身の本質を理解したときに、腹落ちするとか、腹に据えかねるとか、そういった表現が残っているのは非常に繊細な感性ではないかと思ったりするのです。逆に「頭」でっかちというのは、本質を無視し想像上の自分像に固執している人の事を言うのです。

さて、この頭と腹を背骨でつないだときにちょうど真ん中にあるのが心です。頭と腹の関係性に気づければ、心の働きというのはとてもシンプルです。「自分」というものには実体がないのだという話をしました。実体がないものに対して、相対的な関係性の土台(腹)を通して、自分像を無限に作り出している(頭)のです。するとこの頭と腹にはギャップが生まれます。このギャップに生体的に反応するのが心です。

このギャップが、生命体(≒自分像)を安定・増強させるものであれば、快を感じるし、逆に消滅や不安のリスクを伴うものには不快を感じている。外的なイベントに対していちいち反応するフィラメントみたいなものではないかと思います。コントロールしたり制御したりできるものではなくって、それは機械的に振れる反応に近いんです。その反応が「自分」という観念に瞬間的に同期しているために、わたしたちはその揺れをもって「自我」をより強く意識するようになるのです。これが感情となって心に現れるのです。

ですから、「自分」とは実体のない「頭」と「腹」の連鎖であり、「心」はそのギャップに起こる快・不快の揺れだとわかった瞬間、心の反応は止まります。

身体の反応を観る

自分と他者はイベントによって五感を通して認知されている。身体はそのイベントに逐一反応するのです。わたしたちは日々不安や怒りに苛まれていますが、その反応をありのまま観察していると、思った以上に機械的な反応だということに気づくでしょう。

人間というのはある意味それらの反応に対する受容体なのです。それを理解するには理解するための自分を仮想しなければならなくなります。ところが、現実は受容によってつながるイベントの連なりでしかありません。するとわたしが本質的にわたしを知ることは、知覚によってではなく、知覚を排除したあとに残る感覚の中にその片鱗を観るしかないのです。

どこまでも静かに「自分」を観ること

ですから、「自分」というものを瞑想の中に認識するとき、それは「頭」の中にある自分なのか、「腹」にある自分なのかを意識的に観察するのがよいと思います。これらに引きずられて心がどのように揺れ動くのか、自分が自分であると感じる瞬間は、むしろ心の反応に対してです。感情があるからこそ、わたしたちはより自我を強く意識するのです。

瞑想によって自分の反応の微細な動きを観察してみましょう。同一だと思っていた自分(頭と腹と心)には、微妙な同期のズレがあります。ズレている。。。瞬間的な断片であって連続すらしていない。つまり、絶対的な唯一無二の自分などというものは存在しないのではないか。自分とはつまりは関係性の中に溶け込む自己証明の無限ループ。

我思う故に我ありといった哲学者がいます。彼がどのような意図でこういったのかわたしにはわかりませんが、文字通り「我」とは「思い」でしかない。何かを考えているという事実が自分を存在させているわけではありません。「自分」というものは実体のない「思い」の中にあって、それ以上でも以下でもなく、存在とは、わたしとわたし以外との「関係性」のなかにしかないのです。全ての存在の起点はこの関係性にある ーーー 縁起。

ブッダのいう縁起とはこのようなものなのではないか、と、わたしは瞑想を通して思うのです。

りなる




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