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『忘れられた日本人』 宮本常一

前回の投稿にひきつづき、読んだ本がおもしろかったので、読了後に改めてレビューが書きたくなりました。

いくつか気になるポイントを目次にして、これを手がかりに感想を書いてみたいと思います。

こうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛妻家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。

女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。

下ネタを通して男性にたいする批判力を獲得したという考察が実におもしろい。

「いい村は女が元気だと聞いています」(もののけ姫より)

アシタカの言葉が思い出されますねww 性の問題は単に性だけに限られたものではなくって、それは男性と女性との関係の中に築かれる多様で様々な人間性のカタチ。それをゆがめてしまう「何か」こそ問題なんじゃないかと改めて筆者の言葉とともに感じた。

性愛に対する習慣や祭り、数多くの男女の体験談から紡がれる性の話はほんとうに面白い。ほんの一世紀前でこれほどまでに違うのかと驚くほど。このような急激な文化背景の変化が現代かけて起こったのだという示唆に富んだお話が多い。このあたりは以前の記事(不倫は、なぜいけないのか)でだいぶ書き尽くしたのでここでは先を急ぐとしましょう。

風土と合議制

日本の村の中、合議制が見られたというのはこうした村々であって、それは必ずしも時代の変遷からのみ生まれたとは見難いのである。

日本の村には、大きい地主が土地の大半を持っていて多くの小作人を使う部落と、所有地が比較的平均している部落と、二つのタイプがあったようです。学者の間で研究対象とされるのは前者が多かったせいなのか、わたしは漠然と前者が典型的な農村タイプだと思っていたのですが、これらは同じくらいの比率で存在したようです。

あまり研究対象として日の目をみない後者のタイプのほうが、著者によるとより近代的な気風を持ち合わせていたようです。確かに、地位が均衡した人々同士にあるとみんなで寄り集まって決定するといった風習が当然として育つのかもしれないですね。これは時代の変遷というよりはもっと長い歴史のなか各地の風土から生まれたものではないかとの著者のコメントが目を引いた。

この話し合いの情景が細かく描写される。日本には日本の合議の「型」がきっとある。前回の記事(スローダウン)でも触れたけれど、みんなとの話の落とし所のみつけかた、それは西洋社会からもたらされた効率性でも論理性でもなく、全体性のなかに存在する時間との向き合い方なのじゃないかとわたしは想いを巡らせている。

隠居

年齢階梯制の濃厚なところでは隠居制度がつよくあらわれる…これを持ちつたえさせたのは、非血縁的な地縁共同体にあったと思われる。そういう村では村共同の事業や一斉作業がきわめて多かった。

… そこで、この共同作業や公役をできるだけ少なくするためには戸主としての地位を早く去ることである。…できるだけ早く子に嫁をもらい、後を子にゆずって自分は家の仕事に精出す方法が生まれた。

隠居についての考えも触れておきたい。現代では引退とか隠居というとFIREなんていって、ただ優雅に遊んで余生を過ごす、みたく言われるけども、かつての隠居はだいぶ意味が違ったのだなと感じた。

村社会では、コミュニティーに対する貢献(広く社会貢献と言ってもいいのかもしれない)が必要で各々の貢献によって家族より大きな単位での村が成立していた。これは現代人からすると「しがらみ」と感じてしまうかもしれないけれども、その様相は今とはだいぶ違う。お互い様で困ったときに表立って、ときには穏便に、手助けするための最も身近なセーフティーネットなのだ。

そのような安心への貢献の反面、返って自分自身(または家族)のためにできる仕事というのが制限されてしまう。そこで、隠居して自分や家族のための「仕事に専念する」というのが本来の隠居ってものらしい。

近代以前の働き者にとって、ここにも仕事というのはやりがいであって、人生そのものであったといった声が聞こえてくる。仕事がつまらない、あらゆる仕事は苦労であるというのは、近代以降の現代人によってもたらされた感覚なのではないかという思いが強まった。

時間と能率

…話も十分にできないような田植方法は喜ばれなかった。…しかしその田植えがここ二、三年次第に能率化させられはじめた。女たちが田植組グループをつくって、田を請負で植えるようになったのである。

一反千円で引きうける。こうすれば他の持ち主は御馳走をつくらなくていいし、また早乙女をやい集める苦労もない。…これによって…人をたのむ苦労からそれぞれの家の主婦は解放せられた…

この制度は女たちの発明であった。と同時に能率をあげれば収入もふえるので田植のおしゃべりも次第に少なくなりつつある。話してもそれが一つの流れをつくらないで断片的な話になる。

田植えの描写が特におもしろい。田植えというのは、公共のおしゃべりの場でもあったようだ。そこで話されるのはもちろん下ネタも多かったようだけれど、公共の場で話すことができるものが特に好まれた。だから陰湿なものは少なく健全なネタがよく広まった。おしゃべりをしながら笑い話で大いに盛り上がる。

田植えの作業は女が主役で、その作業に合わせて男が力仕事をする。女の手が止まってしまうような仕事っぷりの男は寄ってたかって尻を叩かれたそうで、それがまた楽しかったと。歌がうまい男衆は、畑で太鼓を叩いて歌を歌ったなんてのも個人的には目に止まった。みんながあくせく働く脇で歌を歌ってたって?それが許される感覚がわたしにはもう想像ができないのだけれどww みんなが楽しくおしゃべりをし、歌を歌うことで、疲れず仕事が持続したのだそうだ。

そんな田植えが楽しみであったと。

このような働き方、つまり成果が、明治以降に次第にお金に代替されることによって、「面倒」から解放された反面、「楽しみ」が失われた。

(西南戦争のあとを指して)…その頃になると職人も仕事が面白くてたまらぬというような者は次第に少なくなって、ただ金もうけが主になり、田舎わたらいをするよりは都会にあつまって来てそこの仕事をするようになって来た。そういう世の中は伊太郎にはおもしろくなかった。

仕事の成果が金儲けになったことで、つまらない世の中になったと、その時代を生きた者が実感として感じていたという言葉が印象的だった。

さて、少しトピックから逸れるけれども、このような暮らしぶりからみえてくるものとして、男女平等とはなんだろう、年寄りの貴重な役回り、世代とはなんだろうといった側面もまだ考えさせられるものがある。

信用の創造 ‐ 文字

名頭、村名、国づくし、受け取り、送り状、買入書、借用書、約束などの書き方をならった。

さて字をならったおかげで、法律というものもわかり、官有林の払い下げには大へん役にたった。しかし、それにはずいぶん金もかかり、払い戻ししてもらう金のない者はみすみす他村へ山を手ばなしてしまった。こうして明治三十年までは何が何やらわからぬままにすぎてしまった。

これはどこの村も同じことで、字を知らなかったおかげで、みなこづきまわされてきたのである。そうして字と法律ほど大事なものはないように思った。弁護士はそのころ三百代言といった。法律をたてにとってウソばかり言ってみんなからお金をまきあげた。

三十年をすぎてやっと世間のことがわかるようになった。その時は村人はすっかり貧乏になっており、字を知っている者だけが、もうけたり、よいことをしたりしていた。

文字がなかった時代の描写については衝撃的に新鮮だった。

わたしたちは文字通り文字のなかった(読み書きができなかった)時代を知らない。いまの日本の識字率はほぼ100%でしょ。文字がないという感覚がわからない。ところが、そんな日本にも文字がなかった時代というのはわりと最近まで存在していて、そのころの記憶を残している翁の話はひじょうに興味深い。

文字がなかった時代には、人と人のつながりや人となりによって信じるに足るかどうかの判断が決まっていた。事実証明が記憶だったり行動に常に依存してしまうのだからそれも頷ける。これが文字の登場によって、文字という記録媒体が証書になった。文字が読めるということによって、さまざまな取引の信用がそこに生まれるようになったってことですよね。

わたしは現代社会において、人とのつながりが薄れた大きな原因は「お金」だと思っているのですが、それはもしかしたら単にひとつの側面に過ぎないのかもしれない。信用創造とはお金に対して使われる言葉だけれども、その背景には文字の普及というあたりまえすぎて見逃しがちな大きな背景がある。すると、近代から現代にかけての大きな流れとしてあるのは、人間関係がお金や文字の登場によって、創造された「信用」に置き換わっていった変遷の時、と言い換えることができるのもしれない。そんな視点も生まれた。

伝承者と文字 ‐ 身体知

こう書いしまうと文字の文化が悪いもののように聞こえるかもしれない。少し補足しておきたいのだけれど、著者は決してそんなことは言っていない。

文字のない時代には「人となり」によって信用に足るものが伝承されていった。ここで伝承されてきた知恵はわたしがたまに使う「身体知」という言葉に近いのかもしれない。経験や体験によって育まれてきたお話が寄りあいや田植えの雑談やらで伝承されていく。そのような知恵・身体知を多く伝えるにふさわしい伝承者といった者が各地にいた。これには原則、見聞きしたものが「そのまま」伝えられた。そのまま「改ざんなく」伝えるということがなにより信用につながったわけです。

文字を知るものと、知らないものとには、それを受け取る周囲にとっても、大きな違いが生まれてくるのだと言います。

文字をよみ文字にしたしむものは、耳できいただけでなく、文字でよんだ知識が伝承の中へ混入していき、口頭のみの伝承の訂正が加えられるものである。が世間は、「あの人の話は書物でよんだのだからたしかだ」と信ずる傾向がある。

文字を解する者はいつも広い世間と自分の村を対比してものを見ようとしている。と同時に外から得た知識を村へ入れようとするとき皆深い責任感を持っている。それがもたらす効果のまえに悪い影響について考える。

文字を知っていると、自分や村の体験からくる豊富な伝承と、見聞きした文字の世界を対比するようになる。著者の関わった多くの「文字を知る伝承者」は、「そのまま」伝承するのではなく、知識を「融合」して村に伝承しようとする。周囲もまたそれを信じようとする傾向がある。

このとき、果たしてそれが本当に自分の村に適したものなのかを十分吟味する。伝承の重みを身体で体得しているからこそ、その改変には重大な責任を感じるのだ。それが常に成功したとは限らないけれど、そのようにして村の発展に大きな功績をもたらした。

明治二十年以降に生まれた人々になると、古い伝承に自分の解釈が加わって来はじめる。そして現実に考えて不合理だと思われるものの否定がおこって来る。

ところが、近代以降はどうしても文字があふれ知識偏重になってゆく。すると、目先の現実にたいして合理的じゃないなと思ったらすぐにそれを捨ててしまうような傾向が強まったということだろう。このようにして伝承されてきた身体知としての知恵が急速に失われていった。われわれ現代人にとって耳のいたいところ。

大切なのは、数世代にわたる長い時間のなかで吟味されてきたことを身体知として会得すること。そして、それが文字によって得た知識によってより広く高い視点によって昇華されうるということ。その両側面がバランスしてはじめて知恵は正しく活用されるのではないか。このような傾向をすでに感じ取っていた著者や当時の知恵者の慧眼には驚く。

まとめ

だいぶ駆け足のレビューになってしまった。この著書には特定のトピックがあるわけではなくって、各地の老人との会話がもとになって紡がれている。だから、きっとこれを読む人・聞く人によってそこから受ける印象は様々に変わってくるのではないかと思います。

田植えにジェンダー差を感じる人もいれば、能率主義ややりがいの違いを感じる人もいるかも知れない。若者や年寄の重要な役割の違いに思い至る人もいるかも知れない。そのように、とても多くの可能性や想像を掻き立てるお話だった。

りなる



この記事を読んで、日々の生活を考察してくれました!ひとによってこの話から受ける印象が違うのがとても面白いところ。過去のお話から現代の身の回りの習慣を対比として見直すことができるというのは、とても貴重な体験じゃないかと思います!!そんなプライベートな体験談を共有してくれてありがとうございます!

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