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思考力・自由を奪う聖句10選(Part1)

本日は脱会のシリーズ記事ではありません。
どうしてもシリアスな話題がちになってしまうので、
少し脱線して、書き味もややゆるく書いていきたいと思います。


私はエホバの証人というキリスト教系の宗教団体に所属しておりました。

このnoteでは、
エホバの証人をはじめ、宗教団体(主に新興宗教)を脱会したいと思っている人に向けて記事を書いていますが、

私自身の立場として、
エホバの証人の個人個人については、尊敬できる方が多く、本当に謙虚で真面目な方が数多くいらっしゃるという認識を持っています。

であるがゆえに、辞めるに辞められないという思いがあったのも事実です。

私のことを気にかけてくださった方、
仲良くしてくださった方、
そうした方々の気持ちを傷つけることになる、期待を裏切ることになる、
そう考えるとどうしても辞めるという決断ができなかったのです。

しかし、それはそれとして、
やはり教わっていることに疑問を感じたことは事実であり、
その思いに蓋をしたまま活動を続けることはできません。


今日は、エホバの証人の世界で頻繁に引用される聖書の言葉(聖句)と、その言葉がどのように解釈され人々の思考力や自由を奪っていくのかというテーマで書いていきたいと思います。

念の為、最初にことわっておきますが、
聖書が思考力を奪うと言っているわけではないので、その点はご了承ください。
ただ、私が所属していた組織においては聖書の言葉を次のように解釈し、
その結果として、思考力を失い、自由を失った相当数の心優しい信者たちがいるということを言いたいのです。
宗派によっては、同じ聖句を引用しながら、人々の思考力を喚起させる教えを展開しているかもしれません。

それでは参りましょう。

※YouTube風に「10選」というタイトルをつけましたが、おそらくじっくりと考えればそれ以上出てくるでしょう。もし他にも思いついたものがありましたら、ぜひコメントにてご教示いただければ幸いです。


1、格言(箴言)3章5節


心を尽くしてエホバに頼れ。自分の考えに頼ってはならない。

「新世界訳」(2019)

※一応、引用はエホバの証人が出している「新世界訳」のものを参照します。


思考力を奪うという条件で、
「ああ、これかな」と思った方も多いのではないでしょうか。

お見事!
大正解です。


ちなみに、エホバの証人では
なぜかエホバ=組織(教団)と言い換えることができます。

ゆえに、上記の聖句をエホバの証人風に解釈すると、
自分の考えに頼ることなく、組織の指示に従いましょう
となります。


2、ヨハネ第一の手紙5章3節


神を愛するとは、神のおきてを守ることです。神のおきては重荷ではありません。

同上

エホバの証人の見解では、「聖書は神の聖なる力を受けた書物であり、その記述には誤りなどあり得ない。」「聖書の記述は全く正しい」という立場をとるので、

聖書で「おきては重荷ではない」と書かれているのだから、
あなたたちが守るべきおきては全く難しいものではない
と釘を刺されます。

だから、
・誕生日、クリスマスしない
・選挙に行かない
・冠婚葬祭に出席しない
・輸血しない
・タバコ吸わない

は守れて当然であるし、

もっと言えば、
・週2回集会に出席し
・年3回大会に出席し
・毎月伝道活動に参加し
・高等教育を避け

人によっては、
・結婚することを諦め
・子どもを持つことを諦め
・マイホームを持つことを諦め

ということが正当化されます。


おきてを守ること=神への愛
という等式が成り立ってしまうため、

おきてを守らない=神を愛していない
という信者にとって最もつらいであろう烙印を押されてしまう
ことになります。

それを避けるためには、実質おきてを守ることは自分の意思でというよりも、守らなければならないものになっているような気がします。


要は、

「私のこと愛してるんでしょ?じゃあ言うこと聞いてよ」

ということです。(支配的な人にありがちな発言です。)


しかし、使徒ヨハネが言っていた「おきて」とは、エホバの証人の言うような
こうした行動面での”校則”のようなものではないような気もします。

むしろ、彼が言いたかったのは、
イエスが示した「新しいおきて」
「互いを愛しなさい」というたった一つの命令
ではないのでしょうか。



3、エレミヤ書10章23節


エホバ、私はよく知っています。人は自分の道を定めることができないのです。自分で自分の歩みを導くことができないのです。

同上

この聖句も1で紹介した箴言の聖句と同様、
自分で考えるな。神=組織に従え
を推奨する聖句として、教団の刊行する雑誌に頻繁に引用されます。

しかし、これを現代でも文字通りに解釈して、「人間は神のご意志、決定に従わなければならない」というのもやや暴論ではないかと思います。


エレミヤ書が書かれたのは、旧約聖書の背景ですから、当然ユダヤ人たちに向けて書かれているはずです。

彼らは生まれながらにして神の選ばれし民であり、それゆえに神への忠節がマストでした。

そうした状況の中で、上記のような聖句が言われるのはむしろ当然であり、これを現代にまで文字通り当てはめるのはいささか違うのではないでしょうか。

ちなみに、教団の出版物ではこの聖句を根拠にして、「将来の進路を決定するときに、神のご意志よりも自分の好みが優先されていないかどうかをよく自己吟味するように」と教えています。


これまで申し上げてきたように、
神のご意志=教団の方針ですので、
自分のやりたいことで生きていくことは叶わず(その道では失敗すると言われる)、
教団の望む生き方が”正しい”と思い込み、生きていくことになります。


このパターンが非常に多いと思います。


① 信者自身の価値観に基づく選択を否定し、
② 教団の指示する(あるいはほのめかす)価値観に基づく選択を「あらたな正義」として教え込む

これを繰り返すことで、信者が自ら思考する力はどんどんなくなっていき、それと同時に「自分は本当は何がしたかったのか、自分は何が好きで、何が嫌いなのか」自体が分からなくなっていくのです。

いわば、自分が空っぽになっていくという感じです。

それを放置したまま活動を続けた結果、精神的にボロボロになってしまった人も少なくありません。

ある意味では、メンタルを壊してしまった人は健全と言えるのかもしれないと思います。
なぜなら、「この教えが自分の自由を蝕んでいる」としっかり感じることができているからこそ、拒否反応が出ると思うのです。


なので、もし活動を続けていてうつになってしまった
あるいは、何らかの精神的な不調をきたしてしまった方は
むしろ、自分を失っていない証として誇ってもいいのではないかと私は思っています。


長くなってしまったので、次回に続きます。(需要あるのかわかりませんが。。)


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