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脱会のステップ【第3章③アダルトチルドレンとの親和性】

宗教を辞めたいけれど、辞めることができないという方へ向けた脱会のステップを紹介するシリーズ。

私自身のエホバの証人という宗教団体での経験をもとにして書いております。

第3章では宗教団体の教義や信者として生活していく中で、どのような心理的な影響があるのかを解説しています。

本日はタイトルにもある通り、アダルトチルドレンとの関係性について書いていきたいと思います。


アダルトチルドレンとは何か?


私は心理学の専門家というわけではないので、厳密な定義ができるわけではありませんが、アダルトチルドレンを一言で言うならば、

子ども時代に大人にならざるを得なかったために、大人になって心理面、行動面で生きづらさを抱えている状態

と言えるように思います。(繰り返しますが、学問的な定義は専門家に譲ります)

子どもの時、すなわち幼少期において最も重要なのが、「親からの無条件の愛情」だと言われています。

子どもは生活のさまざまな場面で、失敗と小さな成功を繰り返しながら少しずつ大人になっていきます。

そこで大切なのが「どんな私でも愛してもらえる」という安心感であり、その役割を果たすのが親というわけです。

・ごはんを残してしまっても
・友達とけんかしても
・学校のテストで0点をとってしまっても
・かけっこでビリだったとしても

それでも、どれだけダメな自分であっても、ありのままを受け入れてくれる。

そんな親の存在が、自己愛・自尊心を育み、少しずつ自分でも「私は私のままでいい」という自信につながっていくそうです。


※これは「しつけをしない」ということとは全く違います。「しつけ」はふさわしくない”行動”を注意しますが、”その人自身の価値”を否定しません。


さて、このように書くと
・そんな完璧に子育てができる親なんて存在しない
という声が聞こえてきそうですが、

確かに、「無条件で子どもを愛する」というのはきっと想像以上に難しいのだと思います。私自身、子どもを育てた経験がないので、偉そうなことを言っていると思われてしまうのも無理はありません。

しかし、それでもやはり「条件付き」で愛情を注ぐことの危険性は指摘しておくべきであるし、それが子どもの将来に影響を与えうるということを知っておいていただきたいとも思います。

条件付きの愛、つまり「どんな私でも愛してくれる」ではなく、「〜ならば、私は愛される」というフィードバックを受け続けると、
結果として、「〜しなければ、私は愛される価値のない人間なのだ」という存在レベルの不安を抱えることになってしまうようです。


例えば、
よくドラマなどで描かれるシーンですが、
すごく勉強ができる子がテストでいい点をとった時だけ、親に褒めてもらうことができて、「勉強ができなければ、自分は愛してもらえないのではないか」という不安を抱えているケースなどがこの「条件付きの愛」にあたるでしょう。


宗教2世問題とアダルトチルドレンとの関係性


さて、もうお気づきのことと思いますが、
宗教2世の方でアダルトチルドレンの問題を抱えている人が少なくないのは決して偶然ではありません。

彼ら、彼女らが苦しんでいるのは、まさに「条件付きの愛情」で育てられたからであり、無条件で「私はここに存在していいんだ」という自信が弱いために生きづらさを感じているのです。

もちろん、宗教2世が100パーセントアダルトチルドレンになると言うことは言っていません。あくまで傾向の話です。


特に、エホバの証人の問題について絞ってみると、その愛が非常に条件付きのものとなりかねないリスクが大きいと言えます。

なぜなら、
「この宗教を続けなければ、親から愛してもらえない」
とかなりの確率で思うことになる
からです。


教団側は、「子どもは自分の宗教を自分で自由に選択できる」ともちろん言うでしょう。
しかし、実質選択肢がないような家庭も多いのではないでしょうか。

宗教を辞めたいと言えば、親は悲しみ、家庭によっては無視をされたり、傷つくようなことを言われたりすることは容易に想像がつきます。

実際にそのような扱いを受けて本当に苦しい少年・青年期を過ごした方々の体験がブログにたくさん載せられています。


もちろん、教団は「各家庭の責任であって、組織はそのようなことを推奨していない」と言うと思います。

ここにこの教義の罪深さがあると私は思っています


親の愛が子を苦しめる


エホバの証人の教えでは、「エホバの証人以外の人々は、来るべき神の怒りの日に滅ぼされてしまう」という終末論のようなものがあります。

ゆえに、親としては子どもに生きていて欲しい、生き残って欲しいという心からの願いから、子どもが教団にとどまって欲しいと強く望みます。

きっとそうした親の思いがわかるからこそ、「辞めたくても辞められない」という人々が相当いるのではないかと思います。
(これは配偶者が悲しむから宗教を辞められないというパターンも同様です。)

別に子どものことが憎くてそうしているわけではない、というのが余計にこの問題の複雑かつ悲劇的な問題にしていると言えます。


個人的には、
無条件の愛こそがキリスト教の神髄だと思います。
悪人すら愛する包み込む神の愛が、人を愛することの強さを教えてくれるのです。

しかし、そのキリストの教えに忠実であれと願う団体が、
「条件付きの愛」によって、多くの子どもたちを神から引き離してしまった。

厳しい言葉ですが、これは本当に罪深いことだと強く思います



対策:他者の課題を分離する


冒頭でも述べたように、この記事は「宗教を辞めたいけれども、何らかの理由で辞められない」という方を主な読者と想定して書いています。

きっと、辞められない理由の一つには
・信者である親や配偶者を悲しませたくない
・相手が自分のことを思っていることもよく分かっているからこそ言い出せない
ということがあるのではないでしょうか。


しかし、あえて書きますが、

それはあくまで親や配偶者の願いであり、
それはそれとして、
あなたは自由に自分の道を決める権利があります。

どうするかを決める→これはあなたの課題
そして、その決定に対してどう相手がどう反応するか→これは相手の課題

このように、課題を分離しましょう。

残念ながら、相手が悲しまないようにと相手の反応をコントロールすることはできません。相手は相手の感情があり、それを自由に表現する権利があります。

しかし、それと同じようにあなたは相手から何を言われたとしても、自分の信念に基づいて決定し行動する権利があります。

なので、これを一緒にしないようにしてほしいのです。



また、
自分の決定に自信が持てないから、
周囲の期待を振り切って自分の意思を貫くのが怖い
という気持ちもあるのではないでしょうか。

その気持ち、とてもよくわかります。


しかし、他人の期待に応えて人生を歩んだとしても、その責任を取るのはあなた自身です。

残酷ですが、誰もあなたの代わりにあなたの人生を生きてはくれません。


もちろん、すぐにこのように思えなくて大丈夫です。
少しずつ人生の主導権を自分の手に取り戻していきましょう


きっと、自分の選択で生きていくことができる日は必ずやってきます


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