ニーチェを考察する

善悪の彼岸にたつ哲人

「おもてなし」とニーチェ

主人道徳と奴隷道徳
主人道徳=ギリシャ的
奴隷道徳=近代的、キリスト的
奴隷道徳は、見返りを求める。真のホスピタリティは見返りを求めない、「贈与」である。いわゆる経済的交換でなく、社会的交換。リベラリティ=気前の良さ。一方的にあげれば、主人道徳になる。相手の為ではなく、自分満足のためにやっている、という論理が成りたつ。
たとえば福祉の現場。介護士と被介護者は完全なる奴隷関係。サービスはサーバント(奴隷)を意味するので奴隷化の一歩である。この奴隷化を「顧客本位」という言葉で粉飾しているのだ。
道徳の系譜学


a)貴族的評価と僧侶的評価;

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b)ルサンチマン(Ressentiment)
生の基本構造;現実を超えてより多くのものを求める(mehr Leben, mehr als Leben)
現実の生に対する不満=世界が今のようでなく、別のようにあってほしいという不満
生肯定的なもの(→強者)への反感(恨み)の感情=Ressentiment
絶対的な価値(=神)を立てることによって、強者の現実肯定的な態度を、中途半端なものとして斥ける。そこには強者への復讐の感情がある。
c) ニヒリズム
「ニヒリズム(Nihilismus)」とは、「無(nihil)である」、という立場をいう。世界が存在する意味、自分が生きている意味、それは無だ、とニヒリズムは言う。
いまニヒリズムが現われざるを得ないのは、我々が世界の内に、そこにはない「意味」を探し求めたからである。
「キリスト教の道徳」という仮説は、どんな利益をもたらしたか?


1)それは、人間に絶対的価値を与えた。生成と消滅の流れのうちにある人間の卑小さや偶然性に反対して。


2)それは、神の弁護者の役割を果たした。禍害は十分に意味があると思われたのである。


3)それは、絶対的価値についての知を人間に与えた。

4)それは、人間が人間である自分を軽蔑しないように、生に敵対しないように、認識することに絶望しないように、取り計らった。つまりそれは、自己保存の手段であった。」

末人;最後の人間たち
「畜群」―家畜化された現代人の生態;人間の矮小化、創造力の喪失
「最も軽蔑すべき者達について私は語ろう。それは末人(最後の人間)だ。
人間の土地はまだ十分に豊かである。しかしこの土地はいつか不毛になり活力を失くすだろう。高い木がそこから生えてくることは出来なくなるだろう。…
私は君達に言う、踊る星を生むことが出来るためには、人は自分のうちに混沌を持っていなければならない。私は君達に言う、君達は自分のうちにまだ混沌を持っている。
災いなるかな! 人間がいかなる星も生まなくなる時代が来る
災いなるかな! 自分自身を軽蔑できない、最も軽蔑すべき人間の時代が来る。
見よ! 私は君達に末人を示そう。
『愛って何? 創造って何? 憧憬(あこがれ)って何? 星って何?』―こう末人は問い、まばたきをする。
そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。末人は全てのものを小さくする。この種族はのみのように根絶できない。末人は一番長く生きる。
『われわれは幸福を発明した』―こう末人たちは言い、まばたきをする。
彼らは生き難い土地を去った、温かさが必要だから。彼らはまだ隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける、温かさが必要だから。…
ときおり少しの毒、それは快い夢を見させる。そして最後は多量の毒、快い死のために。…
人はもはや貧しくも豊かにもならない。どちらも面倒くさすぎる。支配する者もいないし、従う者もいない。どちらも面倒くさすぎる。
飼い主のいない、ひとつの畜群! 誰もが同じものを欲し、誰もが同じだ。考え方が違う者は、自ら精神病院へ向かう。」(「ツァラトゥストラの序説」5)


超人;自己肯定と超越
「聞け、私は君達に超人を教える。
超人は大地の意義である。君達の意志は、こう言うべきである、超人が大地の意義であれ、と。
兄弟たちよ、私は君達に切望する、大地に忠実であれと。君達は地上を超えた希望を説く人々を信じてはならない。彼等こそ毒の調合者である。
かつては、神を冒涜することが最大の冒涜だった。しかし神は死んだ。そして神とともに、それら冒涜者達も死んだのだ。今日では大地を冒涜することが、最も恐るべきことである。知り得ないものの内臓を、大地の意義以上に崇める事が。

まことに、人間は不潔な河流である。我々は大海にならねばならない。汚れることなしに不潔な河流を呑みこむことができるために。
聞け、私は君達に超人を教える。超人はそういう大海である。その中に君達の大いなる軽蔑は流れこむことができるのだ。

私は愛する、人間たちの上を蔽う暗黒の雲から一滴一滴と落下する、重い雨粒のような者たちを。彼等は稲妻の到来を告知する、そして告知者として滅びるのだ。
見よ、私は稲妻の告知者だ、雲から落ちる重い雨粒だ。この稲妻こそ、すなわち超人である。」
(「ツァラトゥストラの序説」)


永劫回帰;ニヒリズムと運命愛
「最大の重し―或る日、デーモンが君の最も淋しい孤独の中まで忍び寄り、こう言うとしたらどうだろう。『お前が今生きている、これまで生きてきた、この生を、お前はもう一度、さらには無限にわたり、繰り返し生きなければならない。何も新しいものはない。あらゆる苦痛とあらゆる歓び、あらゆる思念とあらゆる溜息、お前の生の言うに言われぬありとあらゆるものが些大もらさず、戻ってくるのだ、しかも全てが同じ順序で。―この蜘蛛も、木の間をもれる月の光も、今のこの瞬間も、私自身も。存在の永遠の砂時計は、そしてその中の砂粒にすぎないお前も、何度も繰り返しひっくり返されるのだ。』―君は地に身を投げ出し、歯軋りをして、こう語ったデーモンを呪わないだろうか?それともデーモンに、『お前は神だ。これより神々しいことは聞いたことがない!』と答える程の、とてつもない瞬間をこれまでに体験したことがあるだろうか?」
もう1度、「おもてなし」とニーチェでは真の「おもてなし」とは何か?
奴隷化を避け、主人の道徳となるためには距離感が重要。「労働」と割り切ると、そもそもおもてなしが成立しない。反対に「無償の行為」とすると、奴隷化する。報酬があること、さらに交換可能性があることが大切。「かけがえのない存在」になってはいけない。かけがえある関係になること。親密な他人が理想である。親密な家族でも、他人行儀な他人でもダメ。ここが最も難しいところである。

しかし、人間は奴隷状態でいたい願望がある。相手のものになってしまう、言いなりになるほうがよほど楽で、快楽になる。

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