菊池寛 父帰る を考察する

共同体について

この戯曲は芥川龍之介はじめ、一般市民から知識人、文豪までその結末に涙を流した名作と言われている。これを小林秀雄は、「一般人も、知識人も同化し一般大衆の一員となった」と書いたくらいだ。

菊地寛のテキストは「共同体」(運命共同体)の要素が色濃いことが特徴。父帰るでは、長男が父を最後に呼び戻すところが物議を醸す。父子の世代的な闘争の不徹底(マルクス主義者の議論)。しかし、家庭のような共同体では話が異なる。

学歴が賢一郎の重となる。学歴の低さが彼の出世の妨げとなる明治の制度の現実。学歴は選良に与えられた特権的なもの。
さらに本家VS分家の軋轢、田舎から都会へという流れで、学歴は与えられる遺産の一部で、学歴が出世や身分を保証した部分が多かった。
故に賢一郎の出世の断念は、身分=金銭の断念を意味する。そのとき、金銭を超える上位概念としての心が、失われた父を迎え入れることがこの戯曲の肝ではないか?

共同体では前面に金銭が出るのではなく、身分が前に出て金銭を隠ぺいする。(家長制度)しかし、共同体の維持には、資本と権力が不可欠。現実には、資本を集め使う能力のないものには、権力行使もできないのだ。

賢一郎はまさにこれで、新制度で取り残される切なさは、この中で生きる以上は、山師のような父を迎えざるを得ないという事実である。この戯曲の結末は、父子の和解や温かいヒューマニズムの延長で読まれることが多いが、実は資本の論理による冷徹な関係の交換である。

形式的、絶対的な封建的家長制度から、小市民の立場からの家長制度。すなわち、一家の経済を支える者こそを中心とした家長制度に移行せざるを得ないことを賢一郎を通じて言わしめている。

父が蒸発していた間の賢一郎は「代理」として機能。しかし、代理は身分と金銭の保証があって初めて成り立つのである。これがないと、代理は、本当の父には永遠になれないのである。
このテキストは、学歴と身分を通じて蓄積される家庭と言う共同体の資本を子供が再生産するというプロセスから除外された「代理父」のドラマ。父代わりではなく、父の代わりをするとは何か?を問うているドラマなのだ。

菊地文学は、主従、親子、友人などの二対関係を対面的な相互行為で描いていることが多い。その中で。当事者による問題解決が機能的に発揮されている。ここでは、二者の心の内面が焦点化され、心の美しさやヒューマニズムばかりが、読後感想文で言われる傾向が強い。しかし、実は心を媒体(金)とする共同体の現実が鋭く描かれているところが彼の文学の素晴らしさである。

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